夜行列車の想い出

現在ではサンライズ以外廃止になった定期夜行列車だけど過去の夜行列車・想い出乗車レポートと夜行列車に纏わる懐かしい夜行列車ブログです(1975年以降から)

急行 かいもん4号(自由席)

このブログも前々作、寝台特急はやぶさ」(前編・後編)に続いて前作、急行「日南4号」に引き続き2019年12月で消えてしまったyahooブログで書いていますが簡単な模写でデーターも不備が多く、一緒に旅をしたM君が生前に纏めて送ってくれた文章を元に新規で書き下ろしたものです。

 

1978年7月30日(月曜日)、普通2522列車~急行「日南4号」で門司港駅に到着した僕とM君は長崎本線佐世保線松浦線筑肥線他などを廻り、夜の門司港駅5番線で下り夜行急行「かいもん4号」の入線を待っていた。日曜日の上り夜行列車と違って、平日の下り夜行列車はサラリーマンの遅い帰宅の足として博多くらいまでは混雑しそうであるが今回は編成真ん中の自由席は混みそうなので敢えて外して先頭車の1号車乗車口に並んでいると機関車が後押しする推進運転(これを推進運転と言うのかは不明?)で急行「かいもん4号」の客車が入線した。

 

編成は先頭からスユ16+マニ50+①スハフ12(自由席)+②オハ12(自由席)+③オハ12(自由席)+④オハフ13(自由席)+⑤スハフ12(指定席)+⑥ナハネ20 1000(B寝台)+⑦ナハネフ22 1000(B寝台)の7両編成に郵便車と荷物車が1両ずつ連結。少し待たされて扉が開いたので自分達は1号車のスハフ12-67に乗車して車掌室側はディーゼル発電機の音が気になるのでやや2号車よりのBOXを陣取ってから牽引機を見に行くと鹿児島機関区のED76-54を確認。今夜の「かいもん」指定券の売上げ状態を確認しに行ったM君の報告によればB寝台も指定席も多数余っているとの情報である。

 

門司港駅からの乗車は思った以上に少なく、21:39に発車するとすぐに山陽本線と合流して門司駅(21:46-57)に到着すると早くも乗車があるけど、17分停車なので自分達は缶ビールを購入して乾杯の続きをしながら今夜も楽しむ。12系客車のテーブルに缶ビールが4本に煙草が2~3箱散乱していると一般乗客は近寄らない事は過去の夜行列車旅で覚えた事なのである意味気が楽だ。門司駅を発車すると6分で北九州市の中心駅でもある小倉駅(22:03-22)に到着すると下車する乗客も乗車する乗客も居たけど下車した乗客がやや多そうに思える。

 

小倉駅を発車すると戸畑(22:29)・八幡(22:36)・黒崎(22:41)・折尾(22:47-49)と停車していくと九州最大の駅でもある博多駅(23:29-0:11)に到着すると車内の乗客は殆ど博多駅で降りてしまった。繁忙期になると臨時夜行急行「かいもん51号」(博多23:23⇒5:42西鹿児島)や臨時特急「有明51号」(博多0:22⇒5:48西鹿児島)の設定もあるようだが今夜は運転がないようである。博多では42分停車だったが車内は空席も多く夏休み期間中でも月曜日は人手が少ないようだ。自分達も1BOX占領して前の席に脚を伸ばして早寝の準備をして安む。

 

既に車内は減光されているが夜行3連泊中なので疲れていたためかすぐに寝てしまった様である。睡眠中の停車駅並びに時刻は以下の通り・・・鳥栖(0:36-41)・久留米(0:48-56)・大牟田(1:18-19)・熊本(2:00-11)・八代(2:47-3:15)・水俣(4:05-08)・出水(4:25-28)・阿久津(4:51)・川内(5:21-25)・串木野(5:39)。目が覚めるとやや遠いけど海沿いを走っているようで日置郡(現日置市)の東市来駅を通過する頃には目と頭もシャキッとしてきた。伊集院駅(5:58)くらいでM君も起きて2人で煙草を吸って、紫煙を上げると今日も頑張るぞとヤル気が漲って来た。

 

そして下り急行 「かいもん4号」は指宿枕崎線と合流して6:16、西鹿児島駅へ到着したのである。今日は指宿枕崎線大隅線、日南線を走破して西鹿児島駅から徒歩数分でアクセスできる破格値だった「ステーションホテル琥珀」(シングル・オール込み2700円 鹿児島市西田2-27)というビジネスホテルにM君と泊まった・・・因みに当時の西鹿児島駅前にあった鹿児島東急INがシングル5500円だったから2700円の価値がお分かり頂けるだろう。翌日は寝台特急「富士」で帰る。

 

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

急行 日南4号(自由席)

このブログも前作寝台特急はやぶさ」(前編・後編)に続いて2019年12月で消えてしまったyahooブログで書いていますが簡単な模写でデーターも不備が多く、一緒に旅をしたM君が生前に纏めて送ってくれた文章を元に新規で書き下ろしたものです。

 

1978年7月29日(日曜日)、「はやぶさ」で西鹿児島駅に到着した僕とM君は周囲のローカル線を乗り歩いて夕飯をすまし、西鹿児島駅のホームで今宵の上り夜行急行「日南4号号」を待っていた。改めお断りしておくが急行「日南4号(502列車)」になるのは宮崎から門司港西鹿児島から宮崎までは普通2522列車として運転される。夜行急行「日南」は1978年3月16日(上りは17日)より10系寝台車+旧客座席車から20系1000番台2両+12系客車5両に変わっているので対面が楽しみである。

 

18:35くらいに宮崎から急行「日南4号」となる普通2522列車が入線すると早速2号車となるオハ12-59(鹿カコ)へ乗車すると車内の冷房が気持ちいい。真ん中くらいの進行方向右手のBOXを陣取り、先頭へ行くと宮崎まで牽引する宮崎機関区のDF50-533が連結されて独特のズルーザーエンジン音を奏でていたが、実はDF50を実際に生で見たのは今回の旅が始めてだった。九州旅2回目のM君情報によれば足を伸ばして寝れるのは急行列車になる宮崎からとの事でそれまでは各駅停車の普通列車ゆえ、乗降りが多いとの事。あまり混雑しない中、1BOXに1名くらいの乗車率で普通2522列車は西鹿児島駅を定刻19:13に発車。

 

編成は前から⑦ナハネフ22 ⑥ナハネ20 ⑤スハフ12 ④オハフ13 ③オハ12 ②オハ12 ①スハフ12 最後尾には郵便車と荷物車の合造車スユニ61が連結されてる。なお7・6号車はB寝台車で5号車は指定席、4~1号車は自由席である。ナハネ20とスハフ12の連結部はホームから見ると屋根の高さに相違があるため、段差が何とも愉快で笑ってしまう。鹿児島(19:19-24)・隼人(20:04-09)「普通2522レの小さな駅は割愛します」などに停車しながら乗客が乗降りするけど本日は日曜日なので仕事帰りの乗車がほぼ皆無で西鹿児島へ買物や食事しに行ったファミリーの帰りが目立つ程度だ。

 

財部~五十市で鹿児島県から宮崎県に入り、宮崎県に入って3個目の停車駅となる都城駅(21:21-25)に到着すると多くの乗客が乗り込んできた。都城駅日豊本線以外に吉都線志布志線の始発駅や基点であり、交通の要所なのである。4分停車を終らした普通2522列車は次第に街を抜けて山之口駅から山間部に入り、大きなSカーブを走っているのが何となく分かるけど日豊本線の難所でもある青井岳で蒸気機関車時代は苦労したらしい。峠を降りると少しずつ街の灯りが見えて田野駅清武駅南宮崎駅などに停車して大淀川を渡ると宮崎駅(22:43-59)に到着すると9割近くの乗客が下車した。

 

宮崎駅では16分も停車するのでやっておきたい事は多数ある。DF50からED76への牽引機交代、そして飲み物の購入だ。先ほどの4分停車だった都城駅ではビールが買えなかったので宮崎駅では何としても補充したいものだ。取り合えず先頭に行くとDF50-533は外され、代わって大分運転所のED76-64に連結されるシーンをカメラに収めて冷えた缶ビールを求めて駅前を彷徨うとキリンビールの自販機を見つけて500mlのロング缶を購入(当時は煙草でも酒類でも自動販売機で深夜に買う事が出来た)。流石に南国宮崎は夜間でも暑くてビール探しだけで大汗をかく始末だったけど12系の冷房が有り難い。

 

宮崎駅からの乗車客もあったけど1BOXに1名程度で翌日は月曜日だから利用者は少ないようで22:59に普通2522列車から急行「日南4号」に変身して宮崎駅を発車した。西鹿児島駅から宮崎駅の各駅停車の旅、3時間30分で飽きてしまい、明日の朝も早いからもう寝ようかとM君と話して宮崎駅で買った缶ビールを飲み干して煙草を一服吸ってから就寝準備に入った。お互いに足を出し合って寝るだけなのだが車内は減光されたので2人で休む。列車は宮崎駅を出ると宮崎神宮(23:06)・砂土原(23:13)・高鍋(12:32)の順に停車するがいつの間に寝てしまったようである。

 

就寝中の停車駅と時刻・・・日向市(0:08)・南延岡(0:32)・延岡(0:36-44)・佐伯(1:54-59)・津久見(2:21)・白臼(2:32)・坂野市(2:58)・大分(3:13-4:09)・別府(4:20-21)・豊後豊川(4:34)・日出(4:46)・宇佐(5:18)・柳浦(5:26)・中津(5:46)・宇島(5:56)・行橋(6:13-14)。深夜にトイレで起きたら津久見駅で下り急行「日南4号」とすれ違うシーンが目撃出来たが昨夜は爆睡してたようで朝気が付いたら小倉駅の手前で車内がそこそこ混雑していたのは知っていたけど小倉(6:37-39)でも寝たフリをして惚けていた。流石に門司駅(6:46-58)まで来ると限界でM君と朝から派手に煙草の煙を上げる。

 

通路にいたオバサンが早朝から煙草吸うなと言いたそうな顔をしてるけど当時は急行列車は煙草を吸えて当たり前だったのに言いたくても言えない奴を逆手に取って遊んでいた。門司を発車すると約8分で終着駅の門司港に到着するが急行「日南4号」の車両が今夜の下り夜行急行「かいもん4号」に変わるらしい。定刻7:06に行き止まり式ホームの門司港駅に入線した・・・普通2522列車を含めると476.9km、11時間50分の旅でした。

 

       ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

寝台特急 はやぶさ(後編)

3月8日にUPした寝台特急 はやぶさ(編)の続きとなります。

 

埴生駅長府駅の間では待望の瀬戸内海が見えたけど新下関駅幡生駅のちょうど中間で京都から来た山陰本線の線路と合流して幡生駅構内に国鉄幡生工場(現下関総合車両所)が見えてくるといよいよ本州最西端の下関駅(7:54-58)に到着した。ヒルネ乗客が乗って来る可能性もあるので窓際席に荷物を置いて番をさせ、M君と先頭を目指すと東京駅から遥々1096.5㎞もの長丁場を牽引してきた東京機関区のEF65-1108が外れて門司機関区のステンレスコルゲートが美しいEF81-301を連結したけどHMが付いてないため、盛り上がりに欠けるようだ。

 

自分自身北海道は4回、東北も3回旅してるのに西は岡山から先は処女地であり、EF81の300番台も初めて見たのである。自販機で缶飲料を購入してから6号車のBOXに戻ると誰もいなくて一安心、やがて「はやぶさ」は関門海底トンネルで関門海峡を越えてトンネルを出てすぐのデットセクションにてAC20kV・60Hzへ切替えて九州初めての駅もある門司駅(8:06-11)に到着。この駅でも先頭に移動してEF81-301が外されると変わりに赤いボディの交流機ED76-52(鹿児島機関区)が連結されるといよいよ発車なので車内を歩いて6号車へ戻ると車窓から海が見える。

 

北九州市の中核部である小倉駅を通過すると周囲に工場や大きな煙突が見えて北九州の工業地帯を走ると山手線の秋葉原駅みたいに1階と2階のホームがクロスした状態とそっくりな折尾駅鹿児島本線若松線筑豊本線)を一瞬に通過。車内販売が来たのでホットコーヒーを購入して飲みながらM君と車窓を眺めるが夜は上段寝台への梯子となる畳んだアルミの棒がやはり邪魔である。遠賀川を渡ると市街地を抜けて山間部から田園地帯を走ると今度は福間駅くらいから住宅地が広がってきた。香椎線と合流すると松本清張推理小説"点と線"の舞台となった国鉄香椎駅を通過して吉塚駅では篠栗線と勝田線と合流。

 

そして山陽新幹線の高架が近付くと博多駅(9:10-15)に入線、多くのヒルネ客が乗る可能性もあるので窓際に荷物を置いて5分停車の博多駅ホームを歩いて売店で辛子明太子を土産に求める。車内に戻るとヒルネ客は増えていたけど博多から熊本方面の優等列車は宮崎行きの特急「おおよど」(8:25発)と熊本行きの急行「ぎんなん1号」(8:58発)以来なのと前を走ってる「さくら」は鳥栖から長崎本線に入ってしまうため、「はやぶさ」のヒルネは需要がありそうだが我々のBOX(コンパートメント)はテーブルに煙草にライターが散乱してて煙草臭く、誰も寄り付かない。

 

博多を発車すると竹下客車区と竹下気動車区が見えて南福岡駅では門ミフこと、南福岡電車区の横を通り、581系583系485系や475系・457系などが停車しているのを発見。更に原田駅の手前で筑豊本線と合流して原田~基山間で福岡県から佐賀県へ入り、基山駅の先で甘木線と分かれると「はやぶさ」は鳥栖駅を通過して長崎本線を分かれ、筑後川を渡って久留米駅(9:47-48)へ入線した。終着・西鹿児島駅まで残り5時間弱であるが始めての九州は自分にとって印象的でもあり、地図を片手に車窓を眺めたり、九州は3回目のM君からガイドしてもらえてあれから43年の月日が過ぎたけど記憶に残っている。

 

久留米駅を発車すると久大本線と分かれて羽犬塚駅で矢部線と分かれ、更に瀬高駅では佐賀線と分岐すると大牟田駅(10:16-17)に到着。荒尾駅を通過すると待望の有明灘の海が見えてくるが通路側なのが残念である。海が見える区間は短いので昼食の弁当は何にするか時刻表で駅弁を探すと種類は少なそうが熊本駅では5分間停車するのでゆっくり探すとしようなんて考えていたら列車は熊本駅(10:58-03)に停車した。熊本駅では「はやぶさ」の付属編成(7~13号車)を切り放して身軽になるけど我々は昼ご飯用の駅弁探しで熊本駅の中華弁当(500円)を購入。

 

列車は熊本駅を発車すると豊肥本線と分かれて左手に熊本機関区と熊本客貨車区が見えてきたが多くの旧型客車などが停まっていた。当時は鳥栖から西鹿児島まで延々と8時間半以上走る長丁場の旧客の客車列車もあって駅弁を買うと食べてしまいたくなるけどまだお昼には早いので我慢。八代駅(11:33-34)を発車して日奈久駅を通過すると進行方向右側に待望の海が見えてその先には天草の島々が見えて来たので熊本駅で買った駅弁でお昼にする。中華弁当は焼売、春巻、酢豚など中華の副菜が沢山入った豪華中華幕の内弁当といったところ。

 

駅弁も満足したが有明灘の海と天草に更に沖合いに見える島原も見えて初めての九州なのに天気に恵まれてラッキーであった。国鉄山野線と合流すると水俣駅(12:26-28)に停車して袋駅を通過するとすぐに熊本県から最後の鹿児島県に入り、出水駅(12:45-52)に到着した。出水と言えば丹頂鶴の飛来地でも有名だけど今の時期はシベリアへ帰っているため一羽も見ることができなかった。上り特急「有明(1014M)」を待っているとキノコ型クーラーばかりで先頭車と最後尾がボンネットタイプの485系がやって来た。出水駅を発車した「はやぶさ」は折口駅を通過すると海沿いに出て暫し、海を眺めていると阿久根駅(13:15)に到着。

 

阿久根駅を発車すると「はやぶさ」の次の停車駅は川内駅だが時刻表に掲載されてない薩摩高城駅に停車、実は下り「はやぶさ」が深夜の兵庫県内で上り「はやぶさ」とすれ違っているが、ここ薩摩高城駅は二度目となる上り「はやぶさ」とのすれ違い駅で運転停車である。先に下り「はやぶさ」が到着して上り「はやぶさ」の通過を待つ形ですれ違うのであるが1乗車列車中に2回も姉妹列車とすれ違うのは寝台特急では「はやぶさ」と「富士」だけである(夜行急行では「きたぐに」も同じである。6号車の窓からすれ違いを待って急いでオハネフ25の展望区画で離合した上り「はやぶさ」を見送った。

 

薩摩高城駅での運転停車を終えると海から内陸部へ列車は移動するので東シナ海とはお別れだがローカルな景色から少しずつ町らしさが広がってくると国鉄宮野城線と合流して下り「はやぶさ」最後の途中停車駅でもある川内駅(13:53-54)に到着した。泣いても笑ってもあと28分で終着駅の西鹿児島駅「現鹿児島中央駅」(14:42)なので21時間57分・走行距離1518.2kmの長旅もあと僅かである。伊集院駅の手前では鹿児島交通・枕崎線の線路が近付き、車内では車掌が乗り換えの案内放送も始まり22時間近く住んだこの列車ともお別れの時がやってきた。長い道中だったが無事西鹿児島駅に到着。

 

ホームに降りて最後尾のオハネフ25-117のテールマークを眺めながら今回の長旅を振り返りながら自分達は乗り換えのホームに消えた。今回は人生初めての長距離ブルートレインの旅という事で伝えたい事が多くて余りにも長くなり過ぎたので前編と後編の二部制に分けたので文章が読みづらくなり申し訳ありません。

 

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

寝台特急 はやぶさ(前編)

移転する前のyahooブログでは簡単な感想を綴っただけの文章で詳細時刻や乗車客車番号は全く掲載しなかったお粗末なブログであったが一緒に「はやぶさ」へ乗車したM君の一周忌も過ぎているため、生前にこのブログの資料を送ってもらった弔いを兼ねて当時の資料を整理して新たに書き直したいと思う。機会を見てHatena Blogでも1977年10月に乗車した「瀬戸」や1978年8月に乗車した「富士」のフル乗車レポートを新たに書き直してみたいものである。

 

1978年7月29日(土曜日)土曜日の大学講義は午前中で終わりのため、一旦帰宅後に東京駅13番線ホームの南口階段付近でM君と待ち合わせた。僕にとっては初めての九州ブルトレ旅で気分が高揚してて約束時刻より早く着いたがM君も同じ様で顔を見合わせて笑っていたら隣の12番線ホームには1列車こと「さくら」が15:53に入線。さくら・はやぶさ・みずほ・富士・あさかぜ・出雲1・4号・瀬戸の牽引機は昨日(1978年7月28日)から東京機関区のEF65P(500番台・旅客用)から新製配置したEF65PF(7次車1096~1116)へ置き換わっており、「さくら」の牽引機はピカピカに光った新車のPFだった。

 

そして続いて13番線には我々が乗る「はやぶさ」の回送が入線する時刻(16:25)になるともしかして牽引機はEF65Pだといい記念になるのだが希望的観測の夢は儚く消えてPF1108がはやぶさのHMを付けてPF独特の甲高いホイッスルを鳴らしながら入線した。自分達は指定券に表記のある基本編成の6号車で待機していると約1年10ヶ月に投入された24系25形の新しい車両がホームに入り、6号車の扉が開くと早速オハネフ25-117に乗り込み7番下段と8番下段に分かれて二人とも窓際の席をキープする。指定券はM君が指定券発売開始の7日前朝から並んでくれて入手してもらった。

 

先頭に機回しした牽引機を見に行くが東京駅発着のブルートレインはEF65Pの方が似合うと思うが決してPFが嫌いな訳でもなく、ただ宇都宮運転所のPFはスノープロウや尾灯上にある通風孔があり、パンタも大きいので好むがPF4次車以降は好きになれない。売店で缶ビールや飲料を買ってから6号車内に戻ると乗客は殆ど増えてないのは東京駅の発車時刻が早いためで静岡駅、名古屋駅などから乗り込むのであろう。16:45、東京駅発車を祝って缶ビールで乾杯するが、2人とも20歳を迎えてるので大手を振って車内で酒を飲んだり煙草を吸う事が出来る(苦笑)。

 

24系25形に乗るのは1977年10月の「瀬戸」以来2度目になるけどやはり2段ハネの25形はベッドに座っても頭上が高いのがいい。横浜駅(17:11-11)を発車すると6号車にも数人が乗り込み、大船観音が見えてくると「はやぶさ」より7分早く東京駅を先に発車した337M静岡行きを大船駅で退避させ、相模川(馬入川)を渡って平塚駅を通過した頃に営業開始のオープニング放送が流れたのでM君と8号車の食堂車へ行くとオシ24-5だった。0系新幹線や在来線特急の食堂車は食べた事があるものの、寝台特急の食堂車は初めてである。海が見える進行方向左側のテーブルに座り、メニューを見て考える。

 

まだ夕飯には時間的に早いので瓶ビールを注文して皿うどんをツマミに飲んで〆は焼肉定食なんかを頼んでしまうところがまだガキであった。帰路の「富士」では予定どうり関門定食を食べる事が出来たからいいがまだまだ甘いようである。小田原駅を過ぎると夕方の雰囲気になるが相模湾を見ながら食堂車でお酒や食事をする事に心地よさを感じて完全に嵌り、自分の鉄道趣味から関西発着九州方面の寝台特急は眼中から消えてしまったほどですっかり東京駅発着・食堂車営業中のブルートレインに魅せられてしまったのだ。

 

当時の食堂車夕食用の主なメニューは以下のとおり・・・ちゃんぽん 400円、皿うどん 400円、焼肉定食 750円、関門定食 800円、一口カツ定食 850円、幕の内 850円、グリルチキン定食 1000円、ハンバーグ定食 1000円、うなぎご飯 1100円、ミックスフライ盛り合わせ定食 1100円、シチュー・ビーフ定食 1200円他。小田原駅を通過して左手に相模灘の海が見えて来ると根府川の白糸川橋梁を渡って最高のロケーションを食堂車の窓から見つつ、食堂車を堪能していると熱海駅を通過する頃から夕暮れが迫って丹那隧道を出た頃には少しずつ漆黒の闇が迫って来た。会計を済まして自分にとっては初のブルトレ食堂車に充分満足して6号車に戻ると列車は静岡駅(19:13-15)に停車。

 

横浜駅発車以来、2時間2分もノンストップで走っていたのだが静岡駅では8名くらい乗り込み、乗車する時間帯もいいようだ。車内販売の冷えた缶ビールを飲みながら煙草を吸ってM君と鉄分の濃い話をしながらも明日「はやぶさ」が西鹿児島(現鹿児島中央)駅へ到着した後の予定などを話し合っていると静岡駅を出て2時間20分経過した次の停車駅でもある名古屋駅(21:35-40)に到着である。そういえば汐留駅を15:42に発車した熊本行き急行荷物列車「荷35列車」を大府~名古屋間で抜き去ったようだ。宮原機関区のEF58と浜松機関区のEF58重連の姿を目に焼き付ける事ができなくて残念。

 

既に車内販売は終えてる時間だし、当時は列車内に飲料自販機などなかったので5分停車を利用してホームの自販機で好みの缶飲料を購入してから車内に戻ると我が6号車も多くの乗車があって4割強くらいの乗車率になった。少し早いけど寝台をセットして浴衣に着替えて寝転がって小声でM君と話していたら岐阜駅(22:02-03)に到着したので明日も早いので就寝する。以降は就寝中の停車駅時刻・・・京都(23:35-36)・大阪(0:08-12)・三ノ宮(0:36)・糸崎(3:35)・広島(4:41-45)・岩国(5:19-20)。朝起きたのは6時少し前でトイレに洗面とハミガキから戻ったたらM君も起きていたので事を済まして着替えた。

 

はやぶさ」の基本編成は1号車のオロネ25を除いて厚狭からヒルネ対象になるのでその前に朝食を済ませようという考えで6:15くらいに8号車の食堂車(オシ24-5)へ行くと食堂車スタッフと車掌が朝食後のお茶を飲んでいたが少し待って6:20過ぎに向かい入れてくれた。朝のメニューは和朝食と洋朝食しかないので2人で和朝食を選んで運ばれて来た時に車内放送で食堂車オープンの放送が入り、続いて車掌のおはよう放送に代わった。和朝食はお料理盛り合わせ(鮭、蒲鉾、玉子焼き、山葵漬)にご飯・味噌汁・焼き海苔・香の物で別会計のコーヒーでお腹満足。

 

いつも自宅の朝はパン派のM君も東海道ブルトレ食堂車の和朝食は美味しいとベタ褒めだけど、会計して6号車に戻ると寝具やリネン類を上段寝台(結局朝までノンゲストでした)に投げ込んでカーテンを畳み、座席にするとは小郡(現新山口)駅(6:51-52)へ滑り込んだ。小郡といえば翌年の夏から梅小路機関車館で動体保存されてる蒸気機関車を整備して山口線でSL列車が運転されるらしい。小郡駅を発車すると30分で次の停車駅でもある厚狭駅(7:22-23)に到着するが6号車にはヒルネ客が数名乗ったけど早朝から2人して煙草の煙を上げている我々のBOXには誰も来ない(苦笑)。

 

今回のブログは物凄い文字数が増えたので来週へ後編として続きます。続きは1週間後に「寝台特急はやぶさ(後編)」としてUPします。

 

       ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

 

🍴夜行列車の味・東北編1🍱

2020年12月21日からスタートした新企画の🍴夜行列車の味🍱ですが2021年1月18日UPに続き、第3部として本日は東北編1として東北本線常磐線を走った夜行列車で味わった夜行列車の味覚を紹介したい。奥羽線羽越線は東北編2として3月か4月の何れかに紹介してゆきたいと思う。常磐線東北線のバイパス線として多くの夜行列車が走っていた1970年代から1980年代前半は深夜に駅弁を売る駅が多く、夜行列車だけでも数え切れないほどの本数が確保されていた。深夜に寝ている客が多い寝台特急は駅弁屋も相手にしないけど座席夜行は深夜でも起きてる乗客も多いため、固定客も少なくないようである。

 

前回は北海道だったので今回は北東北の青森駅から開始しよう。上り青函連絡船6便に接続していた青森23:59発の上り寝台特急はくつる」や青森0:03発の急行「八甲田」が発車するまで営業していたホームの稼動売店では夜遅くまで売っており、自分も残り僅かな帆立釜飯や他の駅弁を当時まだ旧型客車や12系だった急行「八甲田」の車内で頂いたのは思い出深い。更に東北線を南下すると14系になった下り急行「八甲田」が盛岡駅に到着すると朝6時前なのに3社の駅弁メーカー(村井松月堂・むつ弁・伯養軒)が駅弁山積みのワゴンで朝食を売ってお世話になった人も多いだろう。

 

さらに早朝というか、未明の4時半に一ノ関駅では下り急行「八甲田」の乗客のために暖かい駅弁を提供していた。本件は1993年11月19日に乗車した廃止が近い、下り「八甲田」の想い出乗車レポートとして2019年11月14日にブログUPして紹介しているが作りたての松茸弁当はとても美味かった。急行「八甲田」が臨時になってから多少時刻があったけどその後に松茸弁当などを売っているのかは不明である。仙台駅は下り夜行急行も上り夜行急行でも寝ている時間帯ゆえ、深夜に駅弁を売っていたのかは失念しており、詳細は不明である。

上記1993年11月19日乗車の惜別「八甲田」の記事 

https://hokutosei-95.hatenablog.com/entry/2019/11/14/042009

 

更に東北線を進み、福島駅でも1982年くらいまでは深夜帯に夜行列車の乗客向けに駅弁を提供していた駅でワゴンを押した業者が数名でホームで売っていた。福島駅は多くの夜行列車が発着(「八甲田」23:12-14・「津軽1号」23:45-53・「おが」1:35-2:01他多数)していたし、特に奥羽線へ入る急行「津軽」や「おが」は牽引機を交換するため、長く停車する列車が多いので駅弁意外にビールや飲み物補給するのには便利な駅であった。黒磯駅も夜遅くまで駅弁をホームで売っていた駅であるが駅到着するとすぐに先頭まで移動してEF58(のちのEF65PF)からED75への機関車交換があるための見物で駅弁を買う機会が無かったのである。

 

しかし上り夜行列車の黒磯駅到着は朝食時間に都合よく、「津軽4号」7:35-42、「八甲田」8:26-36と朝飯時間にピッタリなのだ。私がよく利用したのは九尾釜めし、九尾寿司、高原肉めしで駅弁の立売りとは別に味噌汁代わりのなめこ汁の立売り人が大きなヤカンを持ってホームで立売りしてたため、窓を開けて駅弁やなめこ汁を買う事が出来て本当にいい時代であり懐かしい。他にも下り急行「八甲田55号」(上野22:49⇒11:00青森)や下り夜行急行「いわて3号」(上野23:32⇒8:13盛岡)の花巻駅でとりめしを買ったり、上り臨時夜行「八甲田52号」(青森15:49⇒4:50上野)の野辺地駅で立売り販売人からとりめしを買った事も簡単に付け加えておく。

 

次は常磐線へ乗り入れてみよう。常磐線は定期列車と季節列車含めれば3往復の急行「十和田」に一往復の臨時夜行急行が駅弁屋さんのターゲットで最大7往復あった寝台特急ゆうづる」群は停車時間も短くて,一部を除いて深夜の弁当屋には相手にされてなかった。原ノ町駅では1981年か1982年くらいまで急行「十和田1号」(上野20:10⇒8:12青森)や急行「十和田3号」(上野20:50⇒9:07青森)を対象に鮭めしやかにめしを乗客に提供していた。更に平駅(現 いわき駅)では下り急行「十和田2号・後の十和田3号」の12分停車(23:52-0:04)を利用してホームでうにめしや平凡な御弁当を深夜の乗客のためにホーム立売りにて提供していた。

 

最後の常磐線茨城県の県庁所在地駅でもある水戸駅だ。水戸駅は深夜早朝の駅弁販売は行わないが下り寝台特急ゆうづる7号・後のゆうづる14号」(青森23:35⇒8:46上野)と上り急行「十和田3号・後の十和田6号」(青森21:35⇒9:54上野)の2本が対象だが幕の内弁当を発売していた。上記に上げた夜行列車のために通常営業時間外でも遅い夕飯に、更に夜食のためにホームで売ってくれて一部は列車の窓を開けて買えた駅弁もあり、旅行者にとってはありがたいサービスである。今回は駅弁中心にピックアップしたが青森駅では日付が変わる15分前まで八甲田のホームで立ち食い蕎麦「伯養軒の津軽そば」が営業して盛岡駅では14系「八甲田」のために6時前からホームのそば屋を営業してた。

 

今回登場した駅弁でまた食べれたら食べてみたいと思うくらい美味しい印象に残っているのは青森駅の帆立釜飯(大きい帆立貝が2~3個乗った駅弁でその後に発売された小さな姫帆立貝が沢山乗った帆立釜飯とは違います)、一ノ関駅のまつたけめし、平駅のうにめし等など。さて次回は4月か5月くらいに夜行列車の味・東北編2で奥羽線羽越線を紹介したいと思うが、しかし青森駅と福島駅はすでに紹介済みなのでもう少しエリアを広げたいが夜行列車が走ってた区間は他に急行「出羽」の陸羽西線と「あけぼの」の陸羽東線くらしかなくて深夜早朝に駅弁を売ってた駅はないため、ネタに苦労しそうである(苦笑)。

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

臨時大垣夜行 9375M

1996年1月3日(水曜日)、1996年になって最初の夜行列車レポートとなるが品川駅9番線で臨時大垣夜行9375Mの入線を同じ勤務先に努めるN君を待っていた。実はN君から青春18きっぷが余ってるので正月末に東海道線・興津~由比の通称由比S字カーブで東海道線の上り寝台特急第二群を撮りにいかないかと年末から誘われていた。N君も僕も静岡県内なら確実にマイカーで移動してしまうが青春18きっぷが余っているのでは協力しましょうと品川駅9番線ホームの最後尾乗車位置で落ち合って代金を渡すと翌日の乗車日が入った青春18きっぷを受け取る。

 

N君との夜行列車に乗っての撮影行きは1995年8月10日の臨時・夜行急行「妙高」以来だと思うがまだ正月三が日が終わっていないのに臨時大垣夜行9375Mに乗車する人は多く、大垣夜行に限っては繁忙期移動の下り/上り需要が曖昧で掴めない。今夜は田町電車区の167系8B運用である。発車2時間前から待っていると突然入線アナウンスと165系のライトが光り、入線して扉が開くと8号車(クハ167-1)に乗り込んで2人でBOXをキープするとよく見かける撮り鉄2人が「ここ空いてますか?」と挨拶したので許諾したが名前こそは知らないけど各地の撮影地や夜行列車内で見かける24~27歳の若者だ。

 

車内の席はあっという間に全て埋まり、23:55に品川駅を発車すると日付が変わる5分前に列車は西へと向かった。臨時大垣夜行9375Mは蒲田駅付近で日付が変わり、僕とN君と若者2人の計4人で明日の撮影話で盛り上る。若者2人は浜松まで乗って上り始発電車で金谷から大井川鐵道に入り、しめ縄の付いたSLを列車と撮影するとの事である。多摩川を渡り、神奈川県に入ると川崎駅(0:04)・横浜(0:13-14)と停車するが臨時列車なので途中駅から乗る乗客はいつも以上に少ないのは、まだ仕事が始まらない新年早々だからなのだろう?。

 

いつもなら夜行列車の旅立ちだと必ずお酒とか買って車内で乾杯するのだけど正月の元旦と二日両日は飲み過ぎたため、今夜は休肝日なのでノンアルコールのソフトドリンクで乾杯した(笑)。戸塚(0:24)・大船(0:29-30)と停車して横浜市から藤沢市に入ると、藤沢(0:34)・辻堂(0:38)・茅ヶ崎(0:42)へ各駅に停車する。同じBOX席内では1995年冬にNTTドコモの携帯電話、デジタルムーバ101シリーズを契約購入したN君の話題になるがN君曰く、基本料金と通話料金が高いと苦笑いしていたけど自分に身近なK君も携帯電話を所持してるし、携帯は急遽旅先や撮影地でも連絡が取れるので必須アイテムだ。

 

列車は深夜の東海道本線を飛ばして平塚(0:42)・大磯(0:51)・大磯(0:51)・二ノ宮(0:56)・国府津(1:01)に停車。N君は若い2人と話していたが自分は大晦日からの慢性的な寝不足で小田原到着前に寝てしまったようである。以下は就寝中の停車駅時刻・・・小田原(1:08-10)・熱海(1:29-30)・三島(1:43-43)・沼津(1:50-56)。2時くらいにN君から起こされるが、猛烈に眠くてこの先の予定がどうなってもいいからこのまま寝ていたい衝動に駆られるがそれは一時の事であって正気に返ると現実と向き合う事になるため、眠い目を擦って起きた。

 

急いで下車準備をしていると列車の速度が遅くなったのでデッキに移動して富士(2:12-13)で9375Mを下車するとどこかでK君の声が聞こえ、周囲を見渡すと上り線の先端で臨時大垣夜行を撮影中だった。K君と合流して由比~興津にある興津川橋梁へ行き、早朝まで待機してからEF65-112が牽く12系臨客をサイド気味に撮影したら今度は同じ興津~由比の由比S字カーブへK君車で移動して3人で長崎運転所持ち15形寝台車の「あさかぜ82号」から「富士」「はやぶさ」「さくら」を写し、明日まで休みでそのまま飯田線で撮影するK君に興津駅まで送ってくれたので駅前で少し雑談してから別れた。

 

N君と興津駅発10:26発の442Mで沼津駅まで行き、沼津駅始発の344M(昔の上り大垣夜行みたいな列車番号だ)にそのまま乗り継ぎ東京へ到着後に帰宅。

 

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

ブルートレイン・20系

ブルートレイン」 ・・・ 青い帯のように夜を駆け抜ける固定編成の寝台列車を誰となく、ブルートレインと呼んだ。窓ごしに街のネオンを別れ、ごとごと揺れるベッドで目を覚ませば見知らぬ土地に運んでくれるブルートレインには汽車旅の魅力と味わいが残っています。そこにはスピード本位の飛行機や新幹線が切り捨ててしまった安らぎがあったのである。"星影の旅情"や"青い流れ星"というネーミングが使われたのも20系後期くらいでブルートレインブームなんて言葉が世に出てくるほど夜行列車での癒しや旅情を求めていた人が多かったに違いない。

 

しかしそんな人気のあったブルートレイン整備新幹線や地方飛行場の開設と航空便が増えてブルートレインもすこしずつ減ってゆくが1970年台は「安芸」と「いなば」の名称消滅だけで本格的なブルートレインの衰退は1980年台以降になる。ブルートレインの定義って何だろう?青い色の列車から?そうすると青い電車や気動車まで全てブルートレインになってしまう。一般的には寝台専用特別急行寝台特急)の固定編成の説が有力だが12系座席車や14系座席車もブルートレインに入れてしまう無理やり的な記述が残ってる書籍もあるほどだ。そこで簡単だけどブルートレインに付いて簡単に整理したく、1回目は20系を紹介したい。

 

【20系】20系寝台がデビューしたのは今から約63年前の1958年で、1970年まで製造が続けられた。サービス電源を自車の専用発電機で補う(一部パンタからDC1500Vを集電して非電化区間は電源車内のディーゼル発電機から給電される)マニ20、カニ21、カニ22の発電電源集中化を図って全車完全冷暖房の密閉式になった固定編成として集約している。初運用は1958年10月1日からで「あさかぜ」(7レと8レ)に充当された。その後は1959年7月20日付で「さくら」から20系運用が広がる。

 

更に1960年7月20日はやぶさ」・1963年6月1日「みずほ」・1964年10月1日「富士」「はくつる」・1965年10月1日「あかつき」「ゆうづる」・1968年10月1日「彗星」「日本海」「あかつき」1970年7月1日「あけぼの」・1972年3月15日「出雲」「瀬戸」・1972年10月2日「つるぎ」・1973年3月1日「北星」「北陸」「安芸」を順次投入。約17年間を寝台特急で使うと老朽化するので一部の寝台専用急行の10系寝台・ハネやロネを救済すべく、1970年代から14系寝台車投入や24系投入で余剰になった20系を寝台専用急行にも運用した。

 

1976年2月20日「銀河」・1976年10月1日「天の川」「新星」。1977年以降は寝台専用急行に関わらず、20系と12系座席車との併結を目的にナハネフ22やナハネフ23とナハネ20の1000・2000番台改造して客用扉を12系客車と一括操作可能な自動ドアに交換。サービス電源を12系客車の440Vから供給とするために1000番台車はジャンパ連結器を12系客車対応品に交換。さらに変圧器などを搭載ナハネフ22形・23形は車掌室・業務用室に車掌スイッチ、デッキにドアコックを取付。

 

更に急行「十和田」及び「だいせん」が20系化される際に座席車が必要になったため、A寝台だったナロネ21形16両を種車に改造した普通座席車ナハ21が生まれて充当された。20系の寝台車以外に座席車併結を含む夜行急行化(「十和田」「だいせん」以外は全て12系座席車を併結する20系の夜行急行)は以下のとおり。1977年10月1日「十和田(201レ・204レ)」・1978年3月15日「かいもん(101レ・102レ)」・1978年3月16日「日南(501レ・502レ)」。1978年10月2日からは「ちくま(4803レ・4802レ)」「だいせん(705レ・706レ)」「さんべ(811レ・812レ)」まで20系が普及していく。

 

その後も20系の臨時寝台特急や臨時寝台急行は増えるけど全部追ったら大変なのでゴーサントオ(昭和53[1978]年10月2日ダイヤ改正)以前の動きとしてそれ以降はキリがないため、今回の20系特集に終止符を打った。

          ★★★★★Memories of the night train★★★★★