夜行列車の想い出

現在ではサンライズ以外廃止になった定期夜行列車だけど過去の夜行列車・想い出乗車レポートと夜行列車に纏わる懐かしい夜行列車ブログです(1975年以降から)

寝台特急 瀬戸(B寝台)

この記事は生まれて初めて乗ったブルートレイン寝台特急「瀬戸」の想い出夜行列車レポートで2019年12月で消えてしまったyahooブログで書いていますが簡単な模写でデーターも不備が多く、一緒に旅をしたM君とお互いに大昔を思い出してスカイプ通話での構築と生前にこのブログの資料を送ってもらった弔いを兼ねて当時の資料を整理して新たに書きおろしてみた僕の人生では初の24系25形で初のブルートレイン乗車である。

 

1977年10月8日(土曜日)、岡山・倉敷ミニ周遊券と「瀬戸」の特急寝台券を手にした僕とM君は東京駅13番線ホームの南口階段付近で寝台特急「瀬戸」の入線を待ちわびていた。僕にとっては583系寝台特急乗車機会はあるものの、ブルートレインは初めてだし、2段ハネに乗るのも初めてで昨日の夜は嬉しくて寝れなかったくらいである。13番線には下関・広島行きの下り寝台特急「あさかぜ2号」(13列車)がまだ停車していたが「あさかぜ2号」が発車した6分後に東京機関区のEF65-529に牽かれた「瀬戸」の回送となる回送15列車が入線した。

 

折戸が開くのももどかしく、扉が開くと1号車のオハネフ25-141(下関運転所)に乗車するとまだピカピカ新車で1977年10月1日付け(実際は1977年9月26日が初運用)なので車内は新車独特の臭いが充満してて指定された席に荷物を置くと24系25形100番台は席に座っても頭上が高くて上段寝台も天井まで余裕があって思わず2人で顔を見合って感動してしまった。「瀬戸」と共通運用の下関「あさかぜ」は全車が25形100番台で電源車までカニ24-100番台が用意されてオール100番台なのである。まさに元祖オール100番台ブルートレインなのだ。

 

実車カニ24-100を見にホームへ行くと電源車なのに貫通ドアがある切妻形でオハネフ25-100番台とほぼ同一の面構えだ(カニ24-100には貫通扉付近に2ヶ所ある握り棒が新設)。「瀬戸」の編成から切り離し、一旦神田駅側に退避したEF65-529はホームがない11番線を回して13番線に停車中の「瀬戸」先頭車であるカニ24-105へ連結されるといよいよ発車準備OKなので我々も車内に戻る。指定券はM君が発車1週間前売り当日の午後に最寄り駅のみどりの窓口にて1号車・中ほどの下段を2枚押さえてくれた。「瀬戸」は東京駅を定刻時刻19:25に発車するといよいよブルートレイン始めての旅が始まった。

 

車掌のきっぷ拝見が終ると銘々が用意した弁当で夕食である。僕は川崎駅で買ってきた崎陽軒シウマイ弁当(500円)、M君は東京駅で買った日本食堂の大江戸弁当(500円)という幕の内弁当で夕飯にするが当時は2人とも大学1年生(19歳)ですが350ml缶ビールでささやかな乾杯をして初のブルートレイン乗車と初の2段ハネ乗車を祝った。初めて25形の車内から見た有楽町~新橋~浜松町のオフィスビルの明かりは普段乗ってる普通列車113系や153系とは別物でこれがブルートレインからの車窓なのかと非日常的な環境に酔いしれていると横浜駅(19:51-51)に到着。

 

世間は明日から連休(日曜日と体育の日)だが、「瀬戸」の1号車は大層空いており、これは座席車も寝台券も通常は3号車の3番(グリーン車・個室や団体枠に禁煙車などは別で例外)から席を売っていくマルス(Multi Access seat Reservation System)の特性で1号車や2号車は最後の方に発売する順番なので空いてても当たり前でこれを逆手にとってM君が敢えて1号車を指定したのである。列車は小田原駅を通過する際に汐留を19:50に出た急行荷物37列車がこの「瀬戸」を先行退避するシーンを目撃、先頭のEF58と荷物車のマニ等を確認する事が出来た。

 

小田原駅より先は人口も大幅に減って家の明かりも減って首都圏を抜けたのが分かるが小田原から先は右側にみかん山、左手に相模湾が見えるけど既に夜間なので外は真っ暗だけどトンネル区間も多く、根府川の鉄橋(白糸川橋梁)など名所も多い区間ゆえ、音でどの辺りを走っているのか分かってしまう自分が怖い。見えない海沿いを進みながら寝台特急「瀬戸」は熱海駅(20:55-56)へ入線。明日は早朝6:00に終着駅の宇野の到着なのでそろそろ寝た方がいいのだろうけど寝てしまうのが勿体なくて周囲に乗客が居ないのをいい事にベッドに横になったまま、M君と静岡駅の手前くらいまで雑談を楽しむ。

 

自分は静岡駅の到着前に寝てしまったようだが全車25形100番台になった車両に付いて説明しよう。「瀬戸」と下り「あさかぜ2号」・上り「あさかぜ1号」は基本編成(1~7号車)は下関運転所の25形(カニ24 101~108、オハネフ25 130~135・141~144・146~149・154~157、オハネ25 153~161・172~185・188~193・201~207)と予備編成(8~13号車は広島運転所の25形(オハネフ25 135~140・145・151~153、オハネ25 162~171・186~187・194~200)の車両で運用している。

 

上から18~19行目に・・・「瀬戸」と共通運用の下関「あさかぜ」は全車が25形100番台で電源車までカニ24-100番台が用意されてオール100番台なので元祖オール100番台なのであると書いてあるが実はこれは間違っており、鉄道ファン誌1978年6月号「ニューブルートレイン」を見て電源車を含むオール100番台は「瀬戸」「下関あさかぜ」より少しだけ早かった1977年9月1日付でオール100番台になった寝台特急「安芸」が先である事が判明。「安芸」なんてまだ20系だと思ったがオール100番台になった「安芸」は翌年の1978年10月2日ダイヤ改正で廃止になった。

 

「瀬戸」1往復と「下関あさかぜ」1往復の運用を担う24系25形100番台の運用番号(広101と広付101)の編成に於けるオハネフ25の切妻方向が全て一定に上り向き側に揃っているのが謎だ。当時の下関あさかぜは広島駅で広付101を切り離したり連結てたのでオハネフ25の切妻は向かい合ってた方が開放や連結するのが楽だと思うが広島運転所に下り向きに連結可能なオハネフ25-200番台の配置が無いのが理由である。車両の話が長く続いてしまったが寝台特急「瀬戸」のレポートへ戻る事にしよう。自分は静岡到着に前に寝てしまったが以下は就寝中の停車駅と時刻。

 

静岡(21:58-22:00)・名古屋(0:14-19)・姫路(0:04-04)・岡山(5:16-12)・・・初めての憧れのブルートレインという事もあって緊張してあまりよく寝れなかったようだがそれでも5時間くらいは熟睡したようで目が覚めて窓のブラインドを上げると岡山駅(5:16-12)へ停車中だった。やはり2段ハネは起きててもベッドで寝てても頭上が高く感じて素晴らしいB寝台車だと思ったくらいである。列車は岡山駅を発車すると山陽本線から宇野線に入るが自分は朝の歯磨きに洗顔を終らせてから寝台へ戻ると列車は茶屋町駅を通過したくらいにM君が起きて来た。

 

当時寝台特急「瀬戸」は日本一早起きのブルートレインと呼ばれて一番早い時間に終着駅へ到着した列車でもあるがあまりにも朝早いのは折角の寝台車なのにもったいない様な気がしてならないと思うのは私だけであろうか?。やがて列車は定刻6:00、終着駅の宇野駅へ到着した。宇高連絡船の5便・高松港行きに接続するが我々は四国へは渡らないので768.7kmを10時間35分で走ったEF65-529[東]の姿とヘッドマークを眺めて一旦改札を出てから吉備線赤穂線と片上鉄道・ 下津井電鉄に乗って宇野駅発・新大阪行きの夜行急行「鷲羽1号(602M)」で帰途に就いた。

 

帰路に乗った上り夜行急行「鷲羽1号」のレポートはこちら

https://hokutosei-95.hatenablog.com/entry/2019/11/01/040315

 

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★