夜行列車の想い出

現在ではサンライズ以外廃止になった定期夜行列車だけど過去の夜行列車・想い出乗車レポートと夜行列車に纏わる懐かしい夜行列車ブログです(1975年以降から)

快速 ムーンライト(3720M)

1996年3月9日(土曜日)息子の只見線に乗りたいという突然の一言で急遽旅を仕掛けて前夜の下り快速「ムーンライト」まで来て村上から新潟・会津若松経由で念願の只見線を走破して小出から新潟を経て村上まで戻り、帰路の上り快速「ムーンライト」に乗ると言う1日以上乗りっ放しの乗り鉄旅でいよいよ帰りの夜行列車乗車となるが子供のリクエストとは言え、1日乗りっぱなしは疲れてもう勘弁。新潟駅近くのレストランで夕飯を食べて新潟から村上駅へ到着した我々親子は新宿行きの上り夜行快速「ムーンライト」になる快速3948M「新潟からは快速3720M」の入線を待っていた。

 

発車10分前の22:10頃に入線した列車の5号車に乗り込むとモハ164-66(M4編成)だったので昨夜の下り快速「ムーンライト」で乗ったM6編成は運用離脱しているようだが村上駅のホームは売店が無いので飲み物と食べ物は駅前のコンビニで購入しておいた。羽越線に50系客レが走っている頃には村上駅前にコンビニは全く無かったけど月日が経つのは早いものである。22:20定刻に村上駅を発車すると坂町(22:30)・中条(22:37)・新発田(22:48)の順番に停車するが、もう2時間以上前に新潟で食べた夕飯も消えてしまったのでコンビニで買ったおにぎりを親子で食べて僕はビールも流し込む。

 

車内切符拝見では明日の日付が入った青春18きっぷをと指定券を親子で呈示して車掌に指定券の購入状況を聞くと今夜は満席との事であった。やはり青春18きっぷの適用期間に入ったのと私立高校の春休みが始まっているかと思うのだが只見線車内でも若い鉄道ファンを目撃している。列車は豊栄駅(22:59)を発車して阿賀野川を渡るとJR貨物の東新潟機関区前を通って上沼垂のデルタ線(デルタ線の中央に上沼垂運転区がある)を過ぎると新潟駅(23:12-20)に入線。新潟駅で多くの乗客が乗り込み、新潟から進行方向が変わって村上からの後ろ向きに進むのが解消された。

 

ほぼ満員の快速「ムーンライト」は信越線と羽越線磐越西線が集まる鉄道のジャンクション駅である新津駅(23:34-58)へ到着。中条か新発田で寝ていた息子が、起きたので寝台特急日本海」が通過するので見に行こうと子供を誘って寒いホームで待っているとEF81のハイビームライトと分かる光と後に連なる24系客車が近付いて単吹ホイッスルを鳴らしながら近付くと「日本海」のヘッドマークと24系24形のブルーと白の帯が流れて最後に電源車のテールマークが流れて発電機の轟音が何となく頼もしく聞こえた。流石に寒いのでこの後通過する高速貨物2082列車はパスして車内に戻る。

 

席に戻ったら子供曰く、今度は「日本海」に乗ろうと簡単に言われてしまったが「日本海」や「トワイライトエクスプレス」は首都圏在住者には本当に乗りづらく、北海道ニューワイド周遊券で行きに乗るか、「日本海3・2号」なら一筆書きキップしかなく、「日本海」は個室は一切無く、開放B寝台だよと話を向けると個室じゃないと興味がない素振りをみせるから困ったものである。新津駅を発車した快速「ムーンライト」だがいろいろ子供に振り回されて疲れたので今宵は早々とリクライニングを倒して寝る事にした、以下は就寝中の停車駅と時刻。

 

加茂駅(0:15)・東三条駅(0:22-23)・見附駅(0:34)・長岡(0:43-1:09)・高崎駅(3:39-40)・大宮駅(4:30-30)赤羽駅(4:48)。他にも乗務員の交代で越後湯沢、水上、新前橋にも1分程度停車している。自分は長岡駅発車後にトイレで目覚めて用を足しに行く際に車内を歩いたのだが指定席は全て発売済みという話の割りにポツポツと通路側の席に空席があった。窓際の主が通路側の席の上に荷物を置いたり時刻表を置くのは変(他人の席なのだから)なのでこれは隣の席に誰も来ない様に買ってしまう輩だと直感した(某匿名掲示板では二席厨と揶揄されていた)。

 

自分勝手でずるがしこい行為だが車掌も下りなら高崎、上りなら長岡からその手のキップは無効にして車内で立ってる旅客に売ればいいのにと思うが如何だろうか?。「ムーンライト」以外にも「ミッドナイト」や「臨時ムーンライト」にも出没しているのだろうけど最近の若い人は個室の寝台しか乗らない人も少なくないみたいなのでこの手の輩が増えているのかも知れない。目が覚めたのは赤羽駅(4:48)停車中くらいで急いで子供を起して下車準備をしていると池袋(5:02)に到着すると次は終着駅の新宿駅である。

 

時間からしてまだ外は真っ暗な深夜の続きだけど未明という言葉の中に存在する数%の朝は都会の喧騒が始まる前に快速「ムーンライト」が一緒に運んで来た様に思えた。5:10定刻どおりに快速「ムーンライト」は新宿駅7番線ホームに滑り込んだ・・・それは時間の狭間に存在する夜行列車の終着駅到着である。たかが日中の只見線を日没前にフル乗車するために往復「ムーンライト」と青春18きっぷを使った旅の実録記でもあるが、軽い気分で快速「ムーンライト」の想い出夜行列車レポートとして読んでもらえれば幸いです。

 

会津若松の宿に宿泊すれば簡単なのですがそこは無駄にお金は掛けたくなかったのでこんな旅になりましたが色んな鉄道に乗れて当時小学生の息子は喜んでいました。

 

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

 

 

 

 

 

快速 ムーンライト(3763M)

1996年3月8日(金曜日)、新宿駅5番線ホームで小学生の子供と村上行き・快速「ムーンライト」を待っていた。実は子供がどこで誰に聞いたのか知らないが、何と只見線に乗りたいと言い出した。只見線に乗った事がある人なら分かると思うけどアクセスの悪さはピカイチで本数も極めて少ないし、まして青春18きっぷでは小出駅会津若松駅まで行くのが大変なのである。子供の行く小学校が第二土曜日と第四土曜日が休みなので往復快速「ムーンライト」(1996年3月16日より快速「ムーンライトえちご」へ変更)利用でも只見線は下りだと会津若松12:47発の429D、上りだと小出12:56発の434Dしか乗れない。

 

だいたい快速「ムーンライト」乗車だと磐越西線羽越線への撮影行きが多くて今回子供のリクエストで会津若松駅まで行くのに「ムーンライト」に乗って磐越西線を走るのは時間の無駄だと思うけど今回は子供の趣向に合わせて乗る鉄なので気軽に行こう。5番線で待機していると22:50くらいに回送電車が入線して5号車のモハ164-860(M6編成)に乗車して指定の席上にある網棚に荷物を置いてから階段上ったコンコース上の売店で飲み物と摘む物を購入して席に戻る。子供は何も言わず当たり前の様に窓際に座り、発車を待っていると23:03に快速「ムーンライト(3763M)」が新宿駅を離れた。

 

取り敢えずは村上まで寝て新潟まで戻り、新津~会津若松を乗って只見線小出駅まで縦断してまた村上まで戻って快速「ムーンライト(3720M)」で新宿方面に戻る感じで只見線の乗車より移動時間が長いというかぐるぐる乗りまわる旅になってしまった。今宵は3~6号車の3両編成だが青春18きっぷが使える期間なので5号車も満席に近く、指定券は早々に売り切れている。子供はソフトドリンク、僕はビールを飲みながら親子でポテチやあられをつまみながら山の手貨物線を進み、池袋(23:11)・赤羽(23:26)に停車しながら田端信号所から東北貨物線へ入り大宮(23:40-43)へ到着。

 

大宮からは高崎線に入り車掌が回って来たので翌日の日付が入った青春18きっぷや指定券を呈示すると数分後に2号車の照明が減光された。車掌の殆どが全ての切符チェックを終えてからまとめて減光する車掌が多いけど中には1両1両小まめに検札が終って減光する気が利く車掌もいるのである。今回は村上駅まで乗ってそのまま折り返しの3922Mで新潟まで戻ってくるのでかなり寝坊出来そうである。車内は熊谷駅を通過したくらいから静かになって深夜の高崎(0:55-1:09)に到着すると深夜でも営業している自販機で早速追加の缶ビールを購入して速攻流し込んでリクライニングを倒して寝る。

 

高崎駅の14分停車の内に寝てしまったようだけど以降は就寝中に停車した駅の時刻・・・長岡駅(4:05-15)・見付駅(4:26)・東三条駅(4:36-37)・加茂駅(4:44)・新津(4:59-59)・新潟(5:12-19)・豊栄(5:32)・新発田(5:44-44)・中条(5:55)。他には新前橋と水上に越後湯沢でも運転停車しているが目が覚めたのは中条に停車中であった。大宮駅発車後にすぐ寝てしまった子供は新潟駅の停車を覚えていた様だが僕は朝までぐっすりと寝てしまい、子供がトイレに行く際に僕の脚を乗り越えていくのに起されなければ6時まで寝ていたと思う。

 

子供が新潟から後ろ向きに走る謎を聞いていたが坂町駅(6:02)を発車すると10分で村上駅なのでその謎はこの後に乗る快速3922M、新潟行き(ムーンライトそのままの編成が新潟駅まで戻る)の車内で教えるとしよう。快速「ムーンライト」は6:12に定刻で村上駅へ入線した。快速「ムーンライト」は村上駅に到着すると車内清掃もせずにそのまま折り返し快速3922Mで新潟駅(7:25着)まで出てその先は新潟8:24(あがの2号)10:34会津若松経由で只見線429D⇒431Dに乗って小出へ向かった。

          ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

 

 

 

 

🍴夜行列車の味・中部~関西🍱

5月31日に『夜行列車の味・関東甲信越』をUPしたのでそろそろ時期的にいいかなと思い、このシリーズをリリースしたいと思う。今回の『夜行列車の味・中部~関西』では前回残ってた直江津と新規に北陸線とその関連・東海道線米原~大阪)・関西本線紀勢線阪和線山陰本線(京都~福知山)までとして太平洋側は大阪府日本海側は京都府までを境とし、兵庫県以西は別の機会に忘れた頃、紹介したいと思う。

 

信越線】前回紹介出来なかった長野~直江津~柏崎~長岡間の直江津駅、1978年に直江津発の上野行き・普通2344列車(長野⇒上野は夜行急行「妙高5号(302列車)」に駅で買ったホテルハイマートのかに寿し(600円)。かなり酢が効いていたけど人生初のかに寿し駅弁でした。【北陸関連】1980年代前半に北陸ワイド周遊券で宿代わりに富山~敦賀を夜行急行「立山3号(506M)」と敦賀糸魚川駅を夜行急行「立山3号(505M)」で折り返し乗車した時に朝7時過ぎに糸魚川駅で食べた駅の立ち食い蕎麦が美味かった事。冬だったので寒さに震えて食べた駅そばの美味しかった事。

 

1980年9月に名古屋駅から乗ったディーゼル夜行急行「のりくら9号」が能登半島の穴水から宇出津へ臨時延長した際に6分停車の穴水駅で朝食代わりに買った「朝市弁当」。ばい貝、いいだこ、甘エビ、ふぐの粕漬焼きなど海の物が沢山詰まった弁当で輪島名物の朝市からネーミングを取った海鮮幕の内弁当である。当時は国鉄七尾線が津幡から穴水を経由して輪島駅まで走り、国鉄能登線が穴水から蛸島まで結んでいたけど今では七尾線和倉温泉までで、その先はのと鉄道が穴水まで走っているけどその先は全て廃線(穴水~輪島と穴水~蛸島は廃止)になっている。

 

関西本線】1979年に紀州夜行の921列車(新宮からB寝台が連結されるので「はやたま」という愛称が付く)にフル区間乗車した際に亀山駅で21分停車するので当時から予約販売だった「志ぐれ茶漬け弁当」を予約せずに駅前の製造元で入手して921レの車内でゆっくりと別売りのお茶をかけてから食べると時雨はまぐりの香りと刻み乗りに醬油味のタレを塗ったごはんのエキスがミックスされて実に美味かった。【紀勢線新宮駅天王寺から乗った鈍行夜行「はやたま」が翌朝新宮駅へ到着すると寝台車を切り離して牽引機関車もEF58からDD51に変わるために40分以上停車する。

 

924列車は新宮で事実上の朝を迎えるため、1番線ホームの立ち食いそば・うどんスタンドから湯気が上がり、発車待ちの時間にうどんをお腹を膨らしたり、スタンドで売られる名物の秋刀魚寿司やめはり寿司などを購入して924レの車内で食べたり出来る恰好の朝食を入手出来る。自分は秋刀魚寿司のファンで当時400円で買えたのでお財布にも優しくて美味しい駅弁でした。【阪和線】1978年から1980年くらいの天王寺駅阪和線ホームは行き止まり式になっているが夜になると4番線と5番線の行き止まりの先に屋台のうどん屋が店を出して営業していた事があった。

 

店自体は21時過ぎくらいに店仕舞いするのだが「はやたま」や新宮行きのDC急行「きのくに」へ乗る時はそこで腹の足しにした事が1~2回ある。【山陰線】京都から出雲市まで走っていた鈍行夜行の「山陰」へ乗ると深夜の福知山駅で20分間の停車があり、ホームにはリアカーを引いた駅弁屋が待機して「山陰」や夜行急行「だいせん」も停車するので恰好の夜食調達駅であった。この時は一番安かった栗めしを購入してるが丹波名物の栗ご飯が中心になった弁当は本当に想い出に残る美味さであった。

 

東海道米原駅、東京駅から京都行きの臨時急行「銀河52号」(1978年10月2日以降は臨時急行「銀河53号」)に乗ると米原駅の発着時刻が8:14-22で8分停車するのでこれまた恰好の朝めし駅弁調達タイムで当時はまだ安かった鱒寿しを朝食にしたり、ホームの立ち食いスタンドでそばやうどんを食べて小腹を満たす人も少なくなかった。但し滋賀県米原駅は関西圏になるため、関西風の味付けになり、狭い日本だが歴史に於ける国土と文化の違いと味付けを勉強させられた。

 

最後は同じく東海道線大阪駅大阪駅新大阪駅からこれまでに数え切れないほど夜行列車に乗ってるけど「だいせん」「きたぐに」「鷲羽」「銀河」などに乗車した祭は発車時刻が遅くて駅弁の世話になってはないけど1985年4月27日に大阪から乗車した「日本海1号」と1994年6月8日に、同じく大阪駅から乗車した「トワイライトエクスプレス」に乗車した時はお気に入りの駅弁として「八角弁当」を買ってる。八角弁当は大阪駅新大阪駅を代表する駅弁で上質な幕の内弁当として夜行列車に限らず大阪出張の帰りに新幹線車内で食べる駅弁を買っていたが大阪水了軒の倒産でもう食べられないのが残念。

 

『夜行列車の味』残りは兵庫県からの山陽線・山陰線と四国に九州で完結になる予定。

 

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

寝台特急 あけぼの(B1)

1996年2月11日(日曜日)、奥羽線での急行「はまなす」の延長運転など2日間の撮影を終えて大館駅上野駅の上り寝台特急「あけぼの」の入線を待っていた。19:16に南秋田運転所のED75-726に牽引されて入線すると早速扉が開くと同時に9号車のオハネ24-553へ乗り込んで指定された狭いソロ個室(9号車7番)へ落ち着く。「あけぼの」の個室は何回乗っても狭くて慣れないのだがそもそも「あけぼの」の定員28室は詰め過ぎではないかと思う。北斗星1・2号のオールソロは17部屋、富士やはやぶさのソロが18室、北陸のオールソロでさえ、20室なのにやはり「あけぼの」ソロの28室は納得いかない。

 

大館を19:17に発車するとすぐに車掌が来たので特急寝台個室券と株主優待で購入した乗車券を見せて夕飯にする。夕飯は大館駅前の花善が閉店する直前に買った「鶏めし」弁当とホームで購入した500mlの缶ビールで済ませるが何せ狭いあけぼの・ソロはビール飲みながら弁当食べるのも大変である。あけぼの・ソロに乗るのは1995年10月27日以来約3ヶ月振りだけど1階がいいのか2階がいいのか、いまだにハッキリよく判っていない。総合的には2階の方が好評みたいだけど酒飲みにとってよくトイレに行くから2階ソロだと寝台ベッドを畳んで下の扉まで歩いて行くのが面倒である。

 

2階の方が眺めはいいけど走行時間中が殆ど日没時間中なのでその点は気にしていないが列車は鷹ノ巣(19:35-35)・東能代(20:00-01)に停車して大館駅の鶏めしを美味しく食べ終わり、ビールも飲み終わると八郎潟(20:27-27)に到着した。こんなに狭い個室なら普通のB寝台開放にして帰路の寝台特急券も株主優待割引(個室は株主優待割引対象外)で安く乗った方がよかったかなと後悔してると秋田駅(20:52-54)に到着。そうえいば上り「あけぼの」・秋田駅停車時間も年々短くなりなり、4~5分が3分になって遂に2分停車のみになってしまった。

 

ホームの自販機で缶コーヒーのショート缶を買って個室に戻ると「あけぼの」は秋田駅を定発して自分も浴衣姿に着替えてベッドを作り、背もたれに寄りかかりながら本日の撮影データーを手帳に書き写してから寝具を敷いて横になりながら今日一日の出来事を回想していた。一番印象に残ったのは大館駅で上り「あけぼの」の入線を待っていた時に先頭のED75が雪ダルマ状態になって正面に大量の雪を付けて入線した時の事。青森県から秋田県の県境であり、峠もあって雪が深い碇ヶ関津軽湯の沢陣場~白沢の区間を走行中に付着したのであろう。

 

スノープロウからヘッドマーク部分まで雪がべったり付着してスノープロウは雪の塊になっていたのは凄かった。そういうシーンに憧れて寒いのは嫌いなのに撮影に向かうのは冬の鉄路の浪漫なのだと思う。昔は機関車の屋根から噴出す暖房用の蒸気や客車から漏れてる暖房用蒸気を見ながらこれこそ冬の鉄道浪漫を感じていたが走行写真でそれらを描くのは難しくて雪国の鉄路へ憧れる様になったのである。寝台特急「あけぼの」は大曲(21:38-39)・横手(21:57-58)と停車するが昨夜はK君のデリカ車中泊で朝6時には撮影で活動したし、今日も雪中行軍で多いに疲れたので早寝としよう。

 

狭い個室も寝てしまえば同じで2階個室に比べて1階個室は揺れないのでいいかもしれない・・・以下は就寝中の停車駅と発時刻。十文字(22:08-08)・湯沢(22:16-16)・新庄(23:14-26)・宇都宮(4:53-54)。0時前にトイレで起きたけど1号車まで歩けば陸羽東線のDE10重連・機次(次ソ)ナンバーくらい確認出来たけど9号車から1号車まで行ってまた戻るのも面倒なので用を済ませて個室に戻っている。朝目覚めたのが5時半頃で7時間以上寝たのですこぶる気分がいいので1号車まで機関車確認へ行くと田端運転所のEF81-78が健気に横揺れしながら現車12・換算44.5を速度種別:特通客C3で牽引している。

 

まだ夜明け前の大宮(6:04-05)に到着すると自分も下車準備に取り掛かり、荒川を渡った頃から空が少し明るくなってきたけど関東圏独特の冬らしい天気で今日も1日晴天になりそうな予感がする。尾久客車区と田端運転所の脇を通過すると回送12列車(はくつるの推進回送)とすれ違い、地平ホームへ降りる坂道を下っていくと6:30、時刻通りに上野駅15番線ホームに寝台特急「あけぼの」は滑り込んだ。先頭まで歩くとEF81-78の正面に雪の付着はなく、台車部分が少しだけ白くなっていただった。

 

          ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

 

 

 

 

寝台特急 鳥海(B寝台)

1996年2月9日(金曜日)、 2月の三連休初日前夜に自分は上野駅14番線ホームで青森行きの寝台特急「鳥海」の1号車乗車位置目標でゴム長と大きめのフードが付いた防寒ブルゾン姿の雪国装備にて2021列車「鳥海」の入線を待っていた。実は札幌発基準で2/5から2/12の夜行急行「はまなす」の一部編成が秋田まで臨時延長(「9602レ」9:30秋田着、「9601レ」18:55秋田発)で撮影は朝方が中心の9602レになるけど奥羽線に入るED75牽引の夜行もなくなり、寝台車+14系ハザの4両と編成は短いけどED75-700が定期列車のヘッドマークを掲載して単線が多い奥羽線を走る姿を拝めるのは何とも嬉しい話。

 

本来なら毎週金曜日は定時退勤日なのだが2月頭早々に年度末多忙に入っており、19時まで残業したので家で夕飯を食べる時間はなく、この時間帯上野駅では好みの弁当は売り切れているため、職場から帰宅する時にチキン弁当を購入して帰宅後上野駅まで持参してきた。21:08に14番線へ「鳥海」の回送になる回2021列車が入線すると早速1号車に乗車すると青森運転所のオハネフ24-25で、荷物を置いてから先頭へ移動すると長岡運転所のEF81-138であった。ブルートレインを牽引する機関車は貫通扉があるEF64やEF65PFが似合うと思う。

 

どうも非貫通の機関車(EF58・EF65-500除く)は個人的に萌えないのだがそれでも今宵の81-139はツララ切りのヒサシがついてるからいいけど残雪のある鳥海山を模した丸いヘッドマークが格好良い。山男ロコEF64牽引ならもっとほれぼれしく見れるのに寝台特急「鳥海」も1993年11月29日から、上野~青森間が長岡運転所のEF81通し運用になってしまい、EF64-1000の上野~新津区間は廃止されてしまったのが残念。発車9分前になったのでホーム売店経由で缶ビールを購入して最後尾の1号車へ戻ると1号車は10人も乗ってない状況だが同じく禁煙車の4号車は6割くらいは乗っているのはマルスが3号車から売って2号車と1号車が最後になるマルスの盲点だ。

 

 上野駅を定時の21:43に発車した寝台特急「鳥海」だが、1号車は車掌室がある車両なので車掌がすぐに来たため、切符類を見せて自宅へ帰宅する時に買ったチキン弁当(750円)と缶ビールで遅めの夕飯を楽しんでいると東北自動車道のSAで休憩しているk君から携帯電話が着信して明日の下車駅の打ち合わせを行う。携帯電話の導入で本当に便利になったけど当時は通話料がまだ高く、メールやショートメールの類は無かったので電話通話のみしかなかったのである。飲食を終えて最後尾となる1号車の展望スペースで後方へ流れゆく夜景を眺めていると大宮駅(21:49-49)に停車となる。

 

2月から年度末多忙で残業で睡眠不足気味なので今夜も早く就寝するためベッドに入って前回寝台特急「鳥海」に乗ったのは2年前の今頃(1994年2月)だったなと2年前を振り返ったらいつの間にか寝てしまった様である・・・就寝中の停車駅時刻(<>は運転停車は下記のとおり。高崎(22:50-53)・水上<23:42-44>・長岡<1:04-06>・新津<1:43-45>・村上(2:48-48)・あつみ温泉(3:37-37)・鶴岡(4:06-09)・余目(4:23-23)・酒田(4:35-37)・遊佐(4:49-49)・象潟(5:14-14)・仁賀(5:24-24)・羽後本荘(5:38-38)。

 

7時間は完全熟睡したようで念の為に設定した携帯電話のアラームが鳴る前に起きたので洗面などを終らして下車準備を済ましていると秋田駅(6:15-18)へ到着した。この時間でも6:00発の特急「たざわ2号」の盛岡行きがホームで弁当を売ってるから寝台特急「鳥海」のホームでも弁当売り人がいるのは判っているけど扉が開くのと同時にホームへ出ると駅弁販売員を見つけてこの時間帯は「あきたこまち弁当」(850円)しか売らないそうだが早速「あきたこまち弁当」と温かい緑茶を購入して車内に戻る。秋田からはヒルネになるけど人が少ない内にまだ暖かい弁当を頂こうではないか。

 

列車は八郎潟(6:42-43)・森岳(6:58-59)・東能代(7:11-14)と停車するとようやく朝らしくなったけど1号車は相変わらず空いており、ヒルネの利用客も乗って来ない。車窓は相変わらずの雪景色で雪の量も多そうだがこんなに雪があるならスノーシューも持ってくればよかったかも知れない。東能代発車後にK君から次の二ツ井で下車確認の電話が来たので下車準備を済ませて今までズボンの内側に隠しておいたゴム長靴のマチを閉じて定時到着 (7:29-29)した二ツ井駅で下車して改札を抜けるとK君が待っていたので早速車に同乗させてもらう。

 

 急行「はまなす」(9602レ)は二ツ井駅で9分停車するので二ツ井~前山へ行くがここの撮影地は朝の下り列車が順光だが二ツ井の9分停車を生かして手前で何とか1コマ撮影したく移動して定番でない場所へ行くと影が出ない、明るい曇のような天気なので急行「はまなす」を撮影したら南秋田運転所のED75-757が「はまなす」のヘッドマークを付けてゆっくり通過した。すぐに追いかけて 鯉川八郎潟へ行くがスケールが大きい巨大水田エリアでED75牽引のハネ2B+ハザ2Bでは編成が短すぎるけど短いレンズで近付いてヘッドマークを付けたED75をクローズアップして撮影してみた。

 

急いで花輪線に戻り、雪晴れのキハ52を撮影して日没後は秋田駅へ移動して札幌行き急行「はまなす」を秋田駅ホームで長時間露光撮影して翌日は「鳥海」と急行「はまなす(9602レ)撮影後に花輪線キハ52を撮影して過ごして岐路は「あけぼの」で帰る。

 

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

急行 銀河(B寝台)

1996年1月31日(水曜日)、1月の末日だが東京駅9番線ホームの5号車乗車口付近で大阪行きの夜行急行「銀河」の入線を待っていた。例によって21時過ぎまで残業していたので新大阪駅まで行ける最終新幹線303A(のぞみ303号)には間に合わないので職場の近くでで23時(22:30 LO)まで営業している店で飲みながら夕飯を済ませて東京駅丸の内入口まで移動して「銀河」のB寝台急行券を購入して本文冒頭に戻る。この日は風が強くて寒いので入線直前にホーム売店KIOSKでいつもの様に缶ビールにバターピーを買っていたら22:54に「銀河」の回送が9番線に入線した。

 

早速5号車のオハネフ25-43に乗車して荷物を購入した物を下段寝台の上に置いてからホームの先頭に行くと牽引機は田端運転所のEF65-1118である。EF651118と言えばSuper Express Rainbowの専用機として有名だけど当時は通常塗装の一般PFで1998年から2代目指定牽引機として専用色へ変わっている。オハネフ25-43は「日本海」「銀河」「臨時つるぎ」で運用していますが、1975年12月から1976年2月までに製造されて宮原客車区へ新製配置された車両で1976年2月20日に「つるぎ」と「日本海」(下り1号・上り2号)へ投入された中の1両である。

 

機関車を確認して5号車に戻れば既に東京駅を発車して、気の早い車掌が指定券の確認に来たので今回は神戸出張なので京阪神ミニ周遊券と指定券を車掌に提示してからスーツ&コート姿から浴衣に着替えて身軽になってから缶ビールで乾杯するが車内の暖房がやや過剰なので冷えた缶ビールが途轍もなく美味く感じる。青い寝台列車から見る都会の夜景が非日常すぎて余計にそう感じるのかも知れないが有楽町~新橋~浜松町界隈のオフィスビルの明かりを見つめながら東京駅での喧騒を思い出しながら列車は品川(23:08)に到着。

 

品川駅を発車して帳の降りた港区、品川区、大田区を列車は高速運転で都会を離れると六郷川橋梁を越えて神奈川県に入ると川崎駅を一瞬に通過して次の停車駅でもある横浜駅(23:25-26)に到着。「銀河」は種別・急行なのにそして停車駅が多いのに速度を出しているように思えるが電源車込み10両編成なのでEF65PFにとっては"通客C2"は余裕なのだろう。少し早いけど横浜駅を発車したのでベッドに入ってブルートレイン独特の空間とサウンドが作りなす世界に身を預けていたらいつの間にか寝てしまったようで就寝中の停車駅と発車時刻は以下略。

 

大船(23:41-42)・小田原(0:14-15)・熱海(0:36-37)・静岡(1:48-55)・岐阜(5:01-02)・米原(5:45-47)・大津(6:33)。昨夜は大船駅の到着前に寝てしまったのでそのまま起きないで気が付いたら京都(6:43-44)入線の数分前に目が冷めたが車内放送で起きたのか周囲がざわついて起きたのは定かではない。取りあえず急いで着替えて洗面に歯磨きなどを終らせてから寝台に戻って下車準備を進める。神足(現長岡京)~山崎の天王山バックや山崎~高槻の定番撮影地を通り過ぎながら新大阪駅(7:13-14)に到着すると淀川橋梁を渡って大阪駅3番線ホームへ定時7:19に到着した。

 

大阪駅5番線ホームへ移動して711M、播州赤穂行きに乗り換えて神戸駅まで移動したけど帰路は新神戸駅から「ひかり」を利用したが京阪神ミニ周遊券をフルに使えて1140円ばかりお得に使えてラッキーでした(岐路の新幹線で食べた神戸牛肉弁当代として消えちゃいましたけど満足)。

 

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

ブルートレイン・24系

前回の「ブルートレイン・14系」をUPした4月26日から約1ヶ月強が経過したが本日は24系24形と24系25形の両方をまとめてみたいと思うがゴーサントオくらいまで追いたいと思う。「走るホテル」と呼ばれた20系特急形寝台客車の登場後10年が経過し、1971年より分割・併合に備えて分散電源方式とした14系特急形寝台客車が新製されていた。しかし、寝台車としての性格上、スハネフ14形床下に取付けられた電源装置の騒音は旅客には不評であり、さらに1972年11月6日に北陸トンネルで発生した夜行急行列車「きたぐに」の列車火災事故により、国鉄では車両の防火対策を見直す必要が生じた。

(ちなみに急行「きたぐに」の火災原因は配線ショート、食堂車の火不始末、喫煙所でのタバコの火とも言われ、火災原因の断定が出来ていない)

 

そこで再び電源装置を旅客用車両から離した集中電源方式を採用することになった。こうした背景から誕生したのが24系特急形寝台客車である。24系寝台客車は14系寝台客車を分散電源方式の騒音・保守問題のから再び集中電源方式に戻して、防災対策を施して昭和48年から5系式115両が製造されました。24系寝台車は1973年から新潟鉄工所(現新潟トランシス)、富士重工日本車輌の3メーカーで製作。1973年に向日町運転所に全車新製投入されると関西~九州間の寝台特急に使われ、1975年9月末には全車品川客車区へ転属して東京口ブルートレインで活躍。

 

その後、青森へ転属して上野発着ブルートレイン・他にも24系が使われるようになる。1973年度から製造された24系24形の118両(オハネフ24×27、オハネ24×67、オロネ24×9、オシ24×5、マヤ24×10)が全車向日町運転所へ新製配備されると「あかつき」と「彗星」に投入されたが1974年3月から製造された24系25形0番台とカニ24、合計91両が全車向日町運転所へ新製配備されると1973年に申請配置された24系24形の一部を除き、品川客車区に戻って1975年3月10日から「はやぶさ」「富士」「出雲」で使用する。

 

その後はやぶさ」「富士」「出雲」にニューブルートレインの新型25形と呼ばれた24系25形100番台(一部非100番台)が投入されると余った24系24形は青森運転所へ移管して「ゆうづる」(下り4・5・6・7号と上り1・2・3・4号)に投入。更に1978年10月2日から青森運転所持ちの「日本海3号・2号」(4003レ・4002レ)でも使用。関西発着の寝台特急の殆どが25形や15形に統一されて余剰になった24系24形が、秋田運転区へ転属となって1980年10月1日に「あけぼの1・4・3・2号」へ配車されて24系24形の新製・転属・転廃はこれで終了。

 

24系24形は14系と同様に3段寝台であり、かつての寝台車に比べて寝台幅・長さは拡大されたものの、居住性の面で時代遅れの間は否めなくなった。そこで1974年より2段寝台のB寝台車としてオハネ25、オハネフ25が新製された。また、電源車は本格的な荷物室を設けた荷物車カニ24形が新製されることになった。これらは従来の24形と区別して25形と呼ばれている。車体は24形を基本としているが、2段寝台化による定員減を補うため便所の配置の変更などがなされ、オハネ25形ではオハネ24形の乗務員室・更衣室を廃止、オハネフ25形ではオハネフ24形の業務用室・車掌室の寸法縮小などが行われている。

 

塗装は24形では青20号にクリーム10号の帯であったが、区別のため青20号にステンレス帯となった。25形は寝台側の窓が大きくて上段の自動昇降機が付いた0番台に寝台側の窓が小さくなった100番台と200番台になり、特にオハネフ25の100番台は切妻形で幌は外吊り式の簡易型設計で車掌室の窓(2ヶ所)も小型になって、東北向き一方方向固定になってる。更にオハネフ25の200番台は再び折妻になったが切妻形をミックスした曲切妻形、下のステンレス帯が短くなって方向転換可能になっている。

 

それでは24系25形の詳細(新製後の配置と運用)へ移ろう・・・1974年3月に新製配置で登場した24系25形-0番台91両(オハネフ25×56、オハネ25×27、カニ24×8)が全車向日町運転所へ配備されて1974年4月25日から「あかつき」(下り3号と6号、上り1号と2号)と「彗星」(下り5号と上り1号)で使用開始スタート。1975年3月10日からは「明星」(下り2号・上り2号と下り5号と上り4号)。1975年12月から1976年2月までに製造されて宮原客車区へ新製配置された25形0番台・60両(オハネフ25 28~46・オハネ25 57~91・カニ24 9~14)を1976年2月20日に「つるぎ」と「日本海」(下り1号・上り2号)へ投入。

 

そしてここから25形100番台(オロネやオシにカニは除く)の登場である。しかし24系24形からの改造(オシ24-100番台)や電源車が25形0番台で登場したカニ24も含まれるため完全な100番台ではない。1976年7月から9月にかけて新製された25形99両(オハネフ25×29、オハネ25×52、オロネ25×10、カニ24×8)とオシ24やオシ14から改造したオシ24-100に24形で使っていたカニ24に向日町運転所から転属したカニ24などを1976年から「はやぶさ」「富士」「出雲」(浜田出雲)に運用開始され、これで東京駅発着ブルートレインも"ニューブルートレイン"の仲間入りが出来た。

 

更に1976年8月7日から8月21日(上りは22日)まで品川区25形モノクラス編成のみで「臨時あさかぜ51号(8011レ・8012レ)」を担当しているが臨時列車なので割愛するべきなのだろうが東京発着ブルトレ初の25形運用という事で特別に紹介。新車投入の最終ステージは25形-100番台後期と200番台の登場で以降は従来車両からの改造ばかりなのであとは新車投入と運用の紹介へ移動する。まずは1977年7月から9月にかけて新製された25形-100番台(一部200番台)のオハネフ25(130~157)、オハネ25(153~207)、カニ24(101~108)の計62両が基本編成として下関運転所へ配置。

 

更に同じく1977年8月から9月にかけて新製された25形-100番台(一部200番台)のオハネフ25(136~153)、オハネ25(162~200)の計29両が基本編成として広島運転所へ配置。下関持ちの25形基本編成と広島持ちの予備編成を集約して以下の寝台特急の編成を構築した(但し「安芸」に付いては全車下関車のみで運用)。なお今回の1977年度債務で新製したカニ24-100は25形-100番台後期から200番台に合わせた初の貫通型電源車でオハネフ25-100番台とほぼ同一の面構えになっており、帯はステンレス2本の切妻形で従来の24系電源車とは違うフォルムである。

 

最初に1977年9月1日付で「安芸」投入されるが、20系から25形-100に変わった「安芸」だけど乗車率が思わしくなく、約1年後の1978年10月2日大改正で廃止となる。次に運用に就いたのは1977年9月25日から運用に入った「あさかぜ」(下りあさかぜ2号・上りあさかぜ1号「13レ・14レ」)で下関あさかぜと呼ばれた。更に翌日の1977年9月26日には「あさかぜ」(下りあさかぜ2号・上りあさかぜ1号「13レ・14レ」)と共通運用になった「瀬戸」の運用も始まり、増備車ラストの最終ステージを迎える。1977年12月から1978年1月にかけて製造された25形-100番台(200番台含む)とオロネ25の増備車他が品川客車区へ配置される。

 

品川区へ配属になったのはオハネフ25(201-210)、オハネ25(208~226)、オロネ25(11~12)、カニ24(109~112)の合計35両が1978年2月1日から「博多あさかぜ(9レ・10レ)」(下りあさかぜ1号・上りあさかぜ2号)へ投入された車両だが上の方に書いたとおり、1976年7月から9月にかけて新製された25形99両(オハネフ25×29、オハネ25×52、オロネ25×10、カニ24×8)とオシ24やオシ14から改造したオシ24-100に24形で使っていたカニ24に向日町運転所から転属したカニ24などを1976年から「はやぶさ」「富士」「出雲」(浜田出雲)に運用開始した車両を全て集中集約して「はやぶさ」「富士」「出雲」「あさかぜ」(博多あさかぜ)を区別なしに運用して「はやぶさ」「富士」「あさかぜ」は共通運用とした。

 

この後は15形の「あかつき」投入で完全余剰になった25形や「明星」の一往復整理や「彗星」の2往復583系化などで25形0番台が余剰になって1980年10月1日付けで「ゆうづる11・13・2・6号」が25形化。1982年11月15日付けでは「あけぼの3・4号」が25形化、同日付けで「日本海1・2・3・4号」日本海全てが25形化で全車宮原客車区担当へ。さらに1984年2月1日付けでは「なは」が25形化されて定期「なは」の583系運用を終えたのである。日本国有鉄道ならではの全国ネットワークで車両を運用構築する術は流石だと感服した国鉄末期であった。

 

この先も続けたら今後の資料として使えそうだが国鉄分割民営化されてJR化されると更に複雑な運用や改造での意味不明な改番など厄介な事や摩訶不思議な事が発生(24形と25形を混ぜて編成組みしたり、そもそもは25形だった車両を15形でサンドイッチしてオハネ15-1000番台にしちゃってもう最悪。摩訶不思議といえばオハ25-551が2両存在した事・・・1両は札幌運転所の北斗星全車ロビーカー、もう1両は宮原客車区のトワイライト・ラウンジカー。国鉄時代には同じ系式番号の車両が2両存在するなんてありえなかったけどJRになるとルーズになっしまうのに失笑してしまう。

 

今回の中でデーターの相違やミスがあったらぜひコメント欄で指摘していただければ幸いと思うし、僕の公式LINEやコミュにツイッターDMなどでもOKですので是非よろしくです。このあたりで「ブルートレイン・24系」を終らせてもらう。

 

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★