夜行列車の想い出

現在ではサンライズ以外廃止になった定期夜行列車だけど過去の夜行列車・想い出乗車レポートと夜行列車に纏わる懐かしい夜行列車ブログです(1975年以降から)

寝台特急 はやぶさ(B1) 前編

先週のブログでもUPしたが1997年4月30日の寝台特急「富士」を下関から東京まで乗って今朝(1997年5月1日の朝)到着したばかりだけど実は今夜も西に向けて出発する。ゴールデンウィーク後半は前から嫁に言われていた南九州の温泉2泊と子供からは「富士」と「はやぶさ」にフル乗車したいと希望があって1997年11月29日改正で「富士」が大分打ち切り、「はやぶさ」も熊本打ち切りになるので自分も最後に全区間惜別乗車したいと思い、今回の旅を考えた。期間中唯一5月2日だけが息子の通常登校日に当るけど年に1回くらい親公認だからいいだろうと決めて5月1日の下り「はやぶさ」と5月4日の上り「富士」のソロ個室を3枚ずつ押さえた。

 

1997年5月1日(木曜日)、 家族3人で東京駅9番線ホームにて寝台特急はやぶさ」の入線を待っていた。今夜押さえた12号車のソロは3番(1階・自分)、6番(2階・子供)、11番(1階・嫁)で取れており、どこのB個室を選ぶかは既に決めておいた。因みに熊本までソロで購入してその先のヒル区間も別途払うのも無駄なので寝台券は3枚とも3種類の特急券で構築しており、1枚は東京⇒西鹿児島で列車名と料金記載はあるものの、号車と席番記名はなく、別の2枚目に日付・区間・列車名と号車・個室番号は書いてあるけど金額表示はなく、更にもう1枚は料金表示がないヒル区間のみのB立席特急券である。

 

この買い方だと東京⇒熊本のB個室ソロと熊本⇒西鹿児島のB立席特急券の二重支払いで高い料金を払う事はないのだが、まさか都内のみどりの窓口で九州内の下りヒルネB立席特急券が買えるとは思わなかった。家族全員が楽しみにしている九州ブルトレのソロを各自割る当てた旅なので息子も嫁も楽しそうだ。息子は学校の友達に色々言い触らしたらしく顔が生き生きしており、かくいう自分も下り「はやぶさ」フル乗車は1978年以来であり、内心楽しみにしていた。3レ「さくら」が西に旅立ったのを家族3人で見送ると5分後の18:03には5レ「はやぶさ」が入線。

 

扉が開き、早速12号車に乗り込むと昨夜に「富士」で乗車したオハネ25-1002に乗り込み3番個室に荷物を置いてホーム売店で飲み物などを購入してから最後尾14号車のオハネフ25-158のテールマーク前で記念撮影タイム。本当は牽引機確認にも行きたかったけど客車区から東京駅まで回送「さくら」を牽引したEF66-55が「はやぶさ」の牽引機になるので今回は時間の関係でパス。9分間の停車時間もあっという間に終って12号車3番の部屋に集まると18:12に「はやぶさ」が東京駅を発車して西へと向かったので好みの飲み物で乾杯した。カレンダー上では明日も平日だし、長期連休の人は4月28日か29日に出発している訳で12号車の東京駅発車時点では乗車率も少なく空いている部屋も半数以上ある。

 

新橋駅くらいで車掌がやってきて銘々に特急個室寝台券と往復切符代わりに購入した鹿児島・宮崎ミニ周遊券を渡して個室の鍵を受け取るがソロの個室鍵のキーホルダーもデザインがエッジング加工した物と個室番号しか書かれていない物があり、後者のは記念に持ち帰ってしまって代替の物なのだろう。横浜(18:35-36)では数人が乗り込み、時間的にもよいので少し早いけど夕飯にする。いつもなら東京駅でチキン弁当などを買うのだが今回は時間もあったのでホームに家族を待たせて通勤定期券で一旦改札を出て大丸百貨店のデパ地下で購入した崎陽軒シウマイ弁当が今夜のディナー。

 

実家に住んでいた頃はよく食べた崎陽軒シウマイ弁当だが崎陽軒横浜駅の駅弁だけど僕が高校生の頃(1974~1976年)は既に川崎駅のホーム売店などでも売っていて実家が川崎駅から徒歩圏内の自分にとって懐かしい味なのである。横浜駅発車時点で日没時刻を迎えて大船駅を通過した頃には車窓も夜に変わり、6:55着の徳山駅で駅弁販売員が乗り込むので翌朝7時までは各自・個室内での自由行動の解散をして各自の個室に分かれた。暫くして嫁のいる個室(11番)の様子を見に行くとお菓子をつまみながら車窓に夢中になってる姿に思わず苦笑して次に息子の個室(6番)へ行く。

 

子供は窓ガラスに顔を付けて一生懸命に車窓を眺めているが売店(元食堂車)へ行かないかと声を掛けると二つ返事で行くとの事。12号車から9号車のロビーカーを経由して8号車の売店(元食堂車)へ行くとちょうど車内販売巡回の商品調達に戻っており、冷えた缶ビールと息子様にジュース(本当はバニラアイスクリームが欲しかったみたいだけど取り扱いしてなかった、「北斗星」や新幹線の車内販売とは違うのである)を購入して12号車に戻って息子と別れて僕は個室で乾杯した。小田原駅を通過して早川から進行方向左側なら相模湾が見えるけど外は真っ暗で白糸川橋梁を渡る音は確認できた。やがて列車は神奈川県から静岡県を経て熱海(19:39-40)に到着。

 

東京駅を発車して1時間27分だがこの先はまだ長い、因みに「はやぶさ」は何都府県を走り抜くかご存知だろうか?僕の子供にもテストしたが滋賀県岐阜県以外は答えれたけど正解は16都府県である。東京都、神奈川県、静岡県、愛知県、岐阜県滋賀県京都府大阪府兵庫県岡山県広島県山口県、福岡県、佐賀県熊本県、鹿児島県。1997年11月29日改正で「はやぶさ」が熊本止まりになり、「富士」が大分で切られると日本一長い距離を走る定期列車の寝台特急は「さくら」の東京~長崎が1位となる。しかし東京発着寝台特急も近年パッとしなくなった。

 

食堂車の簡素化⇒食堂車の廃止⇒博多あさかぜとみずほの廃止⇒「はやぶさ」と「富士」の熊本・大分打ち切りなど明るい素材がないのである。さきほど子供と売店(旧食堂車)へ行った際に「はやぶさに乗ってる乗客で東京駅から西鹿児島駅まで乗り通すお客は何人くらいいるのだろう」という質問に全区間フル乗車は我々家族の3人だけかなと答えたが夏休みなれば惜別乗車目的の鉄道ファン達が乗ると思うよと希望的予想を伝えたがこればかりは蓋を開けてみないと分からない。富士(20:12-13)を発車すると数名が12号車に乗車したが職場から帰宅して着替えてから出直すとこの時間帯が乗り易い。

 

嫁のいる個室へ様子を伺いに行くと調光式の読書灯を使って西村京太郎の鉄道ミステリーを読んでいた。僕も西村京太郎のファンでブルートレイン殺人事件から夜行列車を舞台にした鉄道ミステリーはほぼ熟読したが夜行列車内で読めばリアルさが伝わりそう。しかし〇〇号殺人事件の殺人現場は列車外で発生してるケースも多いのが笑える。静岡(20:39-40)に到着すると流石に県庁所在地駅だけあって出張なの出張帰りなのか不明だが、スーツを着たサラリーマンも乗り込んだが時刻表を見るとこの時間帯では新幹線乗り継ぎでも姫路までしか行けない(静岡「ひかり227号⇒ひかり127号」23:53姫路)。

 

21時を回って子供の個室と嫁の個室へ行ったがそれぞれ旅を楽しんでいるようなので今夜は早めに寝る事を伝えて浜松(21:34-36)発車後に自分は灯火を落として早めに就寝した。以降は就寝中に停車した駅の時刻、名古屋(22:37-50)・岐阜(23:10-10)・米原<23:49-50>・大阪<1:05-08>・岡山<3:15-17>・広島(5;25-29)「<>は運転停車」。終着、西鹿児島までは長いのでここから先は来週に後編として続きます。

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

寝台特急 富士(B1)

ゴールデンウィーク前半の4月27日から4月30日まで4日間山口線DD51重連貨物や美祢線DD51牽引セキ600・セキ800の石炭石貨物を撮影した自分は宇部空港までレンタカーを返却しに行くついでに厚狭駅まで送ってもらい、帰路の寝台特急「富士」の入線まで2時間以上あるのと厚狭駅ではどうも夕飯の駅弁が手に入らない可能性があるため(買えても幕の内弁当1種だけ)なので「津和野・秋吉・萩フリーきっぷ」のエリアから外れるけど厚狭⇔下関運賃別払いで駅弁の種類も豊富な下関駅まで移動する(因みに帰路の寝台個室特急券はこんな事があるだろうと予想して下関~東京で買っておいた)。

 

1997年4月30日(水曜日)、 下関駅で東京行きの寝台特急「富士」を待っていると大分運転所のEF81-412に牽かれながら19:26に入線したがローズピンク色のEF81-400番台に「富士」のマークが映えて恰好いい。早速12号車のオハネ25-1002に乗り込んで6番個室(2階部屋)に荷物を置き、5分停車を生かして機関車の確認と飲み物購入(駅弁は下関到着後に早めに購入済み)する。最初に先頭にホーム移動するとEF81が外されて下関運転所のEF66-54が連結されているところで売店で冷えた缶ビールを2本購入してから車内に戻ると発車1分前だったが19:31に下関を発車。

 

すぐに車掌が現れて個室寝台特急券と下関~厚狭までの乗車券と津和野・秋吉・萩フリーきっぷを呈示して個室キーをもらって夕飯+乾杯タイムにする。昼も量的には余り食べていないため、ふくすし(800円)と厳流ちらしずし(700円)の2個とも似た様な海鮮のちらし寿司だけど寿司類は総じて好物である。寿司駅弁を肴に缶ビール2本を空けると列車は宇部(20:07-08)に停車。そうえば宇部山口空港からANA700便に乗って帰ったK君はあと1時間で羽田空港着陸だから流石に飛行機は早い。「富士」なんてまだ山口県宇部市を走行中で価格差もそう大して変わらないのに「富士」を選んだ俺はよっぽどの夜行列車好きで暇人という事だ。

 

しかし行きも帰りも「富士」、そういえばゴールデンウィークにはもう1回「富士」に乗る事になるがその話はその時に取っておくとして帰路の「富士」ソロ2階部屋で2個目の駅弁を食べ終り、下関駅売店で購入したフグヒレ酒を飲みながら期間中を振り返る。美祢線DD51牽引セキ600・セキ800の石炭石貨物や山口線DD51重連貨物(益田駅より先山陰線内はDD51牽引貨物)撮影はそれなりに面白かったけど暖地用(実際には一般型として区分)の800番台のは装備的におとなしく、やっぱりA寒地の重装備500番台には叶わないなと思った次第である。

 

寝台特急「富士」は山陽線路を快調に飛ばすが行きに乗った下り「富士」みたいなローリングの揺れはなく、防府(20:41-42)・下松(21:10-11)・柳井(21:32-33)に停車しながら自分は浴衣姿に着替えて2階ソロから見える夜の車窓を眺めていたが、それも飽きてベッドに横たわってEF66が時おり鳴らすホイッスルと客車の車輪とレールが奏でるジョイントのリズムと走行音を聞きながらそのまま夢路を辿ってしまったらしく、夜汽車が奏でるサウンドは子守唄(騒音だと言う向きもあるけど)なのである。就寝時間中の停車駅と時刻は以下のとおり「*印は運転士交代他の運転停車」。

 

広島(22:31-35)・尾道(23:46-48)・福山(0:03-0:04)・岡山(0:45-47)・*大阪(2:55-57)・*米原(4:20-22)・名古屋(5:18-21)「米原駅では電源車内の荷物車の荷扱いの運転停車も含む」。実は名古屋駅到着直前に目が覚めていたので3分停車を生かしてホームの自販機でビタータイプ・缶コーヒーの購入に成功して早速モーニングコーヒー。缶コーヒーなら9号車ロビーカーにもあるけど価格が高い割に自分好みのがなくて買いに行った次第である。外はすっかり明るくなっており、缶コーヒーを飲みながら車窓を眺めてまったりしていると大府駅豊橋駅を通過して浜松(6:31-33)に到着。

 

美祢線山口線の撮影は早朝からで特に山口線重連貨物を宮野~仁保~篠目から撮影開始すると早朝5時前から動いているので必然的に早起きが習慣になる(早朝の貨物や早朝の夜行列車を撮影する鉄道写真ファンにとって早起きは必須というか当たり前の事なのであるが・・・。浜松(6:31-33)の2分停車で飲みたかったコーラをホームの自販機で買ってから車内に戻ってコーラを飲みながらまったりしていると車内販売らしき声が聞こえたので車内販売員を追いかけると弁当とサンドイッチを持っていたのでサンドイッチとホットコーヒーを購入。個室でサンドイッチをコーヒーで頂き、軽めの朝食完了。

 

実は今夜も同じソロ(オハネ25-1002)に乗って西を目指すのだが今乗ってる「富士」の24系が東京へ着いて品客へ回送後整備されると夕方には「はやぶさ」として出区後に東京駅へ回送される。「富士」や「はやぶさ」のソロに4回連続乗車するとマンネリした文章が増えそうなレポートになりそうだ(ヤレヤレ)。天竜川を渡って金谷~菊川や島田~金谷のブルトレ撮影地にチェックを入れると金~菊大カーブで「富士」を撮影している同志を発見。安倍川を渡り終えると列車は静岡(7:31-32)に到着、静岡を発車すると見どころが少なくない様で意外とある。

 

興津川を渡ると暫し東海道線は海沿いを走るので駿河湾と海岸が見えるが海沿いに国道1号線東名高速(E1)が海沿いにあるため、邪魔なのは致し方ないが由比川を渡り終わると東海道線も海岸から離れて富士川を渡るが富士川橋梁から見る富士山も最高だけど薄い雲がかかってその姿を拝む事は出来なかったが大気の不安な晩なので仕方がない事だが列車は富士(7:59-59)に到着。富士駅を定時で発車すると製紙工場の煙突を見ながら進んで御殿場線も乗り入れる沼津(8:16-17)に到着。沼津まで来ると東京行きの東海道線中距離電車もよく見かけるので関東圏が近い事が分かる。

 

御殿場線と分かれた先で狩野川の支流である黄瀬川の橋梁を渡るが富士山が見えていると富士山と寝台特急第二群を撮影する撮影地としても有名で3両くらいしか乗らないけど単機回送や機関車+マヤ34のような撮影には向いて自分もマイカーで何回も訪れてる場所でもあります。今回も富士山は見えなかったのでこの先(三島~函南)にある竹倉温泉の富士山バックも見えないだろうなと思いながら富士山を探したが気が付くと列車は丹那隧道を走行すると熱海(8:34-35)に到着。熱海駅を出発すると湯河原駅の手前で千歳川をいう小さい橋を渡ると静岡県から神奈川県に入る。

 

湯河原~真鶴~根府川~早川の海沿いを通路側の椅子に座りながら眺めていると早いもので小田原を通過したので下車準備をしながら車窓を眺めていたら突然平塚~茅ヶ崎間で貨物線を走る茶色い車両とすれ違った。旅が終ってから分かったのだがEF5861牽引の和式客車「ゆとり」(旧サロンエクスプレス東京)であった。詳細は詳しくしらないけど臨客ではなく、試客でP.Pだったらしいが沿線で撮影している人はほんの僅かでB報ではEF65牽引にしておいて当日電報処理で限定運用かけたのかも知れない。いよいよ大船駅横須賀線と交わって大船観音が見えると横浜市に入る。

 

横浜駅(9:35-36)を発車すると東京駅まで22分なのですぐだけど車掌が個室の鍵を回収に来て多摩川を渡ると東京都大田区なのでやっと戻ってきたような感じがする。品川駅を通過して港区から千代田区に入ると終着駅は近い。下関から東京まで約1,100kmの旅路を終えて9:58、東京駅9番線ホームに到着した。

 

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

寝台特急 富士(B1)

1997年4月26日(土曜日)、 東京駅9番線ホームで寝台特急「富士」の入線を待っていた。勤務先の1997年ゴールデンウィークは4月29日から5月5日であるが早期に4月28日(月曜日)に年次休暇(有給休暇)を入れて場合によって4月25日の寝台特急「あさかぜ」乗車とレール&レンタカーの適用が可能に準備はしておいた。美祢線DD51貨物と山口線DD51重連牽引貨物の事をK君に話すとK君も話しに乗って来て4月26日の宇部空港まで飛行機と割安レンタカーはK君の勤務先で手配するから日曜日の早朝に厚狭駅に到着する「富士」で来ればいいよと言われて急遽「富士」のソロを手配。

 

都合10連休になった今年(1997年)のゴールデンウィークであるが「富士」12号車乗車位置で待機していると16:45に南宮崎行きの「富士」が入線したが東京駅から下り富士に乗車するのはこれが人生初めてである。扉が開くと12号車に乗り込むと熊本運転所のオハネ25-1005で3番個室に荷物を置いたら発車までの10分間に機関車確認と冷えたビールの購入があるので意外と忙しない。牽引機は下関運転所のEF66-42、通常下関運転所のブルートレイン牽引運用は45号機から55号機が主に運用に入るのだが検査や不具合などでの降板交代運用だろうか?

 

ホーム売店で缶ビールの500mlとカップ氷を買うと発車ミュージックが流れており、適当な号車から乗り込んで何とか12号車まで辿りついた。まだゴールデンウィーク前なので車内は空いているけど喉はカラカラなので購入したビールをひと口飲むと落ち着いたがノックがしたので扉を開けると車掌の登場で寝台特急個室券と往復きっぷより安くて購入した「津和野・秋吉・萩フリーきっぷ」を呈示して個室のルームキーをもらう。八重洲口のコンビニで購入したフライドポテトでビールを飲み、カップ氷には持参してきたウィスキーのミニチュア瓶でツマミは6Pチーズで楽しむ。

 

横浜(17:21-22)を発車してもまだ日は高く、本日の日没時刻は熱海発車後なので暫く明るいけど下りではよく乗る「はやぶさ」では大船駅の手前で日没になるから今日は楽しみだけどソロ個室の窓際が山側なのが何とも残念。さて何で今回美祢線山口線DD51貨物を撮影しに行く事になったか説明しよう。美祢線DD51単機牽引ながらセキ600やセキ800の石炭石貨物で昔の北海道炭鉱貨物を彷彿させてくれる。一方山口線DD51重連貨物は小郡駅(現新山口駅)から山口線経由で益田から山陰線で江津駅まで風光明媚な山沿いから日本海沿いを撮影できるが自分が嫌うDD51の800番台だった。

 

普段からA寒地装備のDD51-500番台(500番台とは501~799と1001~1193)ばかり撮影しているとどうも800番台の装備や面構えが、軟弱で今まで無視して放置していた。しかし美祢線貨物もそう長くない事を知ると嫌いなDD51の800番台でも記録は行いたい訳で今回の撮影行きになったのである。車窓を眺めながら飲んでいると携帯電話にK君からの連絡が来て明日早朝6:40到着時間に厚狭駅で待っている件と明日の撮影プランを聞いて通話を切ってアンテナを収納した(当時の携帯電話にはドコモだとiモード携帯中期まで引っ張り出すアンテナが付いていた)

 

夕飯にはまだ早い時間だけど辻堂駅を通過くらいからチキン弁当を食べるが東海道ブルトレのソロでチキン弁当を食べるのは久々である。小田原駅を通過すると個室から出て通路側の椅子に座って早川駅から湯河原駅相模湾を眺めながらちょうど通りかかった車内販売から冷えた缶ビールを求めて飲みながらまったりする。この日の三島市の日没時刻は18:26なのでまだ暫くは明るいので車窓が楽しめそうだが熱海(18:22-24)に停車して伊東線来宮駅横を通過すると「富士」は丹那隧道に進入。丹那隧道を出ると日没時刻を回っているので周囲は暗くなってきたけどようやく夜行列車らしくなってきた。

 

そういえば丹那隧道を高速走行中に12号車は横揺れ以外にピッチングみたいな揺れを感じたが4月11日に出張の帰りに乗った寝台特急「出雲4号」では異常な横揺れやピッチングは感じなかったが台車に不具合あるのか12号車の11号車側と13号車側に取り付けてある平行ダンパに問題があるか線路やバラスト状態に不備があるのであろう?。沼津(18:41-41)で12号車は4人ほど乗り込み、富士(18:56-57)でも乗車があったが仕事が終わった後に乗る夜行列車としてはこの時間でないと難しいのが同じサラリーマンとして気持ちも分かる様な気がする。仕事終わりに定時退勤・駅直行でも18時以降だもんな。

 

国鉄時代の1列車「さくら」も東京駅からハンドルを握ってきた静岡運転所の機関士(現運転士)が乗務員交代する静岡(19:23-24)に到着。流石に静岡県の県庁所在地駅だけあって12号車にも5人が乗り込んで発車したがJR化後は東京~熱海は品川運転所が、熱海~浜松間は静岡運転所の乗務員が担当して寝台特急の静岡駅での乗務員交代は行われていない。夜の静寂「しじま」の中を列車は快調に牧之原台地を進むが車窓からは島田~金谷、金谷~菊川などの有名撮影地は分からないけど大井川や天竜川を渡る橋梁通過音で何となく分かる自分が怖いかも?。

 

浜松(20:18-19)を発車すると第一浜名橋梁で浜名湖を渡るが、ここは東京駅と大阪駅のほぼ中間で昔は東京発大阪行きの「つばめ」と大阪発東京行きの「つばめ」がこの橋梁付近ですれ違った逸話もある。東京駅を発車して4時間が経過、明日は6:40到着の厚狭駅で下車するため、まだ早いけど今夜はこれで寝台で横たわる事にしよう。就寝中の停車駅と停車時刻は下記の通り・・・名古屋(21:29-33)・米原*(22:33-35)・京都(23:21-23)・大阪(23:52-55)・三ノ宮(0:18-19)・岡山*(0:58-2:00)・広島*(4:06-08)・岩国(4:42-42)「*は運転停車」。そう言えば兵庫県内のスラブ軌道を高速走行中にもピッチングみたいな揺れ現象が発生している。

 

朝目覚めたのが防府駅通過くらいで早いものでもう山口県まで来ているが朝の洗面やトイレを済まして下車準備を終らせていたら小郡「現新山口」(6:09-10)に到着。小郡を発車すると山口鉄道部(旧小郡運転区)が見えて構内には「SLやまぐち」用の12系客車や下関地域鉄道部のDD51が停まっていたが「SLやまぐち」用のC57-1は庫の中に格納されているので見えなかった。当時の厚狭駅は新幹線が停車する前の旧駅で早く改札に出れるように撮影機材他を担いで12号車からやや真ん中の号車デッキまで移動して厚狭(6:40-41)到着まで待機して扉が開いたらすぐに降りて改札まで急ぐ。

 

改札口にはK君がスタンバイしてて朝食も取らずに美祢線・湯ノ峠~旧松ヶ瀬信号所~厚保のロケーションがいい撮影地に移動して早速DD51がセキ600・セキ800他を牽く石灰石専用列車(長い編成)を撮影した。期間中、終日美祢線DD51がセキを撮影する日と早朝の山口線DD51重連を宮野から折居(DD51重連山口線内のみ)まで車で追いかけしながら撮影して午後は美祢線に戻ってから撮影する日に分けて実施。山口線内のDD51重連牽引貨物は暫く安泰だけど北海道の石炭輸送で使い終わった黒いボディーに黄色いラインが入ったセキ600やセキ800での石灰石輸送は1998年?で終るので美祢線を優先に撮影した。

 

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

寝台特急 出雲4号(B寝台)

1997年4月11日(金曜日)、 出雲市出張も17時前に終り、出雲空港19:00発のJAS278便には余裕で間に合うけど翌日は土曜日だからといつもの病気が発病して(爆笑)出雲市駅のみどりの窓口へ急ぐがタクシーの支払いでクレジットカード決済に時間がかかってタッチの差で寝台特急「出雲2号」には間に合わなかったので「出雲4号」の禁煙車B寝台を11号車下段を指定して打ってもらうと全く売れてないBOX席の下段を入手できた。駅構内の立ち食い蕎麦屋で出雲蕎麦を食べてかにすしと蕎麦のセットのそば弁当を夕飯に買ってキヨスクで家族の土産と僕の晩酌用つまみを買って改札を通りホームに入る。

 

既にDD51-1188に牽引された「出雲2号」は出雲市駅に入線しているが、自分が乗るのは出雲市駅から連結される、5号車から11号車の付属編成なので「出雲4号」が出雲市へ17:18に入線しても乗車出来るのは17:25を過ぎる。出雲市駅西側の側線に留置中の付属編成を本編成に連結するといよいよ乗車で11号車は尾久客車区所属のオハネフ25-128で機関車の次位(機次)なのでDD51サウンドが楽しめそうだ。31分前に発車した「出雲2号」の後を追う様に寝台特急「出雲4号」は出雲市を17:33に発車。

 

予備編成は出雲市駅からの利用なので先頭の11号車は一番空いている車両で僅かに数人乗っているだけだが、検札の車掌によれば同じ禁煙車でも4号車は下段が殆ど予約中との事で前にも書いたけどマルスは3号車から発売して最後が1号車と2号車がラストになるけど1号車はA個のシングルDXで2号車は喫煙B寝台なので実際の禁煙席では11号車がマルスでは最後の発売となるから11号車は空いてて当たり前だし、それを承知して11号車で発券してもらったのである。寝台特急「出雲4号」は宍道(18:10-10)・松江(18:07-07)と停車して宍道湖の夕景には少し早い(松江市日没時刻18:37)のが残念だ。

 

宍道湖に沈む太陽はいい色になっていたけど落陽時刻だと列車は宍道湖でなくて中海横を走行中に太陽が沈んだ感じであった(ちょうどいい時間に通過出来なくて残念だけどこれも運なのだろうなと自分に納得した。車内で食べれるサイズのおつまみ用あご野焼き(飛魚の竹輪)をツマミに缶ビールを飲んでいたら安来(18:28)に停車して米子(18:38-43)では5分停車。なんか食べる物を売ってないかなと物色するけどホームの店は全て閉まっており、ちょうど乗り込んだばかりの車内販売から缶ビールだけは買えたけど危ないところだった。

 

名峰大山がよく見える伯耆大山淀江間では日没時刻になって外はすっかり真っ暗になってしまったが倉吉駅(19:38-39)を発車してから出雲市駅で買った「出雲そば弁当」で夕飯にする。出雲そばと天ぷらにおかずがついてカニ寿司も付く豪華版だけど時間が経過しているので蕎麦がくっつているのが難点だけど美味しく頂いた。飛行機だと羽田まで22,350円+モノレールとJR610円=22,960円、JRの「出雲」Bネだと20,390円でJRが2,570円安いけど飲食費かかるから大差ないって感じ?。鳥取(20:18-20)に入線すると流石に県庁所在地だけあって米子駅より多く乗ってきたが1号車は何とか3割弱が埋まる。

 

しかし自分の隣席や上段はまだ空いており、このままノンゲストなのだろうか?余部橋梁(全長 310.59 m)の通過を待ってから寝ようかと思ったけど浜坂(20:54-55)で眠くなってしまい横になったので余部橋梁の通過は記憶にないのである。以降は就寝中の停車駅と時刻・・・城崎「現城崎温泉」駅(21:38-38)・豊岡駅(21:49-49)・福知山駅(22:49-51)・綾部駅(23:03-04)・京都駅(0:25-33)・米原駅*(0:44-46)・名古屋駅*(2:21-23)・浜松駅*(3:36-37)・静岡駅(4:32-33)・沼津駅(5:13-14)『*印は運転士交代の運転停車』。昨夜は早く目が覚めたので三島駅(通過)くらいで目が覚めたらもう外は明るい。

 

三島市の日の出時刻が、5:18くらいなので流石に4月である(真鶴~早川で「出雲4号」「瀬戸」が撮影出来るのでもうそんな時期なのだ。先頭の11号車である事をいい事に車掌室横の展望スペースに行くと田端運転所のEF65PF、1105号機の勇姿を見る事が出来て満足して寝台に戻ると列車は丹那隧道を抜けて伊東線函南駅の横を通過して熱海(5:31-33)に到着。2分停車で首尾よく自販機で甘さ控え目のジョージア・ゾットを手に入れたので着替えてから通路側の椅子に座ってすっきりビターテイストの缶コーヒーを飲みながら遅春の相模湾を眺める事にした。

 

熱海~湯河原~真鶴~根府川~早川の海沿い車窓を眺めながらマッタリしていると小田原駅を定時通過、5号車の売店(オシ24-701)へサンドイッチとホットコーヒーを買いに移動するが、流石に11号車から5号車とその帰路は流石に遠かったが朝食を食べ終わると清水谷戸隧道を抜けて横浜(6:33-34)に到着。下車準備を済ませて待機していると既に寝台特急「出雲4号」は都内を快走中で品川駅を通過すると既に東京駅に到着して品川運転所への返却回送中である「出雲2号」や「銀河」の回送とすれ違い、時刻通りに定刻6:57に東京駅9番線ホームに到着(結局自分と同じBOXの相客はノンゲストでした)。

 

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★

快速 ムーンライトえちご(下り)

息子と行った紀勢線・夜行快速2921Mの旅で余った青春18きっぷの残り1枚あるので3月15日に新潟県内に行われる鉄道撮影仲間での一泊飲み会があるのでそれに合わせて前夜の「ムーンライトえちご」で出発しようと計画を立てる。本来なら高崎線始発に乗れば長岡駅に10:07着、新潟駅には11:29に到着出来るが寄りたい場所もあるし、今年(1997年)初の「ムーンライトえちご」に乗ろうと思う。

 

1997年3月21日(金曜日)、 20日春分の日で仕事が休みで飛び石4連休だけど年度末で業務多忙なので休める訳がない。残業をPM7時で切り上げて一旦帰宅後夕飯を済ませてから新宿駅7番線ホームで村上行き快速「ムーンライトえちご」の入線を待っていた。3月中旬とはいえ、深夜のホームは風が冷たく今回は鉄道写真撮影ではないので本格的な防寒着は着用してないから列車の入線を待つのも大変である。暫く待つと22:50に「ムーンライトえちご」となる編成が回送電車で7番線に入線したので扉が開くと早速指定された6号車のクハ165-99に乗り込む。

 

指定された席の網棚に荷物を置いてからホームの階段を上がってコンコース売店酒類とツマミを買って発車前から1人寂しく乾杯する。新宿を23:03に発車したが明日の予定が全く決まってないのである。飲み会の会場となる旅館へ16:00へ集合すればよく、それまでどこで何をするかフリープランなので時刻表を捲りながら予定を考える。明日の下越地方・中越地方・上越地方は天気が不安定だし、撮影機材も一眼レフボディーと単焦点レンズの50㎜と85㎜しか持ってないので本格的な撮影は無理そう。池袋(23:11)・赤羽(23:26)に停車しながら埼京線山手貨物線東北貨物線へと進む。

 

そういえば下り快速「ムーンライトえちご」に乗車するのも約3ヶ月ぶりになるが、明日の予定も決まらないままに大宮(23:40-43)へ到着。特に撮影したい列車も乗りたい列車も見つからないまま、村上まで寝て坂町線で米沢へ行こうかと決めた。天気さえ良ければ白新線羽越線で特急「白鳥」でも撮影したいがカメラの中に入ってるフィルムはISO50のフジクロームベルビア(RVP)の+1補正増感なので晴れないと無駄なコマになるので列車撮影は諦め、列車は大宮(23:40-43)を発車して高崎線へと進む。今夜はM3編成だけの3両編成だが私の隣席はまだ空いてるけど高崎から乗るのだろうか?。

 

今回は村上方面まで乗るので高崎駅の自販機で缶ビールでも買おうかと計画していたが年度末多忙の影響で寝不足が効いたのか熊谷駅の通過前には寝てしまったようだ。就寝中の停車駅と時刻は以下のとおり。高崎(0:55-1:09)・長岡駅(4:05-15)・見付駅(4:26)・東三条駅(4:36-37)・加茂駅(4:44)・新津(4:59-59)。結局高崎駅長岡駅の長時間停車も夢の中で気が付いたら新潟駅だった。結局私の隣席はノンゲストだった様だが新潟(5:12-19)の7分停車で暖かい缶コーヒーを自販機で求めて新潟駅から進行方向が変わった列車でまったりと二度寝を楽しんだ。

 

豊栄(5:32)・新発田(5:44-44)・中条(5:55)・坂町駅(6:02)と停車しながら2回目に目だ覚めたのは終着の村上駅到着直前だったがこの列車は村上駅から折り返し快速3922M、新潟行きになるので村上駅駅前のコンビニで朝食のサンドイッチと飲み物を買って流し込み快速3922Mを坂町駅で下車した。快速「ムーンライトえちご」の旅は終了したが坂町からは始発の米坂線始発の1124Dで米沢に向かう。初めて米坂線に乗ったのは1977年か1978年だと記憶するが当時はキハ58やキハ22が中心でそれ以降米坂線には乗っていないけど冬季にはDD14の特雪撮影で何回かは足を運んでいる。

 

しかし乗車するのは20年振り(このブログを書いている2022年からすれば何と45年前という事になるが本当に久々の米坂線乗車となるがこれが最後になるかも知れない厳粛な気持ちでとなるキハ48のボックス席に陣取る。米沢駅までの車窓を楽しんで米沢駅では有名になった”牛肉どまん中”を買って快速「べにばな1号」で新潟方面への移動を頼んで今夜の宿へ行った。16時集合だったけど早めに到着したのでチェックインを済ましてから露天風呂での温泉を楽しみ17時からは大広間での宴会スタート。宴会終了後はだれかの部屋に戻って遅くまで飲んだけど私は早々と戦線離脱。

 

懐かしい仲間とも会えて新しい出会いもあって楽しかったけど翌朝の朝食を頂いた後に解散となったが知人が新潟駅まで送迎してくれたので新潟からは上越新幹線で上野まで乗って旅が終った。

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★

紀勢線夜行快速 2921M

気軽に思い立った時に乗れる自由席連結の定期夜行普通・快速列車も大幅に姿を消して今(1997年3月現在)となっては新大阪から新宮へ行く紀勢線の夜行快速2921M以外は全て姿を消してしまった。一時期は9系統(「からまつ」「43レ・44レ」「733M」「441M・442M」「347M・344M」「はやたま」「山陰」「731D・762D」「ながさき」)もあったのに最後のともし火となってしまった。そんな2921Mも数年後には臨時化になる噂話も上がっており、青春18切符が使えて空いてる時期に乗りたいなとは頭の隅にあった。

 

1997年3月1日から4月10日まで有効の青春18きっぷが発売されたので子供が土曜日休みになる3月8日をターゲットに息子に声を掛けてプランニング。本当は臨時大垣夜行ムーンライトながら救済臨)で関西入りしてタップリ京阪神を乗り歩いてから新大阪駅始発の紀勢線夜行快速「2921M」に繋げたかったけど臨時快速9375Mの設定はないので始発の東海道線を乗り継ぐと14時台には新大阪に到着しちゃうし、極力乗り換え回数を減らし、短い時間の乗り継ぎが続くと飽きるので余裕ある乗り継ぎで確実に当駅始発の座れる電車を乗り継いで西へ向かった。東京5:46(325M)7:42熱海8:04(429M)10:30浜松10:45(快速3125M)13:29米原14:02(785T)15:46新大阪。

 

1997年3月8日(土曜日)、 上記の行程でフラフラと青春18きっぷ新大阪駅に付いた俺と息子は大阪らしい夕飯を済まして新宮行き夜行快速2921Mが入線する11番線で今夜の夜行列車1号車乗車位置で待っていた。2921Mは1号車から3号車が新宮行きで4号車から6号車が途中の紀伊田辺駅止まりなので乗車位置には注意してホームへ並んだが急行「銀河」に乗る乗客ばかりで急行「銀河」が発車すると11番線は人が減り、「2921M」の発車ホームを間違えたかと思ったが間違えではない。退屈で落ち着かない我が息子と待っていると22:42に2921Mが入線。

 

しかしいくらなんでも発車3分前の入線では落ち着かないけど日根野電車区165系6両編成(全て原色)が入線すると1号車のクハ165-88に乗り込んでいつもの定位置BOXをキープする。何人か乗り込んだもの車内は空いており、まだ小中学生は春休みになっていないこの時期を選んで正解であった。「2921M」は新大阪駅を22:45に発車すると淀川を渡り、梅田貨物線に進むと梅田信号所から大阪環状線の福島駅脇を通って西九条駅大阪環状線と合流。

 

この区間関空特急「はるか」でも有名になったがそもそも阪和線紀勢線天王寺から新宮方面が上り列車番号で新宮から天王寺方面が下り列車番号となるので普通なら新宮行き夜行は2924レになるのだが関空特急「はるか」が京都~天王寺間を下り列車としているため、天王寺~新宮間も下り列車の番号になったため、紀勢線内では上り列車である新宮行き夜行も下り列車になってしまってる経緯がある。大阪環状線に乗り込むと西九条(22:53)、弁天町(22:56)、新今宮(23:01)と停車して天王寺(23:03-05)、16番線ホームに到着。天王寺からも乗車があったけど1人1BOXで充分間に合うくらいだ。

 

平日なら遅い帰宅組のサラリーマン乗車もあるのだろうが土曜日ではサラリーマンの乗車利用も少なく、シーズン的なモノなのか釣り師の乗車も昔に比べて少ないような気がする。息子は時刻表の地図を眺めながら新大阪から大阪駅を経由しないで大阪環状線に入れたルートをマジシャンの魔法にかかった様に時が止まったようにポカーンとしている。説明してもすぐには分からないだろうし、帰宅したらホワイトボードを使って説明してやろうと思う。大阪環状線内を走っていた時は鈍足だったけど阪和線に入ると速度を上げて各駅停車ながらに走ってる時は速い。

 

堺市(23:13)・鳳(23:19)・和泉府中(23:24)・東岸和田(23:29)・熊取(23:34)・日根野(23:37-37)・和泉砂川(23:42)と停車しながら165系サウンドを楽しませてもらったけど乗車しているクハ165-88は1964年4月30日に川崎重工で製造されて松本運転所へ新製配備されると1969年3月26日に長野工場で冷房改造されて国鉄末期の1986年10月18日に天王寺管理局日根野電車区に転属すると1986年11月ダイヤ改正で消滅した12系客車での紀勢線普通客車列車の電車化で活躍する。普通なら夜行列車に乗れば必ず酒類を飲むのだが実は東京から大阪まで来る間、乗り継ぎ時間に余裕があって飲んでばかりいたし、夕飯のお好み焼き屋でも生ビールを飲んでいたので控えた訳である。

 

自分は和歌山到着前には寝てしまったが、以降は就寝中の停車駅と時刻・・・和歌山(23:59-0:01)・紀三井寺(0:07)・黒江(0:11)・海南(0:13)・加茂郷(0:20)・下津(0:24)・初島(0:27)・箕島(0:30)・紀伊宮原(0:34)・藤並(0:38)・湯浅(0:42)・紀伊由良(0:51)・御坊(0:59-59)・印南(1:15)・南部(1:30)・紀伊田辺(1:38-55)・白浜(2:10-20)・周参見(2:56)・見老津(3:07)・江住(3:12)・和深(3:20)・田子(3:24)・田並(3:30)・紀伊有田(3:34-34)・串本(3:40-50)・古座(4:00)・紀伊田原(4:09)・紀伊浦神(4:15)・下里(4:22)・太地(4:25)・湯川(4:29)・紀伊勝浦(4:33-34)・紀伊天満(4:38)・那智(4:41)・宇久井(4:47)・紀伊佐野(4:51)・三輪崎(4:55)・新宮(5:01)。

 

深夜に紀伊田辺駅で後より3両(4~5号車)を切り離しているのは音で分かったし、白浜駅の10分で喉が渇いてホームの自販機でスポーツドリンク系を飲んだのは思えているけど他は爆睡してて全く夢の中であった。新宮駅到着の放送で目が覚めると三輪崎の海岸沿いを走っているみたいだけど新宮市の日の出時刻が6時過ぎなので車窓は真っ暗で当然の如く何も見えない。子供を急いで起して自分も頭の中はまだ半分寝ているのだが下車準備を済ます。

 

所定時刻(5:01)で新宮駅に到着したので新宮6:05発「326D」まで時間があるので立ち食いスタンドで蕎麦やうどんを食べてから紀勢線普通列車や快速で名古屋からは東京まで必ず座って帰れる1本落としの乗り継ぎで帰路も駅弁食べたり酒飲んだりで楽しく旅を終えた。

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★

夜行列車における指定券の話

このブログは夜行列車の話しや過去に乗車した想い出の夜行列車レポートが中心だけど今回は夜行列車の指定券関連の話を中心に書いて行きたいと思う。1958年生まれの自分が始めてマルスと出会ったのは小学生の頃、家族旅行で東伊豆の温泉地へ行くために急行「伊豆」か「おくいず」に横浜駅から乗車する際に川崎駅の窓口で父親がマルスV?(だったと思う)で発券してもらったのが最初である。マルスVは活字棒と呼ばれたゴム印の様な物を係員が機械に突っ込んで印字するタイプでした。旧型マルスは70年代後半に北海道で再度お目にかかるが話は先に進めよう。

 

高校時代や大学時代は現在は故人となったM君と旅に行く事が多く、指定席は僕より何事も経験豊富なM君に一任していたけど一人旅の時は自分で指定席を確保したけど自由席主体の旅が多かったのは確か。指定席といえば乗車日の一ヶ月前(寝台特急などに接続する翌朝の青函連絡船下り便は1ヶ月と1日前発売の特例はあった)が当たり前だったけど実は1980年9月30日までは指定券の前売りは乗車日の7日前からだった。ただしマルス200系統(団体旅行専用のシステム)では団体枠の売れ残りを1ヶ月前に発売していたが絶対数が少なかったので確実に入手するには1週間前発売(マルス100系統)で一番にマルス操作してもらうのが確かであった。

 

初めて味わった挫折・・・1978年の年末に「ゆうづる5号」「青函連絡船5便」「おおとり」で冬の北海道へ行こうと計画を立てて朝5時に川崎駅みどりの窓口へ行けば余裕だろうと甘い考えで当日早朝に自転車で川崎駅へ行くと既に事前受付は始まっており、整理券を受け取ると受付番号は何とNo.14であった。12時過ぎに結果を見に行くと整理番号の黒板の数字の横にはチョークで×のマークが・・・完璧に敗北である。それ以来というものの駅や知り合いに聞いてリサーチ活動で川崎駅は4時50分から事前受付を開始して1番狙いで繁忙期や多客期は午前3時から並んで1番をGETするようになった。

 

更に指定券が取りづらい列車(寝台特急だと「はくつる」や「出雲」(後の出雲1号)のB寝台は通常期でも人気が高い列車で有名だった)を確保するために川崎駅でAM4:50に受付してもらったら原チャリで近くの南武線駅へ赴き、そこでも運が良ければ1番で事前受付をお願いした事もあったし、当時は交通公社などの旅行会社や駅の旅行センターでも指定券だけのお客も歓迎されていた。特に国鉄のN型端末と同等に性能がいい、交通公社自社の多目的指定席端末装置「TRIPS-Ⅲ」を武器に電話予約というサービスも展開いていた。

 

駅の旅行センターも知り合いがいれば便宜を図ってもらえたが指定券だけの客ではあまり言い顔はされなかったが自分は主任クラスの知り合いがいて出張の切符類や私用の指定券に周遊券などはたまた通勤定期までお世話になっていたので便宜を図ってもらえたが旅行センターからびゅうプラザに代わると指定券だけのお客は相手にされなり、時を同じくして日本交通公社からJTBへと社名変更すると「お受けはしますが同じ指定券をご希望のお客様がいたら宿・ホテル・レンタカー・帰路の飛行機を利用するお客様へ優遇するかも知れないかという釣れない返事だった(仕方ないよね)。

 

「豪華個室寝台運転開始・ベストポジション席押さえ戦争始まる」・・・1988年になると「北斗星」「トワイライトエクスプレス」「北陸」の順に個室主体の列車が増えて特に北斗星は尾久客車区持ちと札幌運転所持ちとでは意匠やデザインなどに相違があって北斗星ロイヤルだけでも全5種類の部屋タイプがあり、少しでもいい部屋(新しい新造車で進行方向に進める位置の部屋でソロやデュエットになると1階部屋と2階部屋の選択肢も増えて10:00ジャスト操作(10時打ちとも呼ばれる)を数駅にお願いして10時打ちで取れた数枚の個室寝台券の中からベストな1枚を選ぶのが結構楽しかった。

 

色んな個室の列車が増えるとマルス操作も難易度が増してほんの一部の向上心がないアホ駅員どもの所為で本当なら取れる個室指定券が己の低脳さが現れた入力ミスで取れなかった悔しい思いを経験している(幸い別駅手配で取れてたが)。マルスM型だと列車名指定で北斗星北斗星(個)は後者を選び、次はA個室(ロコ)を選んでから個室定員の数値をモニター画面の個室定員(1)を入力してから通信キーを叩かないとYESかNOが表示する前に再考が表示する。多分アホな駅員は面倒だからw売り切れのNO対応をしてしまうのだと思う。再度プリセットしてもSA1等は既に瞬殺状態なのでアウト。

 

この件については能力の無い駅員を一番大事な1ヶ月前のジャスト発売操作に配置した管理部門の人災みたいなものだから再発防止策と謝罪を駅とJR東日本・東京地域本社へ文章で求めたら圧力で潰しやがったが、窓口駅員は端末知識がある若い人(マルスMのフォーマット画面で個室残席数や号車別の残席数を表示可能な窓口氏)を置いて10時打ちにはベテランが対応するようになったからクレームが反映されたか不明だけど、どんなに素晴らしいマルス端末でもそれを使う人間が正しい操作をしないと意味が無い事は伝わったみたいである(ヤレヤレ)。

 

このままグダグダ話してても(書いていても)キリがないので話を進めよう。津軽海峡線の開通で新型(と言っても実は旧式を改造して個室にしている)の個室寝台が増える中、自分にとっては一番有り難い存在だったJR北海道プラザの存在だ。東京、仙台、横浜、大阪などに出店して自分は暫く丸の内勤務だったので昼休みや帰宅する時によく使わせてもらい、仕事を抜け出して店舗へ遊びに行き趣味の指定券確保以外に出張の指定券や飛行機確保などのお世話になる。JR北海道プラザ東京支店は乗車日の2ヶ月前(つまり10時打ちをする1ヶ月前から店舗や電話で事前に受け付けていた。

 

特にJR北海道プラザ東京支店は北斗星ロイヤルやトワイライトロイヤルに北斗星トマムスキー、夢空間デラックススリーパーのエクセレントスイート(ES)も取れたし相性がよくて10時打ちをお願いする自分の中では№2くらいの位置であり、本当にお世話になった店舗でもあったが北斗星の定期列車が廃止になった頃に丸の内地下エリアの事業整備により閉店してしまったのは残念。テクノロジーの進歩で新型のマルス端末が登場したけど肝心要の夜行列車が減り、事前受付で10時打ちをしてくれる駅みどりの窓口も減ってしまった。

 

発券してもらった指定券でいろんなトラブルもあった・・・上り北斗星2号ロイヤルでタブってしまったり、この時の状況はyahooブログ「夜行列車の想い出」に詳しくレポートしているが偶々自分は入線前からホームの乗車位置に並んでいたのだが車掌判断で早く乗って指定券の発券日時も早かったのを理由に自分が先着権を取らせてもらったが他に日付が変わってから乗る青函連絡船のグリーン船室指定券を駅員が乗車日時を間違えて発券してしまい、本件は自分が翌日に気が付いて後日発行駅で発券し直してもらい解決した。

 

本文上から16行目に「初めて味わった挫折」として書いた始めて指定券確保に於ける挫折を味わったからこそ、狙った指定券は絶対に確実にモノにするという狂ったような執着で人気の寝台券や個室寝台券をGTEしてきたけど今思うとバカバカしく、情けなく大いに反省をしているのだがこの辺で本日分ブログ投稿の文末とさせていただく。

 

       ★★★★★Memories of the night train★★★★★