夜行列車の想い出

現在ではサンライズ以外廃止になった定期夜行列車だけど過去の夜行列車・想い出乗車レポートと夜行列車に纏わる懐かしい夜行列車ブログです(1975年以降から)

 寝台特急 あけぼの(B1)

今週から通常の想い出夜行列車リポートをリリースする予定だったが、1996年5月に旅したDATEが見つからなくて暫し、記事アップを保留にして暇な時に全ファイル探してみたら何と1997年のFOLDERに紛れていたので取り急ぎ本日UPします。1996年は「あけぼの」だけで6回の乗車だし、ブログ記事も新鮮味は失せてマンネリ100%になりそうだけど。先ずは乗車前の旅の概要と説明に手配など。

 

『旅の始まり』小学4年生の愚息から「特急白鳥に乗りたい」と前から請願されていたのだが、確か上沼垂運転区のデラックス485系編成(グリーン車と指定席のみがリニューアルされてる)は1997年3月改正迄でそれ以降は京都総合運転所(旧向日町運転所)の古めかしい485系に運用変更になるので日が長い内に、更に梅雨に入る前に乗って置こうと前々から計画していた。東海道新幹線新大阪駅と「白鳥」の大阪駅乗車でも乗り継ぎ割り引きが適用されて「白鳥」の特急指定席券は半額になるので100系で食堂車も連結していた東京6:13発「ひかり31号」に決める。

 

問題はデラックス編成のシートピッチ大幅拡大で席と窓の位置が微妙に違い、乗車区間が長い大阪~新潟間で席と窓の位置がベストフィットする位置を詳しい人から教わり、禁煙指定席は日本海側がA席なので3両(1~3号車が禁煙普通指定車)の中から指定席販売が最後の号車となる2号車のA・B席でシートと窓の位置がベストな「白鳥」に「ひかり31号」D席・E席を乗り継ぎ割り引きにて10時打ち。「白鳥」のマニアックな号車指定と席番指定にみどりの窓口は難儀だったと思うが都区内~東海道~山科~湖西線北陸線信越線~新潟~白新線羽越線~秋田~奥羽線~福島~東北線~都区内の一筆書き乗車券を大人1枚・子供1枚で購入(序に山科~大阪間の往復キップも確保)。

 

本当は終着駅の青森まで乗りたかったけど青森から帰る上野方面は青森0:15発の「北斗星2号」しかないので秋田駅で降りて帰路は「あけぼの」のソロに決めて1人用個室B寝台券を2枚確保して準備は揃い当日の朝を迎える事になる。

 

1996年5月25日(土曜日)、 東海道新幹線「ひかり31A」(100系新幹線)から本格的な旅を進める。2階建て食堂車が連結してるけど営業開始は7時過ぎからで10時までモーニング営業なので通常の一般メニュー対応は大阪以西なので東京駅で駅弁を買って車内で食べたが自分はしゃけ弁当800円、子供はチキン弁当750円。子供は窓が広い100系新幹線がいたって気に入り、高速運転の新幹線と高台を走るために景色もよく見えるから新大阪までは食事とトイレ以外は窓ガラスに顔を近づけて喜んでいた。やはり0系や200系にのぞみ300系の窓は小さくて車窓を楽しむには不向きで実は自分も嫌いである。

 

3時間程で新大阪駅に到着して新大阪から大阪までは網干行き725Tに乗り換えて大阪では一旦改札を出て嫁から頼まれた買物(小倉屋塩昆布詰め合わせ)をして再び改札に入り、11番線へ向かった。発車6分前に塚本方から上沼垂色の485系デラックス編成が入線したので指定された2号車に乗り込むと新カヌのモハ484-1506であったが停車時間が短いのでサボ(行先方向幕)を入れて子供の写真を撮影するのが手一杯で先頭車での記念撮影は無理であった。グレードアップ編成の普通指定席車は床より一段高くなってるセミハイデッカーなので背の低い子供にとっても景色がよく見えて、ベストな位置をチョイス出来て本当に良かった。

 

特急「白鳥」はAC/DC電源切替のデットセクションが3ヶ所(永原~近江塩津糸魚川~梶屋敷・村上~間島)あり、走行中に無電区間を走行すると同時に照明が消えるメカニズムを子供に説明しても難しいのか興味は示さなかった。特急「白鳥」のフル乗車は下りも上りも自分は何回か乗車して食堂車を連結営業していた盛アオの485系を始めに大ムコの485系を経て新カヌのデラックス編成に「白鳥」が2往復走っていた時代の福井~青森間を結んだ「白鳥」にも乗っているがそれぞれに想い出はあるけど新カヌのデラックス編成は最高である。

 

大いに特急「白鳥」を楽しみ、沿線の美味い駅弁も食べてビールも沢山飲んだ大満足な旅だったけど息子も念願だった特急「白鳥」に乗れて満足そうな顔をしていた。20:06着の秋田駅に到着して20:55発の寝台特急「あけぼの」に乗って帰る事にする。あけぼのが入線するホームに移動して飲み物類を購入して待つと20:53に青森運転所・東派出所のED75-751に牽引されて寝台特急「あけぼの」が入線。扉が開くと早速9号車のオハネ24-551に乗り込んで自分が7番ソロ(1階個室)、子供が8番ソロ(2階個室)に分かれる。20:55に「あけぼの」は秋田駅を発車。

 

「白鳥」の車内販売で購入した酒田弁当部の「ササニシキ弁当」と飲み物を息子の部屋に渡して早く寝るんだよ、と伝えて自分も個室に戻って遅い夕飯を食べたが冷えてても美味い弁当なので普通に美味かったけど流石に朝の6:13から新幹線「ひかり31号」で新大阪まで行って大阪駅から「白鳥」で秋田まで10時間の合計13時間乗ると流石に疲れて欲を言えば秋田のホテルに泊まりたかったがそこを「あけぼの」で帰るという弾丸ツアーなので弁当食べ終えたら早々に寝具を広げて寝てしまった。横手(22:04-06)・十文字(22:16)・湯沢(22:24)・新庄(23:22-37)・宇都宮(5:14-16)は完全に夢の中であった。

 

目が覚めたら久喜あたりで5月下旬なら「あけぼの」もISO400で撮影可能なのでヒガハスこと東大宮~蓮田を確認すると何と12人も居るではないか?まさか"95ぼの"なのだろうかなどと考えても被写体に乗ってるから撮影は不可能である。トイレに寄った子供が個室に遊びに来たけど昨夜は疲れて早く寝たそうだが洗顔とはみがきに降りる準備をしておくように伝えて自分も下車準備に勤しむ。今回は家で留守番している嫁へのお土産が多くて、大阪の小倉屋塩昆布詰め合わせ車内で購入した富山駅の特選ますの寿司、新潟駅ホームで購入した浪速屋の元祖柿の種、秋田駅で購入した秋田銘菓の金萬の4品で鞄がパンパンである。

 

大宮駅(6:31-31)を発車すると首都圏中心部に入り、長い様で短かかった旅も終わりであるが荒川を渡って東京都に入ると上野までは早い。尾久~上野間で推回12列車とすれ違ったら何と一番後ろに連結してあったEF81が95であった。ヒガハスが湧いていたのは95つるの撮影だった一団が続行の「あけぼの」まで撮影していた様である。「あけぼの」は無事定刻6:58、上野駅16番線ホームに到着して先頭まで歩いて牽引機を確認すると田端運転所の100号機で肩すかしを喰らった感じがしたけど子供と京浜東北線北行電車で田端駅まで帰宅した。

 

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ブルートレインへの想い(後編)

1975年秋の夜行列車初乗車(ゆうづる1号)からカウントして1996年10月現在までの間に想い出夜行列車リポートという弊ブログのメインコンテンツにアップした乗車した夜行列車本数だけで383本もの夜行列車に乗って来た。当然資料不足などによる理由や最初からメモとか残していない頃の乗車も少なくないのでカウントしてない夜行列車の本数もあるから実際にはもっと(推定で400本くらいか?)乗ってるのだろうが不確実な数値は排除してある。乗車した期間でいえば1975年から1996年秋の21年間なので383本が尋常じゃない数も理解できるであろう。

 

1998年3月末にミニ周遊券・ワイド周遊券の廃止もあり、夜行列車の数も減ってゆくのだが様々な理由で夜行列車への乗車が減ってゆき、今思うとこんな道楽に嫁もよく許してくれたものだと感謝にたえない。前編では自分の人生とブルートレインとの関わりを中心に書いてきたが後編ではもっと趣味的に掘り下げてブルートレインと夜行列車全般との関わりや想いを描きたいと思う。ブルートレインに何で嵌ったのかと言えば初めて25形の「瀬戸」に乗車した時にブルートレインの暖かさみたいなのを感じたのである。扉が開いてデッキから客室に入るとホッとするような空気が流れていた。

 

暖かいといっても客車内の温度ではなく、体を包むような目に見えないフワっとした感覚と言ったら分かるだろうか?あと独特の車内の匂いが特徴的で偶々乗った「瀬戸」がデビューしたての25形だったので当然新車の匂いもしたけどそれとは違う安心するような心が落ち着くといえば理解してもらえるかな。その後に乗った「はやぶさ」「富士」の25形や「銀河」の20系に「紀伊」の14系、「出雲1号」の25形、「あけぼの」の24形などなど・・・同じ様な匂いがしたけどよく一緒に旅したM君曰く消毒薬の匂いではと言い出す始末。そういえば10系寝台車内の古びた車内でも同じ様な独特の感覚があった。

 

それに何たってブルートレインには心の安らぎがある、乗車するとほっこりする様なマッタリするような言葉では言い表わせないような感触があってそれが非日常的だからそう感じてしまうのだろうがブルートレインに乗ると普段は見慣れている筈の東京~浜松町間のオフィスビル群でもそうだし、「あけぼの」や「はくつる」に「北斗星」でもそうなのだけど見慣れた上野~赤羽界隈の景色も違って見える。自分は約20年という長い期間に北区田端にある社宅に住んでいた事があるため、日暮里・尾久・田端の町が京浜東北線、山手線、東北線から見る夜の景色とは違って見えるのである。

 

1回乗るとまた乗りたい魅力があるブルートレインだが知り合いが2004年にリフレッシュ休暇を6月上旬に5日間(前後の土曜日・日曜日を含めると最長9連休)申請して北斗星のB1ソロで上野~札幌往復するだけでも元が取れる「ぐるり北海道フリーきっぷ」を3枚使って行きつ戻りつの3往復(6泊)して「北斗星」に1週間弱住んだ男がいます。出発日が土曜日だったので差し入れを持って見送りに上野駅13番線ホームへ行ったのですが地上泊は0泊で北斗星6連連泊に命を掛けるとか大げさな事を述べてたけど14形のモバイルノートPCにAirH"(無線LAN)を持参して寝る前と翌日昼間にブログUPしていた。

 

世にも変な旅をして戻った彼から話を聞くと自宅の揺れないベッドではなかなか寝れないとか、数日後に同じグランシャリオチームに話のネタにされて恥ずかしかったとの事だが僕はそういう旅をするなら片道をトワイライトにするとかを選択したいけど思えば自分も経験してみたかった。北斗星連続6回乗車の彼でも1ヶ月もしないで北斗星乗りたい病になったそうで、やはりブルートレインはそんな魔力を持ってる列車だと思った次第。何事もやりたい時にチャレンジするのがいいみたいだが旅の目的もなく、北斗星やトワイライト移動のみのクルージング感覚で往復するファンは少なくないようです。

 

夜行列車の楽しみは人それぞれで点と点を結び移動とか考えない人もいるし、夜行列車移動以外に観光や乗りつぶしを楽しむ趣旨の人もいる。かくいう自分が始めてブルートレイン「瀬戸」を乗りに行くのが目的で帰路の夜行(急行鷲羽)まで時間があったので岡山・倉敷ミニ周遊券伯備線(倉敷~総社)、吉備線(総社~岡山)、赤穂線東岡山播州赤穂)、や片上鉄道・下津井電鉄などを乗ったに過ぎないので夜行列車を乗りに行くという行為が目的そのものであった。

 

そんなオイラの人生を変えたブルートレインや夜行列車について色々述べてきたが趣味の友達や知人、仕事関係だと上司、同僚、後輩、更に出張先の顧客やクライアントなどからよく質問される事が今まで長年乗って来てどの列車が良かったかという質問。これは難しい・・・その時の体調や環境によって大きく変わるから一概に言えないのである。車窓でも冬の雪景色に初夏の新緑、秋の紅葉もあるし、混雑度に寄っても違う。更に開放B寝台だと他人のイビキ等に悩まされてよく寝れなかったとか様々な環境要因があるからどれが良いとか順位を付けるのはかなり難しい。

 

ブルートレイン乗車は総じて楽しめたけど夜行列車全般で考えると座席夜行で寝れなくて苦痛にしか感じなかった列車も少なくなく、夜行列車折り返し(キックターン)で乗った急行利尻・大雪・立山とか大垣夜行沼津駅返し(のちの富士駅返し)は途中駅で下車するので寝れない事が殆どで夜行列車折り返し関係なしに途中駅で降りる時も当然寝れないのが当たり前になるから苦々しい想い出として残っている。それでも結局は楽しいから乗っている訳で自分にとってどの列車がいいか?ではなく、想い出に残ってる列車に軍配を上げたいような気もしなくもない。

 

ちなみに1975年からブログの最新記事(1996年10月まで乗車)でアップしたブルートレインというよりも寝台特急の乗車回数を挙げてみたい。因みに特急「おおぞら」や「オホーツク」みたいにキハ183系に14系寝台車を挟んだ座席車連結の特急寝台や寝台専用急行「銀河」「天の川」に特急か急行か分からない「カートレイン北海道」は除外してあるが電車寝台と客車寝台両方で運行した「ゆうづる」「はくつる」「あけぼの」の583系は含める事にした。列車名での種類は19種類、1番多く乗車したのが24回の「北斗星」、2番目は12回乗車の「あけぼの」と「北陸」、3番目は9回乗車の「出雲」。

 

4番目は8回乗車の「はくつる」、5番目は6回乗車の「ゆうづる」「瀬戸」「あさかぜ」、6番目が4回乗車の「富士」、7番目が3回乗車の「はやぶさ」、少数派では1回しか乗る機会が無かった「紀伊」と「日本海」だがヒルネ利用等は全く含まれていない。集計すると漏れがあるのか少ないように思えるが、しかしこれは単なる結果であり、実績なのでただ乗ったという事であってそれ以外に何もない。同じ系式で同じ区間を走る寝台特急でもそれぞれ個性があるし、編成や連結している設備車両が違えば別物に見えてしまうのがいい例である。

 

次はもっと乗りたかったけど意外と乗車回数が少ないブルートレインの話題でも始めましょう。国鉄時代で日本食堂長崎営業所が担当していた食堂車が連結されていた「さくら」や日本食堂門司営業所が担当した食堂車が連結されていた「あさかぜ」「はやぶさ」「富士」は乗車回数が意外と少ない。自分にとって東京発着ブルートレインは"食堂車"というファクターが大きかったし、個室寝台車の連結よりも重要視していた。しかし国鉄の分割民営化で運営営業所も上野営業所と新博多営業所に変わり、メニュー内容も大幅に減って内容も陳腐化が進んで特に上野営業所持ちの食堂車を担当するブルートレインは酷いものである。

 

ブルートレイン最後の話題になった、最後は個室・・・初めて個室に乗ったのは1984年1月に九州旅行の帰路に乗った1人用A寝台個室でまだシングルデラックスなんて言葉がなかった時でオロネ25-12の増備車だった。偶々帰路の「あさかぜ4号」・B寝台下段が取れなくてキャンセル待ちで網に掛かった席。当時は個室に乗りたいとかの趣向は無くて2段ハネの下段で上等だと思った。次は「さくら」と「あさかぜ4号」で行きと帰りに乗った4人用B寝台個室カルテットでその次が24系「ゆうづる」に連結されていた2人用A寝台個室のツインデラックスだった。

 

ツインデラックスはその後中古車として「北斗星」に連結されたのは記憶に新しい所だが思えば色んな個室に乗った。B個室だとソロ・デュエット・シングルツイン・ツイン・A個室だと・ロイヤル・夢空間エクセレントスイート・スイート・カシオペアツイン・デラックス・などなど。トワイライトやカシオペアの展望スイートにも乗ったけどデビュー間もない24系25形100番台の「瀬戸」(1977年10月)に始めて乗った(ブルートレイン初乗車)した時の感動と感激には勝てなかったと思う。好みや価値観は年々変化があるし、一言では語れないけど「ななつ星in九州」にも乗ったけどあれは私が思い描いてきた夜行列車とは違うように思える。

 

結局僕がブルートレイン大好きになったのは1977年10月「瀬戸」乗車がキッカケであり、あの時に「瀬戸」へ乗らなかったら63歳までブルートレインや夜行列車に拘らなかったかも知れないし、こればかりは現在の自分にも答えが出ない様である。来週からは通常どおり「想い出夜行列車リポート」1996年10月分からスタートします。※本文で1975年から1996年秋までの期間で乗った夜行列車本数を挙げたのは弊ブログのメインコンテンツとなってる想い出夜行列車リポートが1996年秋乗車分まで書き上げているための集計値だからです。

 

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

ブルートレインへの想い(前編)

5週間ほど想い出夜行列車レポートが続いたので別ネタの「ブルートレイン」を語りたいと思う。ちょうど7年前の2015年3月14日に定期列車では最後のブルートレイン(定義は固定編成客車の青い寝台専用特急)でもあった「北斗星」が廃止(実際には臨時格下げ)になったので時期的にもよいだろう。自分とブルートレインとの出会いは本でブルートレインは昭和33年(1958年)に生まれたので自分と同じ齢である事だが実車を見たのは小学校2年生の頃に親と横須賀線で出かけて横浜からの帰路に川崎駅の反対ホーム(1番線)に「さくら」が一瞬にして通過した際に恰好いいーと思ったのが第一印象。

 

本などでその存在は知っており、当時は走るホテルと呼ばれていたくらいの事はガキの自分でも知っていたけど1960年代のブルートレインなんて高嶺の花で親にアレに乗りたいと請願しても相手にしてくれなかった。祖父と祖母が神奈川県西部の湯河原に住んでいたので夏休みになると海水浴がてら湯河原温泉へよく家族旅行へいったのだが利用するのは横浜駅乗り換えで急行「伊豆」「おくいず」「東海」で特急「あまぎ」さえ乗せてくれなかった。小学校3年生になると家の近くにある矢向踏切で下り「さくら」「はやぶさ」「みずほ」を眺めて休日は上りの第2郡ブルートレインの走行シーンを眺めるのが日課になりブルトレ熱は更に上がった。

 

その先中学や高校に進んでも熱は冷めずに深夜に時刻表と時計を眺めてこんな時間でもブルートレインが走ってる現実と浪漫に更なる夢は広がり、絶対に乗ってやると勉強もせずに妙な野望みたいなのを抱いていたが中学や高校になるとカメラを持って東京駅や上野駅まで遠征して車内を覗いて喜ぶ危ない覗き魔学生であった(苦笑)。中学の頃から乗ってみたい列車は多く、1位が走行距離と走行時間が一番長い「富士」、2番目は実物を始めて川崎駅1番線で見た「さくら」、そして3番目が日本海側に沿って走る事を時刻表で知った「日本海」である。

 

因みに元祖ブルートレインでもある「あさかぜ」がベスト3に上がって来ない理由には「富士」「さくら」「はやぶさ」に比べて走行距離が短く、東京駅発車が18:30と遅く、夏至でも横浜で暗くなってしまうのとEF65-500に付いたマークがイマイチ好みでなかったのが理由のひとつ。高校に上がるとクラスメイトのM君(現在は故人である)との出会いで更に拍車がかかり、ブルートレイン絶対乗るぜ病は加熱する一方であった。しかし自分が思い描いていたほどブルートレインに実際に中々乗れなくて583系ゆうづる」こそ高校2年の時に北海道修学旅行で乗ったものの、583系は電車であり、ブルートレインではなかった。

 

しかし初めて乗った「ゆうづる1号」車内での楽しさは念願のブルートレイン乗車を凌駕していたし、これぞ寝台列車!楽しいという満足感は得ることが出来て夢現実に向かって着実に進みつつあったのである。年頃になれば趣味より異性に興味がいくのは自然の摂理でパートナー(彼女)獲得に躍起になるがそこは根っからの鉄道ファンだったので趣味は趣味、異性は異性と割り切っていたので高校時代は女性にはあまりモテなかった(自業自得だな)。と・・・ここまでPCで作製した文章を読み返してみると「ブルートレインへの想い」ぢゃなくて私の趣味人生暴露話しみたいな事になっているではないか?。

 

話を戻そう・・・ブルートレインが恰好よく見えた理由はナハネフ22やカニ21や22の丸い額の様な屋根(ガキの頃は"デコちゃん"と呼んでいた)と車体の白い3本ライン、折戸の扉に大きな窓が何とも素晴らしく見えたのだ。その後14系寝台車に24系寝台車が増えて大好きだった20系は東京口では臨時あさかぜ51号のみになってしまった。夢のナハネフ22展望台へ立つ事は東京発寝台特急では不可能になった。夢挫折かと思いきや急行「銀河」の20系投入で寝台特急から寝台急行へランクダウンしてしまったけど夢は取りあえず叶った訳だ(寝台急行へ格下げ使用でも安く乗れて充分に嬉しい)。

 

僕らの世代の学生時代は均一周遊券で夜行急行の自由席利用が当たり前で結局初ブルートレイン乗車は19歳の時だった1977年10月の24系25形がデビュー間もない寝台特急「瀬戸」である。バイトして寝台特急券を工面してやっと乗れたのだが20系・14系14形・24系24形に1回も乗らないまま、25形に乗ったものだから驚きと感動でそれまでのブルートレインを知らずに当時は最新鋭の25形100番台に乗れた喜びは2021年4月12日の弊ブログに詳細レポートを載せていますが何事にも順番や順序があるもので一番設備のいい25形に乗っていい思いをした後に20系や14系14形に24系24形を乗車したものだから落胆と格差のショックは当然あるに決まっている。

 

24系25形での素晴らしかった寝台車旅に更なる長き旅路と寝台車旅の浪漫にすっかり魅せられた自分は勉学に勤しみながら(本当かよ)アルバイトで旅費を稼ぐのに夢中だったが25形「瀬戸」の旅を一緒にした高校時代からのクラスメイトでもあるM君から来年の夏は「はやぶさ」や「富士」を利用した九州旅行で食堂車も利用可能なロングな寝台列車旅をしようと計画を持ち込まれてアルバイトするのにも気合を入れて稼いだが母親からチョッと待った~が入ったけど父親が旅するのは人間形成に役が立つからと許してもらえて1978年7月下旬から8月上旬の旅に向けてGOOサインが出てやれやれである。

 

大学生になって更に夜行列車への魅惑が増えて乗りたい列車(夜行列車に限らず)や乗りたい線区も増えて夜行列車乗車本数も順調に増えるが夜行急行や普通夜行ばかりでなかなか特急ブルーレインの乗車本数が全然増えないジレンマに悩まされた。そんな中で1978年7月28日に乗車した「はやぶさ」(2021年3月8日他の記事参照)と1978年8月1日に乗車した「富士」(2021年4月5日の記事参照)に満足したのだが大学生になると単に鉄道が好きとか夜行列車が好きだけではないやりたい事もあった。彼女を獲得したりスポーツ系サークル活動もそうだし、コンパにバイトに勉学と人並みに忙しい毎日を過ごす。

 

仲間や知り合いが夜行列車で旅行や夏合宿へ行くと聞けば見送りに上野駅新宿駅へ行って夜行列車の香りを感じて当方は鉄分補強すると夜行列車乗りたい病が発病すると旅の計画を立てて時刻表を捲りながらB5レポート用紙にプランを描くという行程が好きで大学の女子に頼まれると安いルートで乗りトク夜行列車を選んで格安キップにプランまで丁寧に作成するのが心地良くて1人でも夜行列車が便利で素晴らしいと感じて欲しい気持ちは嘘偽り無く、特に乗車券のみで乗れる長野夜行441M・442M・・・大垣夜行347M・344Mに長岡行き733Mは気軽に使える夜行列車であるため、自分も推奨していた。

 

時刻表を見ながら旅の計画を立てるという事は楽しく、実際の旅の楽しみを凌駕すると言っても過言ではないと思うのだがまだ小学生の頃みたいに時刻表を捲ると同じ深夜時刻のこの時に遥か離れた北の地で夜行列車が乗務員の手によって時刻どおり運転されているという事実に胸を熱くして感動した想いは大学生になった自分のハートに変わらず刻み込まれており、夜行列車や寝台列車の旅の醍醐味は忘れておらず、逆に想いは更に強く深く嵌ってゆくのであった。第一次ブルートレインブームが1978年くらいから始まるとマスメディアやTV番組で特集したり、書籍でも煽り始めるようになる。

 

自分が一番感銘を受けたというか影響を受けたのが1978年に発売された鉄道ジャーナル社別冊の「ブルートレイン・青い流れ星」と毎日新聞社MOOKの「夜行列車・星影の旅情」である。特に後者の夜行列車・星影の旅情は北は稚内行きの急行利尻から南は西鹿児島行きの急行日南までの詳細乗車リポートが満載で鉄道雑誌が取り上げてない上り大垣夜行の344Mや中央線長野夜行441Mまで取り上げて夜行列車に乗って訪れるまだ見ぬ遠い地に思いをはせたものである。自分にとってはこの2冊は夜行列車のバイブルだと申しても過言ではないだろう。

 

大学時代はバイト(私立大学なので親からの小遣いは最低限しかもらえない)での予算が許す限り、乗りたい夜行列車に乗りまくっていたが(しかしなかなかブルートレインには乗れず)この感動を人にも教えたいと一般ピープルにも伝えたくなるが鉄道ファンの独り善がりの戯言なんて受け入れて貰える筈が無い。今から約20年くらい前なら女性の鉄道ファンや鉄道好き女子(鉄子)の存在も少なくないけど今から30年以上前は女性の鉄道好きって殆ど見かけなかったし、鉄道は男の趣味という世の中で風潮であった。そこで少しでも女性の理解者を増やすために自分は動き出したのである。

 

1978年か1979年の夏休み期間中に我らバトミントン同好会は長野県・大糸線沿線にある青木湖のバンガローキャンプ場へ夏合宿をしに計画が上がり、自分は新宿から乗り換えなくして行ける夜行急行「アルプス55号」での企画提案して往復急行アルプスの自由席利用で往復切符を含めて1人当たりの総額が安くなるプランを提案。信州ワイド周遊券は都区内から簗場駅往復だと高くなる計算だが、往復に急行アルプスの自由席代も込みだし、当時は学割の信州ワイド周遊券で買うのが最安値だった。帰路は小淵沢まで特急あずさの自由席も使えて有効期間が7日間で提案したら可決された。

 

往路に乗った「アルプス55号」は臨時なので空いており、初めての夜行列車乗車も何人かいたけど喜んでもらえたし、キャンプだけで3泊したので信濃大町や白馬への買出し隊でも信州ワイド周遊券を有効利用してもらえて自分の株が上がった訳だが自分は夜行列車の有効活用と安く乗れる面白さを知ってもらえたのが一番嬉しかった。少しでも自分の知識が役に立てたのは鉄道趣味冥利に尽きると思う。それからはサークルの面々から安く行けるコースやきっぷの相談まで受けるようになり、こういう鉄道を基点にした教える楽しみが増えて今後の人生でも実戦したのは言うまでもない。

 

鉄道が好きなのに何で大学の鉄研鉄道研究会)などに加入しないのか、いぶかしんでいる諸兄もおるだろう。趣味団体は16歳から私設鉄道趣味団体(所謂愛好会・同好会・クラブ・サークルなど)に入会していたし、せめて大学に入ったら女性と知り合える可能性が高い所へ入ろうと思っていたため、鉄研は眼中なかった。自分が入ったバトミントン同好会は女性の比率が高く、可愛い子も多くてキツイ練習もなく、コンパが多くて飲み会好きな自分には大学進学後すぐに入会してしまった。しかし鉄道も好きだし、高校時代の友達M君他、何人かの知り合いがいるためよく遊びに行ってた。

 

コンパやイベント(学祭等)に部外者ゲスト参加してた常連だったので大学4年へ進んだと同時に鉄研へも入会して二足のわらじを履く事になる。ここで顧問をしてた教授から趣味でもひとつの事に拘らず若い内は色んな事にチャレンジしろとご教示されて10代後半から好きだったEF58にDD51、そしてEF65Pが牽引する東京口寝台列車の撮影に関わるが最初は蒲田~川崎~新子安ブルートレインを本格的に沿線から撮影。撮り鉄に魂を売ってもブルートレインや夜行列車の哀愁ある旅路を忘れる訳なく、夜行列車旅情に想いが募るばかりであった。

 

大学を卒業して希望してた企業へ入社すると第二の趣味人生が訪れたのである。それは給料がもらえてブルートレインへ容易に乗れる身分になるが初めての4人で大阪出張へ行く事になる。自分がフリースペースでもあり、灰皿があって缶ビール置くスペースもあるナハネフ22の展望スペースへ案内したりして夜行列車好きが露見。さらに当時上司で出張同行した方から若い頃はよく夜行列車が好きでよく乗ったと昔話につい同調してしまい余計な事を述べて鉄ちゃんがバレバレ。出張から戻り、精算書作成の際に国鉄運賃・急行寝台券に帰路の新幹線特急料金算出が新入社員なのに一番早かった。

 

行先の都道府県市区町が分かれば一番早く行けるルートを瞬時に調べて料金算出も鉄道ファンの特性で早いため、長距離の出張は何故か自分が担当するようになり、年々出張利用としての寝台列車乗車の機会が大幅に増えてしまったが本件に付いては2019年11月29日のブログ「夜行列車での出張について」に詳しく書いたのでそちらを見て頂くとして就職しても夜行列車をきっかけに様々な人と出会えて楽しい行路である。ある時は同じ趣味の同士と出会ったり、またある日は将来の嫁さんとなる人とも夜行列車の車内で会う事ができたのである。

 

1984年5月4日に青森から乗った寝台特急ゆうづる4号」で乗り合わせ偶々同じ寝台区画で一緒になり(僕も彼女も下段)一緒に夕飯の弁当を食べたのがきっかけで彼女が旅好きなのを功を奏して更に夜行列車の旅も好きという事を聞きだして押しの一手で付き合い始めて翌年には「銀河」で京都へ行き、観光見物して大阪移動後に「日本海」で北東北へ観光旅行へ行くマニアックな旅を行い、交際期間1年で結婚。単に夜行列車が好きという理由だけでなくてコミュニケーション能力などでも選ばれたのだろうが仕事で好きな夜行列車に会社の金で乗れて好きな夜行列車内で生涯の伴侶とも出会えた。

 

たかがブルートレイン、されどブルートレイン、僕の人生の岐路にはいつもブルートレインが走っており、まさに人生の縮図であった。僕の人生の多くにブルートレインが走っており、お陰で楽しくもあり、この齢になるまで鉄道が好きでいられたのはブルートレインを含む夜行列車全般の浪漫や想いがあったからに違いない。しかし計算外だった事が1件ある・・・それは僕が60歳を迎える前にブルートレインが全て廃止になって夜行列車も急速に消えたので僕の老後の楽しみが無くなってしまった事だ。しかし自分が40代や50代の頃にフルムーン夫婦グリーンパスで「北斗星」のデュエットなどに数え切れないほど乗って来たから悔いはないけどね。

 

このブログがアップされた1ヶ月半後に僕は64歳になる。今回のブログでは子供の時に初めてブルートレインに出会ってから学生時代、そして社会人になって結婚した頃までを夜行列車想いに被して人生の想いなどを書いてみた。来週の後編ではブルートレインと夜行列車についてもう少し掘り下げて書いてみたい。(えっ、長い?)

 

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快速 ムーンライトえちご(指定席) 

1996年10月10日(木曜日)、 祝日体育の日であるが、篠ノ井線姨捨付近と信越線・青海川駅周辺で編集部から頼まれた撮影しながら長岡を経由し、新潟にて早めの夕飯を食べて快速「ムーンライトえちご」になる前の区間快速3948M(村上~新潟「全車指定の快速ムーンライトえちごは快速3720M」)の始発駅でもある村上駅へ向かった。改札開始まで待合室で居眠りしながら待機して快速3948Mが入線すると改札開始で5号車のモハ164-64(上沼垂運転区)に乗り込んで今回は珍しく、通路側のB席を1ヶ月前に押さえた。

 

この先新潟駅(23:15-23)と新津駅(23:37-58)の停車で1996年3月16日から「ムーンライト」から「ムーンライトえちご」と名称が変わった列車のホームスナップ写真と編成写真にヘッドマークアップ写真を撮影するから窓際だと出入りするのに不便ため、通路側にした次第。22:25定刻に村上を発車すると快調に羽越線を走り、坂町(22:34-35)・中条(23:42)新発田(23:52-52)と停車して新発田から白新線に入り、豊栄(23:03-03)に到着。よく考えたら列車名が快速「ムーンライトえちご」になって初めての乗車であるが村上発が5分遅くなった22:55発になっているくらいしか相違点は見つからない。

 

初めて「ムーンライト」に乗ったのは1988年で羽越線磐越西線の50系を乗りに行ったか撮影に行った際だと記憶してるけどシートの頭が当る部分のカバーは布でなくてシート上部にすっぽり被せるビニール製だと記憶するが、500円でグリーン車と同じシート(中古だけど)で乗れてお得で楽な快速座席夜行列車なので大いに利用したのは言うまでもない。新潟(23:15-23)に到着すると8分停車を利用して対岸の1番線から135ミリで編成写真とマークアップで撮影して乗車ホームに移動して「ムーンライトえちご」と乗客を入れてソフトフォーカス(乗客はピントぼやかす)で写したり色んな角度で撮影終了。

 

「ムーンライト」時代は先頭に細長い形をしたマークにムーンライトと列車名が書かれていたが改正後は丸いマークに変わってムーンライトえちごと表記してあるが実はもう少しセンスのいいマークを期待していた・・・黄色いマークと下の黄色い帯が同化して。5号車に戻ると8割近くの席が埋まっており、僕の隣席(5号車4番A席)には20代後半の女性(美人さん)が乗っていた。会釈して座り、僕が手に持っていたCanonイオス銀塩カメラを見て写真撮影ですか?と訪ねられて事を発端にカメラの話を少々。隣席彼女もカメラや写真に興味があるようで一眼レフが欲しいらしい。

 

新潟駅を発車すると今夜の指定席は満席との放送が流れたが、3両編成だからなのかも知れないけど隣の彼女も乗車10日前でやっと指定券が取れたらしいが実際には隣の席も確保するルール無視の2席厨もいると思う。トイレの帰りに新津運転所脇を通過するのでデッキ扉・窓に近付いて確認すると構内に長岡運転所のDD51-745が停まっていた。五稜郭機関区時代を彷彿させる装備で人気の凸型ディーゼル機関車だが通常は磐越西線内での運用が殆どなので新津運転所常駐、貨物運用貸出しだと東新潟機関区常駐が多く、長岡運転所に戻るのは2交Aや2交B(何れも交番検査)や動輪フランジ研磨くらい。

 

席に戻ると21分停車の新津(23:37-58)に到着すると撮影は殆ど新潟で住んだからいいけど缶ビールを買いに行きたいと思っていたのだが隣席彼女との雑談に花が咲いて買いにいくきっかけを失ってしまった(〃'∇'〃)ゝエヘヘ。彼女曰く何で新津駅で21分も停車するのかいぶかしんでいるので大阪行きの寝台特急隅田川駅行きの貨物(新潟ターミナル23:38発「高速貨物2082列車」田端操着5:24)を先に通すためであると簡単に説明したけど分かってもらえたか不明である。新津発車後に車掌が来て切符類を見せて彼女も新宿までの利用と分かった。5号車の検札が終ると車内・照明は原光され、それを機に雑談も終えて休む事にした。

 

昨夜の松本臨時快速夜行8421Mでは3時間しか寝ていないので加茂(0:15)停車は起きていたけどその後の記憶は飛んでいるため寝たようである…以下は就寝中の停車駅と時刻。東三条(0:22-23)・見附(0:34)・長岡(0:43-1:09)・高崎駅(3:39-40)・大宮駅(4:30-30)赤羽駅(4:48)。赤羽駅入線直前で目は覚めたのだが、新津発車から前の快速「ムーンライト」の時刻に戻ってる。急いで歯磨きと洗面を済ましていると次は「池袋」の車内放送が聞こえ吃驚、上りも池袋に停まるんだ~って感じ。昨夜はビールも飲まなかったのでトイレで目が覚める事もなく、ぐっすりと寝たがムーンライトここまで爆睡したのは本当に久々。

 

池袋(5:02-02)を発車すると終着駅の新宿駅は目と鼻の先(事の例え)なので降りる準備をして隣席の彼女に別れを告げていると5:10に新宿駅へ到着した。山手線内回り電車で品川駅まで行き、東海道線根府川駅まで行く。加入している鉄道趣味団体の変わりだね駅特集で自分も投稿するために関東大震災でホームに停車してた列車の一部とホームもろとも地震で海中まで没した(現在でも海底には当時のホームが眠ってる)駅で有名だし、天気が良く、空気が澄んで日には伊豆大島や房総半島までが見渡せてホームから日の出が望めるため、以前は元旦に初日の出号の目的地だったので選んだ由。

 

まだ有効期限が1日残っているので翌日は始発電車で高崎線上越線を乗り継ぎ、変わりだね駅の原稿作成用に下りホームは清水トンネル入口にあって上りホームは地上にある湯檜曽駅を選んで原稿ネタを探して写真も撮影して帰りも普通列車乗り継ぎで帰ったが結局10月10日~12日に9000円で購入した「鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ」は単に乗車した距離の運賃だけで17,510円分乗って8,510円分のお徳になった。

 

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中央線・臨時快速 8421M

1996年10月9日(水曜日)、 飛び石4連休前夜となるこの日に自分は新宿駅7番線ホームで松本行きの臨時快速 8421Mの乗車位置に並びながら8421Mの入線を待っていた。実はJRから「鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ」(有効期限1996.10.4~10.20の3日間で大人9,000円・青春18と同じルール)を利用して費用のかからないチープな旅を計画していたのだが中央東線の快速夜行にも暫く乗ってないし、篠ノ井線他での撮影もしたく、1日分2,260円の青春18きっぷに比べて鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷは一日分3,000円と割高だけど致し方が無い。

 

自分は発車時刻の90分前くらいに並んだけど自分が並んだ列は先頭で昔の441Mみたいに人気がないようだ。しかし入線直前には一番端の号車(号車札が入っておらず不明)の号車も10人くらい並んで8421Mになる回送9412M(松本17:55⇒23:50新宿)が7番線に入線した。臨時松本夜行8421Mは通常東トタの115系6Bを使うけど9日は長モト115系6B使用のため、遥々松本運転所から回送である。ドア扱いが始まり早速クハ115-1214へ乗車すると定位置の進行方向右側の窓際BOXをキープ。今回は経費削減のためにカメラも1台とレンズ4個(50ミリ・85ミリ・100ミリ・135ミリ)のみの軽装備。

 

いつもならE-BOX アルミアタッシュLLにフル装備入れて三脚もハスキー4段と3段を車に積んで出かけるけど今回はレンタカーさえ使わないので駅から歩くのでカメラボディと交換用単焦点レンズ4個のみなのでフットワークは軽いので4㎞くらい歩けそう。自宅から持ってきた角瓶が入ったポケットボトルにおつまみ各種(ベビーチーズ、ナッツ他)を持参したので氷が入ったカップ売店で購入。入線してから発車までの9分間は瞬く間に過ぎて日が変わる1分前の23:59、8421Mは新宿駅7番線を発車した。JR全線乗り放題きっぷは10日から有効期限にしてあるため、立川迄の乗車券は自販機で購入済み。

 

8421Mの車内は1ボックスに1名程度で年間の運転数も少なく青春18きっぷ対象日にはほぼ走らないから利用者が少ないのかも知れない。新宿駅から53分間走ると最初の停車駅でもある立川(0:34-34)に停車する。8421Mに乗るにも本当に久々で、実に2年半振りであるが1993年12月で廃止になった中央線・普通夜行1521M(前身の421Mや441Mに425レも含む)が消えてからの臨時快速とはいえ、臨時で復活した月日は失念。現在では昔ながらの全区間自由席主体,普通・快速定期夜行って紀勢線の2921M(新大阪⇒新宮行きしか残っていないのが現状である。

 

松本行き臨時快速夜行もいつまで走るのか1996年10月時点では不透明だったし今回車で行けばもっと効率的で楽に撮影できたけど敢えて乗った次第である(因みに松本行き臨時快速夜行8421Mは1998年5月1日の運転を最後に完全廃止になっている)。中央線は快速電車の運転を終えている時間帯であるけど八王子(0:44-45)くらいで帰宅が遅い勤め人が殆ど降りて列車は深夜の中央線を快調に飛ばして高尾(0:52)に到着。持参した酒とツマミも終ったので朝も早いので寝る事にするが近郊型の115系では寝づらいと今さらながら思った次第。

 

以下は就寝時間帯の停車駅と時刻・・・大月(1:29-30)・塩山(2:-05)・甲府(2:26-28)・小淵沢(3:16-20)・茅野(3:44)・上諏訪(3:51-56)・岡谷(4:06-11)・塩尻(4:22-34)・松本(4:45)。朝早すぎて目が覚めたら松本駅入線という結末だっけど運転時間が短くて寝不足状態でギリまで寝ていたみたい。何でこんなに朝早く到着するのか不明だけど睡眠中にも2回くらい目が覚めたので実質3時間しか寝てないためツライ。松本駅へ早朝というより未明の4:45に放り出されても困るんだけど篠ノ井線始発電車でスイッチバック善光寺平の眺めが有名の姨捨駅で下車。

 

実は加入している趣味団体の機関誌が「変わり種駅」の特集を行うので姨捨駅のスイッチバックが分かる写真を撮影してくる特命を受けて来た次第。過去に撮影したのがあるけどイベント列車や貨物不可という事で2531M、2530M、2532M、特急「しなの」を撮影して長野~直江津経由で日本海に一番近い青海川駅へ移動して青海川の駅ホームに砂浜と海を入れて特急「かがやき」「雷鳥」「北越」に普通列車を撮影したがこれも編集部から頼まれた写真。青海川駅から普通電車乗り継ぎで長岡から村上駅へと向かった。

 

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寝台特急 出雲1号(B寝台)

1996年9月30日(月曜日)、 東京駅9番線で浜田行きの寝台特急「出雲1号」の入線を待っていた。急な島根県出雲市への出張で始発の飛行機(羽田7:55発「JAS271便」9:15出雲市着)なので相手先の会社へ朝9時に到着する事は到底無理なのでこの様な時は寝台特急の利用が効率よくて便利である。18時まで残業してからみどりの窓口で「出雲1号」の禁煙B寝台を申し込むとMR任せだと米子からヒルネになる4号車を優先して発券するのだがヒルネは避けたいので出雲市駅で切り離される5~11号車の禁煙車下段指定で席番は数値を大きい数にて8号車14番下段をゲット、乗車券も含めてViewカード決済。

 

夕飯がまだなので弁当を買ってホームに上がると「出雲1号」が入線したので8号車のオハネフ25-127に乗車して牽引機を確認すると田端運転所のEF65-1112をチェックしてからホームで缶ビールや飲み物を購入して車内に戻った。指定席は3号車の3番から売っていくルールなので8号車の14番という車両の端(しかし台車の上ではない)なので空いてるだろうとアタリをつけたのだが定刻18:41に東京駅を発車しても8号車には誰も乗って来ないのは驚きである。月末だし、どこの企業も期末(1996年上期の期末)なので出張も少ないのかも知れない。

 

流れ行く都会のオフィスビルの明かりを見ながら「出雲1号」に乗るのは本当に久々で「出雲3号」なら出張で2年前の1994年に乗っているが「出雲1号」ともなると10年以上前だと考えていたら米子車掌区のレチが回ってきたので出雲市までの指定券+乗車券を渡すと「ご乗車有難うございます」と慇懃に挨拶したので乗車率を聞くと約半分との事、途中駅で団体でも乗って来るのだろうか?。缶ビール片手にチキン弁当を食べ終わると多摩川を渡り、川崎駅を通過。ホーム売店で買ったカップ入りの氷にウィスキーを流し込んでチビチビ角瓶のロックを楽しんでいると横浜(19:05-06)に到着。

 

乗車しているオハネフ25-127は1976年10月から品川客車区で「はやぶさ」「富士」「出雲」で長年使われて来た客車だが「あさかぜ1・4号」の廃止で再編されて1994年12月3日付で尾久客車区へ転属になったグループで「出雲1・4号」の他に臨時「エルム」の運用や「北斗星」(主に6003レ・6004レ)に使用されている車両である。もっと早い時間帯に出雲空港行きの便があったり、空港まで松江駅出雲市駅から1時間以上の時間を要してなければ寝台特急「出雲1号」の利用は認められない訳で翌日休日の帰路はともかく、出張移動で下りの夜行列車長時間乗車は例外を除いて難しい時期になっている。

 

5号車の売店(オシ24-703)へ行くと電子レンジでチン♪の焼売とたこ焼きがあったので前者を購入してカップ氷の氷へ角瓶ポケットを流し込んで熱々の焼売をツマミに飲んだが5号車移動中に乗車人数をチェックしたけど半分以下の乗車率。日本食堂・米子営業所が担当していた食堂車の想い出があるので星空バー風食堂車やオリエント急行風の食堂車でも内容やサービスが劣化した1987年以降の食堂車にあまり魅力は感じないけど懐かしい。劣化したとはいえ、トンカツは厨房で揚げていたし、今では売店と車内販売基地のようになっているが老朽化も酷く、寂しさを感じてならない。

 

小田原駅を通過すると街の灯りも急に減って海沿いを走っているのであろうが早川~根府川の玉川橋梁や根府川~真鶴の白糸川橋梁の走行音で分かり、石橋・米神・片浦・江之浦・真鶴などにある隧道に入る音で分かってしまうのは同じ神奈川県民(就職するまで川崎に在住して母方の祖母は保養で真鶴に住んでいたためとブルートレインや臨時に貨物そしてサンライズ撮影で当地に何回も足を伸ばしてるため)なのであろうけど酔いながら自分に可笑しくて苦笑してしまう、千歳川(県境)を渡り、静岡県に入って泉越隧道を出ると列車は熱海(20:09-11)に到着。

 

しかし8号車の乗車は僅かのみで2分停車を終えて発車すると来宮駅の横を通って伊東線と別れると丹那隧道に入ったがこのトンネルは着工から開通まで17年間の月日と犠牲者67名の尊い人命が失われた難工事だった。工事開始時期は電気も削岩機もなく、高圧な大量湧水に落盤に火山帯や断層も多く、温泉余土(温泉熱で変質した溶岩や岩塊)など悪質な地形に阻まれて工事中の北伊豆地震の影響もあってトンネル崩落も多くて大正から昭和にかけての難工事として世界的にトンネル土木学では有名。丹那隧道を出ると沼津(20:28-29)に停車。

 

ウイスキー角瓶6us fl oz(180mg)も全て飲み終えて寝具のセッティングを行い、横になって十数年ぶりに乗った「出雲1号」の事を考えながら過去の想い出に耽る。ジョイントを刻む走行音に時たま聞こえるEF65PFのホイッスルを聞いていると自分が夜行列車で旅先に向かってる高揚感と懐かしい鉄道浪漫のよき想い出がクロスフェードするように己の過去と現在の狭間を行き来している。酔いに任せて寝具に潜ってカーテンを完全に閉めて寝台ランプを消してジョイント音と機関車が時おり吹く、注意喚起のホイッスル音を聞きながらいつしか寝てしまったようである。

 

以下は就寝中の停車駅と時刻・・・静岡(21:10-11)・浜松(22:06-08)・名古屋(23:21-25)・米原(0:23-25)・京都(1:16-24)・福知山(2:53-56)・豊岡(3:54-56)・城崎(4:07-07)・浜坂(4:51-51)・鳥取(5:26-28)・倉敷(6:05-06)「米原と京都は運転停車」。昨夜は静岡到着前に寝てしまい、朝は6:00に起床したので倉吉駅は横になったまま起きていた。山陰海岸の海の青さと松の色が作る色彩も餘部橋梁も夢の中、電化区間伯備線と合流すると伯耆大山駅を通過して山陰線も電化区間になり、境港線と合流すると米子(6:53-7:09)に到着・・・16分停車なので朝食の弁当を探しに行くと幕の内系弁当がない。 

 

1番線ホームに面した一番大きな売店へ行っても置いてあったのはかにすし(1000円)、牛めし(820円)、大山おこわ(820円)などで高め…かにすしは城崎、浜坂、鳥取、松江、出雲市の各駅でも900円なのにと文句言いたいけど大山おこわと暖かいお茶を買って牽引機を確認すると米子運転所のDD51-1177で久々に見る原色DD51+ブルートレインの姿に惚れぼれして機会を見て久々にロケーションの美しい場所で撮影したいものである。米子を発車すると車窓に中海が広がり、大山おこわを頂いていると安来(7:18-18)到着。冷えてるため、やや硬めだけど久々に食べたらやはり美味かったので満足。

 

そういえば以前、出雲1号は荒島駅運転停車したと記憶しているのだが今は通過みたいで松江(7:37-39)に到着。流石に島根県の県庁所在地駅だけあって下車する人も多いみたいだけど松江を発車すると車窓に宍道湖が見えてきたけど自分は下車準備などで忙しく宍道湖を見つめている暇はなかった。宍道(7:55-55)に到着すると次はいよいよ下車駅の出雲市だが結局自分の寝台の隣と上段両側は誰も来なかった。木次線と分かれて出雲平野から宍道湖に流れる斐伊川の橋梁を渡ると一畑電気鉄道の線路が近付くと下車駅でもある出雲市(8:12-21)へ到着。

 

出雲市駅は2年後の高架新駅と高架区間の建設中で1998年の新駅舎と高架ホームが楽しみであるが改札を出て駅前タクシー乗り場からタクシーで出張先に向かった。

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寝台特急 あけぼの(B1) 

1996年9月22日(日曜日)、 青森市内のホテルで結婚式が終り、2次会も参加してお腹一杯飲んで食べて会場を後にしたがあとは上り「あけぼの」に乗って帰るだけである。礼服やネクタイに家族のお土産はホテルから宅急便で自宅へ送ったので帰路もラフな恰好で軽装備なので時間もあるのでメモリアルシップ八甲田丸横の公園でベンチに座って青函連絡船・八甲田丸(5,382総トン数)の勇姿を眺めながら時間を潰し、改札に入って「あけぼの」の入線を待つ。

 

ホームで上野行き寝台特急「あけぼの」を待っていると17:41に青森運転所からの回送列車がED75を連結したままぶら下げてDE10が牽引して入線。早速8号車に乗り込むとオハネ24-555だった。オハネ24-555はあけぼのソロの予備車で全般検査や不具合発生の際にピンチヒッターとして投入されるのだが、北斗星SA1ファンにとっては不吉な番号だけど車内に進んで今夜の宿は8号車15番でソロは1階であった。牽引機である機関車を見に行くと青森運転所・東派出所のED75-726を確認して披露宴と2次会でビールは沢山飲んだため、控えてワンカップと濁り酒などを買って個室に戻ると青森駅(18:01)を定刻発車

 

「あけぼの」ソロの1階に当たるのは1991年か1992年くらいだと思うが「あけぼの」ソロの起きてる時間帯の部屋環境と寝ている時間帯の部屋環境については後ほどレポートしてみたい。すぐに車掌が来て青森・十和田ミニ周遊券のB券と特急寝台個室券を呈示するものの特に説明はなく、帆立貝柱の燻製でワンカップ清酒で乾杯だ。まだ夕飯を食べる気はないけど青森駅で予約専用の津軽路弁当(伯養軒・青森支店謹製)を事前予約して購入したのだが本来纏まっての数でしか注文できない予約専用弁当を申し込む時はマジ塩対応で焦った。

 

そもそもその手の弁当は最初に偶々どこかの大口団体用に作るから偶然前日に電話したら1個でも予約はOKだったけどあれから時が流れると担当者も変わり最低10個以上のご予約を通してくる。しかしこっちも負けられないから1個でも受けた人の担当者名を上げると駅売りにも美味しい駅弁がありますからと話を変えてくるので価格に見合った好みの駅弁はなく、残念。伯養軒青森支店も青森支社になり、NREも入り込み人事や職制でバタバタしていたのは理解できるけど今回が最後だと言われてしまった。サービス業の根底を知らない対応だけどこれが現実なのかなと思う。

 

北東北の日の入り時刻は早く、17:35には日の入りを迎えるので既に青森発車時刻で周囲は薄暗くて景色を見るのは遅いけど滝内信号所や新青森くらいは外の景色は見えたけど秋の日はつるべ落としなので漆黒の闇が迫り、1996年5月に家族3人で利用した同じ列車とは思えないくらいに闇に吸い込まれて行く。家族で分散してソロに乗るものいいけどやはり気兼ねない一人旅が最高で秘密基地みたいな風貌の個室もいいもんだ。個室のテンキーロックを好きな列車番号の(東北非電化エリアのDD51牽引貨物列車の列番)4桁番号を入力テストしていると弘前(18:37-38)に到着。

 

購入した酒も1本を残して飲み干してしまい、口寂しくなったら下り「あけぼの」では鶏めしを購入した大館(19:16-17)に到着して青森駅で予約購入した最後になるであろう「津軽路弁当」で夕飯にした。この弁当との出会いは1985年くらいで青森駅から急行「津軽」へ乗車した際に購入している。1996年のJTB時刻表にも紹介されているが、津軽路は大ぶりの帆立貝が2個入った帆立と鮭の炊き込みご飯が中心で2段目の別容器にはおかずが沢山盛り付けられた2段弁当で価格的にも青森の名物もそこそこ入った駅弁で個人駅には気に入っていた。

 

そんな最後になった伯養軒青森支店の津軽路弁当を軽く平らげて最後の日本酒の残りを飲むと鷹ノ巣(19:35-35)到着。今宵乗ってるオハネ24-555は予備車で運用から外れて運転所で眠っている事が多いのか車内の意匠がやけにきれいに感じるし蛍光灯も明るく感じるのは気のせいか?。鞄の中に忍ばせてきたマルチバンドレシーバーでCタイプ無線の下り周波数・上り周波数・入換え周波数を全てスキャンさせているので上り「あけぼの」1002列車以外の無線も入感するので景色が見えないからいい暇つぶしになってるが列車は東能代(20:00-00)と八郎潟(20:26-26)にも停車した。

 

Cタイプ無線なんて聞いてて何が楽しいの言われたら何も言えないけど楽しみは人様々であり、発車の際のショック有無を楽しみにしている人もいれば通過したり停車する駅の情景を楽しみにする人もいる訳で自分は発車無線以外に入換え周波数チャンネルを使ってる輸送指令からの会話から鉄道無線を私物化して使っている貨物ターミナル駅JR貨物の機関区から飛んでくる生活臭い挨拶の延長を傍受して楽しんでいる。そうこうしている間に列車は秋田(20:53-55)に到着したので、久々に飲みたくなった缶ビールと甘さ控え目の缶コーヒーを購入。

 

浴衣姿に着替えて帆立貝柱の燻製をツマミに冷えた缶ビールを飲みながら流れる車窓を横目に見て鉄道無線も聞くというマニアックな事を楽しんでいると実に楽しい。あけぼのソロは秘密基地でもあり、スローな時間を楽しむ大人の隠れ家として一晩過ごすには丁度いいのかも知れないけど狭いものは狭いのである(何のこっちゃw)。大曲(21:46-47)に到着すると今夜の宴も終了で早めに就寝するがB1・ソロの徹底比較は翌朝に譲りたい。就寝中の停車駅と発着時刻は以下のとおり・・・横手(22:04-06)・十文字(22:16)・湯沢(22:24)・新庄(23:22-37)・宇都宮(5:14-16)。

 

どうやら無線を切らずに寝てしまったようで新庄駅小牛田駅で機関車交換の際に無線機の感銘テストから各種無線機から音が漏れており、夢の中で聞こえていたような気がする。朝、起床したのは5時半過ぎで昨夜秋田駅で購入した缶コーヒーを飲みながらまったりして洗面と歯磨きに朝の支度と下車準備を終らせていると大宮駅(6:31-31)を発車して「あけぼの」はいよいよラストスパート区間に掛かり、上野駅で定刻6:58に15番線ホームに入線して青森からの長かった「あけぼの」フル乗車の旅が終った。牽引機を確認してないので真っ直ぐに進んでホームを歩くと田端運転所のEF81-97だった。

 

さて「あけぼの」ソロ1階部屋と2階部屋について述べて行く事にしよう。景色を見る事についてよいのは2階が見晴らしがよくて大きなポイント獲得。2階の湾曲した窓ガラスの横に寝て部屋の照明を全て落とせば星空も見えるし個室に開放感があります、ベッドに横たわりながら車窓を見るに楽な判断を加味するとどうしても2階ソロの方がポイントが高い。しかし2階ソロは揺れが大きくてベッドメークした後はトイレとか個室から出るのにすごい面倒でマイナスポイント。2階部屋は人によって共用階段を使うのが気をつかうかも知れません。

 

ここまでは2階ソロ有利ですが一方の2階ソロ個室は屈む姿勢ではありますが通路からスッとスムーズに個室へ入れる反面、室内は出っ張りが多く圧迫感が強いです。出っ張りというのが共同階段の一部でこの出っ張りが1階ソロ個室の雰囲気を悪くしてると言っても過言ではないでしょう。この盲点だらけの1階ソロだが利点も多い、やや低い位置だけどフラットな長細い窓ガラスで景色が見やすい(2階の湾曲ガラス窓は歪んで見える)。ベッドをメイク後も楽に個室から出入り出来る点に背もたれに寄りかかったまま進行方向に向かって足を前に伸ばせる事が一番のメリットか?

 

どこにポイントを絞るかによって1階か2階かを選べばよいだろうけど少なくともこのブログ原稿を作成している時点で「あけぼの」はとっくに廃止になっているのでこれ以上の記述は野暮になるのでやめておく。

 

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