夜行列車の想い出

現在ではサンライズ以外廃止になった定期夜行列車だけど過去の夜行列車・想い出乗車レポートと夜行列車に纏わる懐かしい夜行列車ブログです(1975年以降から)

寝台特急 あけぼの(B1)

1996年9月20日(金曜日)、 3連休前夜だけど上野駅17番線ホームで東北線陸羽東線奥羽線経由、寝台特急「あけぼの」の入線を待っていた。実は9月22日(日曜日)に大学の3年下後輩で僕が鉄研に入った4年生の時に1年生だった人の結婚披露宴が青森市内のホテルであるため、それに参加するためである。大学時代のお付合いが僕が就職しても定期便ともいえるような頻繁な手紙で秋田鉄道管理局と盛岡鉄道管理局(何れも後のJR東北地域本社管内)の情報を送ってくれて僕が東北へ撮影へ行くと聞けば撮影地情報や機関車運用表まで調べてくれて結婚式だけは万障繰り合わせて参加したかった。

 

青森までのフル区間乗車なのでシングルDXを使いたかったけど8月に息子と行った北海道旅行でかなり予算を使ってしまい、今回は狭いソロで我慢するため、5号車の乗車位置で待っていると21:20に推回1001レがオハネフ24-15を先頭に入線。9号車のオハネ24-553に乗り込むと10番個室に荷物を置いて牽引機を確認しに行くと田端運転所のEF8181でホーム売店で缶ビールやワンカップ清酒を買って発車前から乾杯していると21:38に上野駅を静かに発車した。1996年は「あけぼの」乗車が4回目、帰路も「あけぼの」だから5回も乗車するのは何故か乗車回数が多いのである。

 

10番個室は進行方向に向かって右側の二階個室だけどやはり「あけぼの」のソロは狭く感じて礼服やネクタイなどは披露宴があるホテルへ宅急便で送って正解だった。今回車掌が巡回してきたので特急・寝台個室券と往復乗車券より安い青森・十和田ミニ周遊券を呈示して夜行列車晩酌の続きをしているがつまみは嫁がスーパーの特売で買ってきた激安珍味の詰め合わせ(さきいか、ミニサラミ、チーズたら)とチーカマで飲んでいると大宮(22:03-04)へ到着。結婚式は22日だし、明日21日の17時から新郎と軽く飲もうと約束しているのでそれまでは青森・十和田ミニ周遊券でどこかへ行こう。

 

時刻表を捲りながら学生時代に行った三厩駅国鉄時代は「みんまや」でなくて、「みうまや」だった)でも目指すかと思いながら小山駅周辺で就寝・・・以降は就寝中の停車駅と時刻。宇都宮(23:03-04)・黒磯(23:42-45)・新庄(4:36-49)・湯沢(5:46)・十文字(5:55)、6:00に起床して浴衣のまま先頭に2分停車の横手(6:05-07)で牽引機を確認すると青森運転所・東派出所のED75-741を確認。個室に戻って昨夜上野駅で買った生温くなった甘くない缶コーヒーを飲みながら車窓を眺めていると大曲(6:24-25)へ到着。昨夜の夕飯はいつもの時間より早かったため、もうお腹が空いてきた。

 

朝食は大館駅の鶏めし弁当だと頭の中では分かっていても2時間半後まで待つのは辛くて思案していると秋田(7:09-17)へ入線して一目散にホームで営業してる立ち食い蕎麦スタンドを見つけて8分停車を利用してかけそばを味わう。どうせ津軽線三厩駅では昼食にありつけないだろうから〆に大館駅の鶏めしを食べればちょうどいいだろうと思っていたが秋田駅青森駅のホーム立ち食い蕎麦は塩分多目の味で関東風とは違うのだが空腹だったので軽く平らげて車内に戻る。秋田駅を発車してすぐに大久保駅(7:35-47)で運転停車、1624Mと快速「しらかみ2号」(3626M)の交換で12分間の運転停車を終えて大久保を発車(前改正までは大清水信号所で交換していた)。

 

井川さくら八郎潟周辺は秋田米の産地で風に揺れる首を垂れた稲穂が色付いて正に東北の秋って感じがして秋の東北は最高である。大規模米産地では見かけなくなったけど小規模の田んぼや田園風景でこの後見られる稲を干す稲掛け(はさがけ・いながけ)は日本の秋を象徴するシーンだと思う。八郎潟(7:54-55)を発車すると南能代信号所を通過時にやけに短い上り貨物(多分列番が5000番台か9000番台の臨貨)が待機していた。そして五能線の基点駅でもある東能代(8:26-27)へ到着した。富根二ツ井日本海へ注ぐ1級河川の能代川(秋田県で流域面積が2番目「1番は雄物川」)を渡る。

 

開けた場所から山間部を抜けると秋田内陸鉄道との乗り換え駅で大太鼓で有名な鷹ノ巣(8:52-53)に到着。しかしフル乗車だと狭いあけぼのソロは窮屈に感じるけど僕が太ってる訳ではないけど身長が180㎝ある自分にとってはやっぱりきつい。帰路の「あけぼの」はソロ1階なのでどちらが楽で環境がいいか、立証してみたいと思うが列車は大館(9:09-10)に近付いたので1分停車なので6号車へ移動して代金800円を用意してドアが開くと一目散にホームへ下りて駅弁売りまでダッシュで花善の鶏めしを購入して車内へ戻ったが1分停車だと端の車両だと間に合わない公算が強く諦めた人も見かけた様である。

 

早速鶏めしの紐を外して蓋を開けると独特のいい香りが個室中に充満して一気に食べ終わるとやっぱり美味い。国内に鶏肉の駅弁は多いけど予約しなくても営業時間内ならいつでも買える鶏(鳥)の駅弁では1位に上げたい駅弁だ(個人的に上位だと思う鶏・鳥の駅弁は鳥めし@高崎駅、とりめし@日出谷駅など)。他にも美味いとりめし弁当は多いけど寝台特急の1~2分停車で買える事をまだ暖かい事、更に事前に電話予約をすれば列車乗降口まで1個でも持って来てもらえる要素もあるけど弁当の美味さと風味でも1位なのは他には譲れない件。

 

大館駅を発車すると国道7号線と沿って進み、白沢~陣場で下内川を跨ぐ有名な撮影ポイントでもある橋梁を渡ると暫し山間部を走ると矢立峠を越えて青森県に入る。山間部を抜けると昔は関所があって今は碇ヶ関温泉郷で有名な碇ヶ関駅を通過すると大鰐温泉(9:38-38)に到着した。弘南鉄道大鰐線の元東急電車を横に見ながら進むと弘前市に入り、青森県で3番目の都市であるお膝元駅の弘前(9:49-50)に到着。弘前を発車すると次が終着駅の青森なので下車準備をしながらラストのあけぼの車窓を楽しむ。五能線と合流する川部駅を通過して岩木山やリンゴ畑を横目に見て青森市に入って最初の駅でもある浪岡駅を通過。

 

浪岡川のオーバートラス橋を渡って大釈迦鶴ヶ坂の撮影地を横に見て将来は新幹線が停車する新青森駅を通過して暫く進むと津軽線と合流して滝内信号所で青森駅方面へ進み、定刻10:25に青森駅へ到着した。下り「あけぼの」フル乗車では初のソロに乗ったけど秋田から青森までは長く感じてつらかったが、2階個室の長細い窓から見た車窓は良かったけど閉所恐怖症の人には地獄かも知れない。このあとは青森・十和田ミニ周遊券を有効利用して三厩駅まで青森10:56(329M)11:33蟹田12:01(331D)12:41三厩13:12(336D)13:53蟹田14:11(338M)14:55青森と乗り継いだが津軽線に乗るのは19年ぶりである。

 

っていうか津軽線の普通電車に乗ったのは初めてであり、昔の津軽線はキハ22が主力で朝の時間帯はDE10が旧型客車を牽引する蟹田までに一往復走っていたけど当然全線非電化区間だった。翌日青森駅近くの結婚式が行われるホテルへ行き披露宴参加者のみ格安で泊まれるので送った礼服とネクタイなどを受け取ってからチェックインして旅装を解いてから夕方は明日の主役と軽く飲みに行った。

          ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

 

 

1978年の時刻表から・・・中央線夜行列車

 1978年10月2日の国鉄白紙ダイヤ改正(昭和53年10月改正なので"ゴーサントオ"とも呼ばれた)の時刻表を使って何かやりたいと思うがこの手のブログ投降は暫く凍結したいと思う。今回は中央東線新宿駅発車の夜行列車で攻めてみたいが来週から暫く想い出夜行列車レポートを続けるので今日は我慢してください。ゴーサントオダイヤ改正と言えば今まで下り列車や上り列車に関係なく列車名の号数を1号、2号、3号と振ってきたけど本改正からは下り列車が奇数、上りが偶数で電車特急のヘッドマークやテールマークが文字から絵入りマークに変わっている。

 

さて新宿駅発の夜行列車を紹介しよう、本来なら夏休みやスキーシーズンなら多数の臨時夜行急行「アルプス」が走るのだが10月では中途半端だけど致し方ない。トップバッターは新宿22:50発の季節夜行急行「アルプス13号」(6413M)の信濃森上駅行きで全車松本運転所の165系・8両編成である・・・先頭には荷電のクモニ83を松本まで連結。次の発車は23:00発の臨時夜行急行「アルプス53号」(8401M)の松本行きで全車が松本運転所所属の165系・12両編成で全車両が松本止まりとなっている。本来なら「アルプス13号」と「アルプス53号」の間に「アルプス51号」が設定されている筈なのだが10月はなし。

 

なお1978年10月2日改正で夜行急行「アルプス」で主に使われた長モト165系12Bの主な編成を1号車から書いておく。MC165  'M164  TS165  TS165  TB165  MC165  'M164  TC165   MC165  M164'  TC165  TC165(但しTB165のビュッフェは非営業であった)。中央東線名物のやたらMC165やTC165(運転台付き制御者)が多いのは笑える。更に進もう、次の発車は23:20発の夜行定期急行「アルプス15号」(415M)の信濃森上駅行きで全車松本運転所の165系・12両編成だがシーズンによって編成を8両や12両に出来るのは松本運転所165系の殆どがユニットを組んでいるから可能な技なのである。

 

次は23:30発の白馬行き臨時夜行急行「アルプス55号」(8403M)は松本運転所の8両編成で全てが白馬まで運転されるが付属編成が連結される日は4両が増結されて12両になるけど9~12号車の4両は松本で切り離しされる。さて中央東線夜行の核心部へ行こう・・・新宿を23:45に発車する南小谷駅行きの急行「アルプス17号」(417M)は一往復まで続く夜行「アルプス」の中心的な夜行列車だが他の急行「アルプス」は大糸線内も急行列車として走らせたが急行「アルプス17号」(417M)は大糸線内は快速運転なのでグリーン解放したくない国鉄は基本編成は松本止まりにして付属編成を南小谷駅まで運転した。

 

当時の新宿駅から出る夜行列車の自由席は直接ホームに並ばさずに自由席待合所を設けてそこに列車別に並ばしていた。一番多くて有名なのが新宿駅のアルプスの広場で夜行列車が沢山運転される夜行需要期にはアルプスの広場意外にも通路とかに行列が出たけどホームに移動するさいのやり方が適当且つ、いい加減な駅員もおり、行列の先頭を後ろから抜く輩や行列誘導がホームに来る直前にホームに並んだり、いい加減な国鉄西鉄道管理局や新宿駅へ苦情の手紙を書いてもなしの礫(つぶて)で改善は見られなかった。441Mの乗車が直接ホームに並べる様になったのは1987年くらいであった。

 

次に紹介するのは新宿駅23:50発の臨時普通夜行(大月から快速運転)の9631レで品川客車区の旧型客車を使用しており、この列車が生まれた1975年夏から旧型客車だったけど当初は西イイ(飯田町貨客車区)かと思ったが1978年10月現在では西イイや西コフ(甲府)に旧型客車の配置はなく、普段は使われない品川の旧客は川崎駅など側線に疎開してあった客車を使用。1975年運転当初は9631レでなくて、9431レで「山男列車よみがえる」「旧型客車よみがえる」と一部新聞報道された。入線時刻は発車の48分前と早く、このあと紹介する441Mに比べて茅野駅は1時間早く、岡谷駅は2時間早く到着した。

 

そして新宿駅23:50発の長野行き普通夜行441Mは三鷹電車区115系・8両で運転されて下りのみ最後尾にクモユニ82とクモニ83を連結。中央線鈍行夜行とて名高く、1975年3月の改正までは伝統の客車鈍行425レ・426レで運転されていたが飯田町客貨車区の縮小合理化で電車になった。この時国労とレールファンが一緒になって「425列車を愛する会」が結成、結局老朽化している西イイの旧型客車では残せなかったが電車で残った逸話がある山男列車。何と入線時刻は発車時刻の2時間25分前という早い時間で長距離客を如何に優先しているのかが分かる。

 

更に途中の停車駅の停車時刻も多く3分以上停車がザラにあるのが凄い。3分以上の停車駅と停車時刻は以下の通り、大月7分、甲府25分、韮崎3分、日野春55分、小淵沢13分、富士見3分、茅野9分、上諏訪49分、辰野3分、東塩尻信号所3分、塩尻4分、松本15分、潮沢信号所3分、羽尾信号所4分という有様で日野春駅の55分停車はこの後に紹介する臨時夜行急行「アルプス57号」(8401レ)の通過待ち調整時刻で「アルプス57号」の運転の無い日も「アルプス57号」は予定臨の盛スジ8000番台列番なので55分停車するため、静かな小駅での停車ゆえ、いい仮眠タイムになった。

 

学生の頃から大垣夜行347Mとこの441Mは数え切れないほど乗ったり見送りに行ってるが僕は大学時代に鉄道が大好きだけど彼女を見つけるために敢えて鉄道研究会には入らずにバトミントン同好会という名前とは関係なく、イベントや飲み会が多いためにそちらに加入した。高校時代からのクラスメイトで鉄道友達だったM君が鉄研に入っていた関係上、非会員なのに鉄研の部屋やイベントに参加させてもらい、鉄研の知り合いが441Mで旅に出ると自分も缶ビールを買って441MのBOXシートで見送り宴会してから最終電車で川崎まで帰宅した事が何回もある。

 

入線時間の2時間25分前に乗れるので新宿駅停車中に車内で一次会は出来ちゃう感じで楽しめた列車でもあった。小淵沢で降りると当時はまだキハ58やキハ28だった小海線の始発にも乗れたし、逆に松本駅到着が遅い時間なのでスキー客からは不人気である意味利用しやすかった。最後は新宿駅0:30発の臨時夜行「アルプス57号」の松本行きで新宿駅から発車していた唯一の旧型客車使用の優等列車である。客車は品川客車区で岡谷行き夜行と同じく川崎駅他の側線に留置していた旧型客車で上記にも書いたとおり、日野春駅で先行の441Mを追い抜く。

 

この列車は後に千葉発としても運転され、後に12系客車や14系客車にも発展したが民営化されると1987年には品川客車区のお座敷列車「江戸」を使った臨時急行「お座敷アルプス」や1988年夏や1991年夏には品川客車区や尾久客車区の14系座席車+14系寝台車(14系寝台車だけの日もあり)を使った臨時夜行急行「アルプス91号」(9401レ)としても運転されたが1987年には441Mは上諏訪止まりになって1988年には441Mは消えて421Mとして急行「アルプス」の運転本数も減って中央東線の夜行は凋落化を過ぎていた。

 

1978年の中央東線の夜行列車は僕にすれば青春そのもので特に441Mは旅行ではなく、飲みながら語り合う場所でした。初めて急行「アルプス」に乗ったのは大学のバトミントン同好会の夏合宿を仁科三湖の湖ほとりのキャンプ場バンガローでキャンプしたのが最初だったし、青春の想い出しか残っていません。来週からは暫く想い出夜行列車レポートが続きます。

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       ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

急行 銀河(B寝台)

1996年9月6日(金曜日)、 「ひかり107号」にて大阪へ移動して昼過ぎからの打ち合わせの出張が無事に終ったけど出張先のかなり前から懇意にさせてもらってる人から一席設けたと言われて翌日は土曜日なのでこちらも気が大きくなって中央区淀屋橋界隈で宴会になり、二次会が終って時計を見ると既に「のぞみ28号」はとっくに発車して東京行き最終となる「のぞみ304号」も発車まで15分くらいなため、諦めて寝台急行「銀河」狙いで大阪駅へ移動した。とりあえず指定券だけは確保したいので大阪駅みどりの窓口へ行くと禁煙車の9号車下段が空いているので発券してもらう。

 

まだ何とか店を開けていたキヨスクの土産物屋で家族の土産に小倉昆布(塩昆布詰め合わせ)と銘菓を購入して寝台急行「銀河」が入線する10番線ホームで待っていると向かいの11番線ホームには急行「きたぐに」(583系10B)新潟行き(新津~新潟は快速列車)の自由席を待つ乗客が数人並んでいる。入線時間になると宮原客車区から北方貨物線経由で塚本方から急行「銀河」のライトが近付いて入線したが、何と牽引機は田端運転所のPF3次車でもあるEF65-1029だった。扉が開くと早速9号車のオハネフ25-39に乗り込み、寝台に荷物を置いて機関車を見に行くと大きいパンタにスノープロウが恰好いい。

 

ホームの自販機で明日の朝飲む甘さ控え目な缶コーヒーを買って車内に戻ると大阪駅を22:05定刻で発車すると数分後に車掌が急行寝台券と乗車券のチェックに来た。浴衣姿に着替えていると列車は新大阪(22:10-11)に到着して9号車は4人乗ってきたが、今夜の急行「銀河」禁煙席は4割近い売れ残りがあるのを指定券購入時に確認している。窓口担当者は9号車指定をかける前に禁煙車だけで確認(端末のモニターディスプレイに残席数が、表示される)した時に残数を聞いた。京都(22:42-43)に到着したけどベッドで横になるのでカーテンを途中まで閉めていたので人数は分からないけど6~9人?くらいが乗車。

 

「銀河」に乗るのは1月ぶりで上り「銀河」に関して言えば1994年1月以来となり、2年7ヶ月ぶりであるが新幹線「のぞみ」が更に増えると出張での銀河利用は更に減るけど今夜みたいな仕事で最終「のぞみ」に乗れない時は使える手なので使って行きたいけど翌日出勤日だと勘弁願いたいもの。今宵乗ってるオハネフ25-39は製造されて1976年2月25日に宮原客車区へ配置され、「日本海」「つるぎ」に使用。1986年11月からは「銀河」にも使用されてオハネフ25-39は宮原から出る事もなく、客車の生涯を終えて1999年5月12日に廃車された。

 

大津(22:57-57)を発車したので早いけどそろそろ寝る事にしよう・・・以下は就寝中の停車駅と時刻。米原(23:44-50)・名古屋(0:53-57)・富士(4:23-31)・沼津(4:48-51)・熱海(5:08-11)・小田原(5:31-32)。起床したのは6時少し前で藤沢~大船辺りであったが列車は大船(6:02-03)に到着すると自分の朝の洗顔と歯磨きに下車準備と忙しい朝を過ごす。寝台車には100回以上乗ってるけど朝早く終着駅に到着する列車は朝の時間が慌ただしい。それでも窓から一瞬見えた大船観音が見え、東海道本線・東京口では唯一のトンネルで煉瓦積の1887年に竣工、鉄道隧道では現役最古参の清水谷戸隧道に進入。

 

隧道を出るとおよそ5分ほどで横浜(6:17-18)に到着して、約10分で川崎を通過して六郷川橋梁を渡り、東京都に入る。昨日の夜に大阪駅ホームで買った甘くない缶コーヒーを飲みながら東京に帰って来た実感と急行「銀河」の旅も終わりである寂しさを心に感じながら山手線や京浜東北線と並走しながら品川(6:34-34)に到着した。田端へ帰るには品川駅から山手線外回り電車の方が早い気もするけどせっかくだし、東京駅まで行こう。品川を発車すると一大車両基地を通過するのだが毎回の様に珍しい客車や機関車が来ていないか確認するが客車では長野総合車両所のスロフ14とオロ14の800番台が停車。

 

機関車では長野総合車両所EF64-42が停まっており、高崎運転所のEF64-36が停車していたがナノ座(浪漫)のプラスゴールドとロイヤルブルーのカラーが目に眩しかった。浜松町駅を通過したくらいに車掌の東京到着車内放送が流れて6:42、定刻に東京駅9番線ホームへ到着した。新橋側では寝台特急「出雲2号」を牽引してきたEF65-1052が牽引して品川まで回送するので一番先頭へ歩くとなんと電源車がトワイライトエクスプレス色のカニ24-12であった。

 ☆☆来週1月24日のブログは都合によりお休みさせてもらい1月31日に再会します☆☆

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

1975年の時刻表から・・・東海道夜行②

2021年11月22日にUPした「1975年の時刻表から・・・東海道夜行」の続きで関西(京都・新大阪・大阪)発着の夜行列車を紹介します。時期的には1975年3月と言えば山陽新幹線が博多開業した年で多くの夜行列車が統廃合や淘汰された時期だけど、まだ関西発着の東海道・山陽方面の夜行列車は元気があった時期であります。

 

では1975年3月号の時刻表/下り東海道線山陽線89ページから。関西始発下り東海道線山陽線最初の夜行列車は新大阪17:55発の寝台特急「明星1号」の西鹿児島行きで583(581)系の電車寝台にグリーン車1両と4両が普通座席指定席車になっているがこれは4両寝台をセットしないで座席車として販売しているが583(581)系を組み立て寝台設定するスタッフが不足しているため。2番目の出発は新大阪18:12発の座席夜行急行「雲仙」+「西海」の長崎行きと佐世保行きで肥前山口駅で両列車は切り離して単独で運転。客車は1975年3月から14系座席車の6B+6Bの12両で運転。

 

3番手は新大阪を18:28に発車する日豊線経由の宮崎行き・寝台特急「彗星1号(3003M)」、編成は583(581)系で寝台特急「明星1号」と同様で4両が全車指定の普通座席車なのも上記に書いた理由である。何で客車の「彗星」が都城まで運行されるのに583(581)系だと宮崎止まりなのかは宮崎からまだ非電化区間なので乗り入れが出来ないだけという理由。4番手の発車は新大阪18:42発の寝台特急「明星2号(25レ)」西鹿児島行きで24系25形0番台使用。全てがモノクラスだけど初めて2段ハネの24系25形が関西に投入された列車。5番目は京都を18:20に発車する寝台特急「明星3号(27レ)」の西鹿児島行きで583(581)系でグリーン車と非営業のサハネ581意外は全車B寝台で運転となっている。

 

なお1975年10月2日当時の583(581)系関西口・発着車両は門ミフ車を全車両大ムコに集中配置した12両編成で編成組換えがなされている。6番手の発車は大阪19:10発の寝台特急「あかつき1号(41レ)」、長崎・佐世保行きで早岐の14系14形で運転。肥前山口で長崎行きと佐世保行きを分割運転してA寝台は長崎行きに連結。7番目の発車は新大阪19:15発の夜行急行「阿蘇(203レ)」の熊本行きで熊本の14系座席車12両なのに全車指定席という強気だが翌年1976年3月より一部自由席連結、更に1978年10月よりこの先に登場する夜行急行「くにさき」と統合されて門司まで「阿蘇」+「くにさき」という多層立て列車になる。

 

8番手は季節列車の夜行特急「明星4号(6029レ)」、西鹿児島行きだが14系座席車使用の全車指定席で運転。更に9番手は新大阪19:31発の寝台特急「彗星2号(3005レ)」の都城行きで全車モノクラスオール二段B寝台は向日町の24系25形0番台・12両編成を使用。いよいよ二桁10番目の発車は名古屋16:50発(途中大阪19:51発)の臨時夜行特急「金星51号(8031レ)」西鹿児島行きで全車指定席、14系座席車(区所名不明・・・客車運用が名古屋起点なので受け持ち区はおそらく名ナコか?)。11番目の発車は新大阪19:58発の臨時特急「彗星51号(8009レ)」宮崎行きで全車指定席の14系座席車使用。

 

12番目の発車は新大阪駅20:27発の寝台特急「あかつき2号」(33レ)+「明星5号」(33レ)長崎・熊本行きで全車向日町の24系25形、オール2段ハネのモノクロスB寝台編成。2本の列車は鳥栖で分離運転している。13番手は大阪20:44発、夜行急行「くにさき(205レ)」大分行きで列車名は国東半島から銘々、宮原の14系座席車11両を使用して全車指定席で運転しているがその後に「阿蘇」と併結して自由席も連結している件は2番目の急行「阿蘇」に記述済み。14番目は新大阪20:44発、寝台特急「なは」(35M)の西鹿児島行きで583(581)系にて運転・・・西鹿児島行きなのに沖縄県の県庁所在地名の列車名が意味不明。

 

15番手は新大阪20:57発の臨時急行「阿蘇51号」+「くにさき51号」(7111レ)の熊本行きと宮崎行きで下関まで全車指定席、使用客車の詳細不明だけど12系座席車か旧型客車かと推察される。全車指定席の臨時夜行急行に旧型客車は無さそうな気がするのだけど?。16番目は新大阪21:27発、寝台特急「明星6号(43レ」+「あかつき3号(43レ)」の熊本行きと佐世保行きで、この列車は筑豊線経由で鳥栖まで向かい、鳥栖で熊本行きの「明星6号」と佐世保行きの「あかつき3号」を切り離す寝台特急で客車は門ハイの14系14形客車を使い、1~7号車までが「あかつき3号」(2号車はオロネ14)、8~13号車が「明星6号」であった。

 

17番目は新大阪21:43発、寝台特急「彗星3号(3011M)」の大分行きで大ムコの583系を使用して1両のみ寝台をセッティングせずに指定席を発売していたが寝台解体・設営要員の目処がつくとB寝台として設定。18番目は新大阪21:58発、臨時特急「あかつき51号(8045レ)」の長崎・佐世保行き、14系座席車6B+6Bユニットの編成で全車指定席・・・肥前山口駅で編成を分割して運転。19番目は新大阪22:27発、寝台特急「明星7号(37M)」の博多行きだが大ムコの583系を使用して1両のみ寝台をセッティングせずに指定席を発売していたが「彗星3号」同様その後にB寝台として設定されている。

 

いよいよ20番目である、大阪22:40発の臨時夜行急行「阿蘇52号」(8113レ)の鳥栖行きでこれまた強気の下関まで全車指定席だが残念ながら使用客車が全くと言っていいほど分からないのである。客車なので14系座席車か12系客車、はたまた旧型客車なのか全く予想が付かない。14系座席車は臨時夜行特急のハザシで多く利用されているから臨時急行まで回らないと思う。21番目の発車は新大阪22:58発の寝台特急「安芸」(1001レ)は呉線経由の下関行き、

 

「安芸」はそもそも急行列車だったけど1975年3月10日に急行「音戸」の特急格上げにより、再々度新設された寝台特急で下関運転所の20系寝台車で運転。関西発着の山陽方面定期寝台特急では唯一の20系だったけど1977年10月に24系25化されたが1978年10月2日には利用客減少にて廃止になった僅か3年7ヶ月弱の短い生涯だった定期寝台特急だ。いよいよ発車時間帯が深夜の23時を越えると23番目の発車は新大阪23:31発の宇野行き急行「鷲羽1号」(601M)で関西始発の定期夜行列車では最終列車となる。急行「鷲羽1号」は宮原の153系だが5号車のグリーン車のみサロ165を組み込んだ全車指定編成である。

 

そして24番目は新大阪23:25発の臨時急行「鷲羽51号」(9603M)の宇野行き、宮原の165系モノクラス編成で全車指定席だが「鷲羽1号」(601M)も行「鷲羽51号」(9603M)も宇野線宇野駅から宇高連絡船・深夜便に接続しているが宇野着がAM2時台なので寝れない夜行列車としても有名。走行区間も短くて中途半端だけど関西圏からの四国連絡列車として多客期シーズンのみ人気があった。

 

関西発着山陽・九州方面の夜行列車は以上だが番外編として名古屋を22:50に発車する福岡行きの寝台特急「金星」も京都と大阪に停車するので敢えて仲間に入れておく。「金星」は583系門ミフ車を使用、博多着が10:11なのでビジネスには使えないが下松以西の山口県内には出張に使いやすい時刻。以上で終わりだが名古屋始発を含めた関西始発の山陽本線方面・九州方面の定期夜行列車が9種類もあるのに30年後の2005年に残ったのは何と「彗星」「なは」「あかつき」のみという事実。

         

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                          ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

寝台特急 北斗星2号(B1)

2022年最初のブログですが本年もよろしくお願いします

 

1996年8月31日(土曜日)、長かった息子との北海道旅(道内夜行4泊・宿2泊)を終えてお土産も沢山買って(夕張メロンカニは宅配便で送ってある)札幌駅5番線ホームの5号車・乗車位置で上野行きの寝台特急北斗星2号」を待っていた。実は仕事で札幌在住のM君(高校時代からの友達で2019年に交通事故で他界)と北斗星2号入線直前まで喫茶店でお茶を飲んでいたのでそのまま見送ってもらう事になった。帰路は子供から再三再四要望があった1人用B個室である。ご存知の方も多いかと思うけどJRマルス端末からの個室券の発券操作は1回の操作で1件のみなのでリスクが高い。

 

特に「北斗星」の個室は難易度が高くて僕にとっても始めてのチャレンジだったがもし2枚目のソロが取れない可能性も考えてB2デュエットは信頼性があるJR北海道プラザ東京店にマルス操作1ヶ月前に頼んで更に別駅でも10時打ちを2駅でお願いして5号車3番(2F)と5号車8番(1F)を何とか確保する事が出来た。どっちがいいか子供に選ばせると進行方向に向いて座れる1階席の偶数(5号車8番)個室をチャッカリと選んでくれて余った5号車3番には僕が入る事にして5号車8番の特急・寝台個室券を息子に渡しながら見送りに来てくれたM君が「二世は鉄ちゃんの才覚がありますね」などと冷やかすから嬉しいやら悲しいやら(苦笑)。

 

そうこうする内に5番線ホームも賑やかになったところへ札幌運転所からの回送1列車が接近するとDD51 1148+????のDD51重連総括が24系を牽引してホームに接近すると V型12気筒ディーゼル機関2,200PS/1,500rpm×2両(重連)のエグゾーストノート音に包まれて轟音の中でDD51が入線。注意喚起の短笛を鳴らすと目の前に今夜乗る24系の客車がゆっくり通過する。非電化王国の北海道でしか見られないシーンで全線電化された首都圏では見れない貴重なシーンだと思う。無事17:07に入線した「北斗星2号」の5号車6番に乗り込むと5号車はオハネ25-551。

 

暫く使わない息子の部屋(5号車8番)は勝手に使われない様に鍵をかけておき、ホームの売店で冷えたビールを買ってる時間はM君に子供を預けてちゃって申し訳ないなと思いながらももう寝台特急北斗星2号」発車時刻である。M君に見送られて札幌駅を17:13に寝台特急北斗星2号」は札幌駅を発車した。しかしやる事はまだある・・・7号車のGrand Chariotへ行ってシャワーカードを同一時間で2枚予約して急いで号車8番に戻るとビールで乾いた喉を湿らせていると札幌車掌所の車掌が来たので個室寝台券と北海道フリーきっぷに中小国からの普通乗車券も見せて自由な時間になった。

 

北斗星2号」に乗るのは久々で1995年5月以来で近年は子供と北斗星に乗る事が多くてB2が多いけど帰路はB1が2枚取れたので子供は既に今からワクワクしているみたいだ。息子は早く自分の部屋に行きたそうなので早めの夕飯を一緒に食べるが僕が選んだのは南千歳駅で買ったサーモン寿し(700円)と日高路(600円)。息子はえぞ寿司(650円)と札幌駅のとりめし(700円)で早めの夕飯にして残り1個の駅弁は夜食に回すので今回はパブタイムは行かないからねと確約してある。今日は8月最後の土曜日だけど個室指定券は全て売切れになってると車内放送の情報。

 

札幌駅から34分で南千歳(17:47-48)に到着すると息子は自分の部屋に行きたそうなので注意点を述べてから開放したが注意点は個室に入ったらロックする。6号車のロビーカーへは立ち入り自由にしたけど絶対にホームへ降りない事、遅くまで起きてないで早く寝る事、個室から出るときはテンキーロックして暗証番号忘れたら車掌に申し出る事などを付け加えて息子は飲食物と飲み物を持って自部屋の5号車8番へ引っ越して急に静かになったので1人で飲み始めると苫小牧(18:08-09)に到着した。息子の部屋へ遊びに行くとM君からもらった土産の北斗星マークを模ったキーホルダーを眺めてニヤついてる。

 

電着塗装という電気化学応用を使用した塗装法の一つで電位差で塗装成分を電気泳動させる事によって被塗物の表面に塗膜を折出させる塗装印刷技術で25形の車体色である青20号にゴールドラインが入って中央に北斗星のマークがリアルに輝いている俺が欲しいと思ったくらいに精巧に忠実に再現されたキーホルダーだ。そろそろ予約しているシャワーの時間なので北斗星のシャワーセットなどを持って息子と6号車のロビー室(スハネ25-502)にあるシャワー室へ行くとA室・B室両方開いていたので親子で同時に入る。

 

シャワー中に登別(18:40-41)に停車していたようだが僕が先に出て息子が出てくるのを待ってから少しロビー室で寛いでから5号車に戻ると車内販売と遭遇したので冷えてるサッポロクラシック缶を買っていると子供が僕の顔を覗きながらアイスクリームを買えと言いたげそうなのでアイスも追加して支払いを済まして5号車の通路で息子と別れたが「北斗星2号」は東室蘭(18:55-57)に入線するところであった。8月末における道内の日の入り時刻は遅く(18:16)、東室蘭を発車してやっと待望の非電化区間に入ったのに外は暗くて景色は楽しめないが夜行列車らしくなってきた。

 

個室の照明を全て落として黄金駅周辺や北舟岡駅周辺の砂浜海岸の様子を見ながら3年前くらいに北船岡駅前に車を停めてK君と車中泊した事を思い出す。AM5:45過ぎに3本続けて通過する上りDD51貨物を踏切で撮影するために駅前車中泊したあの日の思い出が懐かしい。伊達紋別(19:16-17)と洞爺(19:30-30)に停車しながら暇なので6号車のロビー室へ遊びに行くとなんと息子が座っているけど僕が近くには行かずに離れた席で知らんぷりしながら子供の様子を伺っていると列車はトンネル区間走行中なのに車窓を気にしている姿にいぶかしんでいた。

 

一瞬トンネルを出てすぐにトンネルを入ると息子は満足そうに僕がパソコンで編集作成した北斗星2号の全停車駅と全通過駅の通過時刻を書いたコピー集を見始めた。礼文華隧道と幌内隧道の間にある小幌駅を確認したようで、この10数年間は秘境駅として人気はあったけど1996年当時はコアなファン以外は気に留める者は少なかったのである。マイナーな小幌駅を確認するなんて小学4年生なのにヤルなと嬉しく思っていたら列車は長万部(20:01-01)を発車。子供が席を外したので自分も自販機で缶ビールを購入して5号車の個室に戻る。

 

夜食夜に残しておいた駅弁「日高路」を缶ビールで流し込んだけど日高路はシシャモとハモ蒲焼の押し寿司で600円という価格を考えてもなかなか美味しく、価格も低く抑えられてベストチョイスでした。寝台特急北斗星2号」は八雲(20:25-25)に停車して自分も個室の照明を落として部屋を真っ暗にしてから落部野田生落部~石倉・本石倉~石倉や桂川石谷などの噴火湾(内浦湾)の海岸沿いに進む車窓を眺めながら自宅から持って来たポータブル・MDプレーヤーで好みの洋楽を聴きながら漁火を炊いてるイカ釣り舟を見ながら自分の世界に入っていると森(20:53-53)に到着。

 

森駅で駒ヶ岳越えの本線から砂原線と別れて函館本瀬は姫川(現姫川信号所)、東山と駒ヶ岳まで急勾配を登るのでフルスロットルで力行してるDD51重連の唸り音が聞こえてきそうだ。大沼公園駅を所定で通過したので息子の部屋に行くと案の定息子は部屋を真っ暗にして窓ガラスに顔を付けて景色をガン見していたので仁山駅周辺で函館の夜景を空気が澄んでいれば函館山の輪郭が見えるポイントを伝授する。トンネルを出たら函館の街の夜景が、見れるからと伝えてその一瞬を待っていると函館の街や五稜郭の街が見えた・・・真夏なので函館山はガスっていたのが残念。

 

函館駅で機関車交換があるので11号車のデッキへ移動するとちょうど函館(21:40-46)に到着したのでホームに降りて待機していると青函運転所のED79-14(ED75-786を改造)が接近して連結された。貫通試験や制動試験の自動ブレーキ弁操作で聞こえるエアー音が終るとポケットに入れた無線機からイヤホンを通して無線機の感銘テストが聞こえたので車内に戻り、ドアが閉まると「こちら2列車の車掌、2列車函館発車」の無線が聞こえてきたので11号車(オハネフ25-8)から5号車へ戻る時に通過した、グランシャリオはパブタイムで盛況でした。

 

6号車のロビー室に向かうと空いていたので息子と座るが子供は僕が作成した北斗星2号の時刻表ばかり気にしている。知内駅(知内信号所⇒湯の里知内信号所)を通過すると列車は汽笛を鳴らしながら長さ1.2kmの第一湯の里トンネルに進入したが、多くの人はこのトンネルが青函トンネルだと勘違いしてるけど実際には第一湯の里トンネル過ぎて非常に短いシェルターで覆われたコモナイ川橋梁を渡ると全長53.85kmの青函トンネルに入るのだが車内からだと第一湯の里トンネルとコモナイ川橋梁のシェルターは一体化している(一体化した青函隧道総延長は約55km)ので非常に分かりずらい。

 

なんて事を子供に教えたけどそこまでは難しいようで理解は出来ないみたいだけど吉岡海底駅(現吉岡定点)を通過してトンネル最深部分に向かう。最深部分には青色と緑色の蛍光灯による目印があるのですぐに分かるが青函トンネル完成前から津軽海峡中心部は公海上で日本の排他的経済水域ではなかったが青函トンネルの完成でトンネル内(作業坑・先進導坑・などを含む)は日本の主権が及ぶ領土になった逸話があるが津軽海峡自体は公海上だ。列車は竜飛海底駅を通過すると青函トンネルから地上に出て暫く走ると新中小国信号所(JR北海道JR東日本の境界線)を通過したので子供を連れて5号車の個室へ戻る。

 

子供にとっては夜遅すぎでもっと早く撤収するべきだったと反省しても後の祭り!・・・蟹田(23:37-38)で運転停車して下り急行「はまなす」とすれ違うシーンを通路で眺めていたら何と寝たはずの息子が出てきた。寝ろと言っても寝てくれないのため、青森駅でキューゴー見に行こうかと誘ってみる。実は8月30日の夕方に1レはEF81-95だと知り合いから携帯に連絡をもらっていたので情報は掴んでいたのだ。息子と1号車のオハネフ25まで歩いて最後尾(青森発車から先頭になる)に到着すると暫くして青森(0:05-13)へ到着するとホームへ出て先頭部分へ行く。

 

待っているとSER(Super Express Rainbow)色のEF81-95が接近して北斗星2号のオハネフ25へ連結されるのを見物すると目立つ朱色にサイドにEF81とレタリングを施したデザイン塗装に子供は喜ぶが、95号機は1973年度に製造されて富山第二機関区へ新製配置、常磐線のEF80老朽化対策で1982年に田端運転所へ転属。1987年に登場した14系欧風座席客車(Super Express Rainbow)の配色に合わせた派手な機関車になっている。早めに車内に戻って5号車に移動して今夜はこれで寝るように言い、明日はゆっくり8時まで寝ていいからオヤスミを言って分かれた。

 

自分も部屋に戻ってすぐに就寝したけど以下は就寝中に停車した駅と時刻(運転停車除く)・・・仙台(4:49-51)・福島(5:50-52)・郡山(6:31-33)・宇都宮(7:56-58)。昨夜は0:30くらいに寝て宇都宮停車中に目が覚めたので7時間くらいは寝た計算になるけどやはり眠く、起きて子供を起こしにドアを何回も叩くが返事がない。するとトイレにでも行ったのか浴衣姿の息子が眠そうな顔をしながらトボトボと歩いてきた(実はロビー室からの帰りだとこの後に自供した)。今からグランシャリオに行くにも面倒だし、どうしようかと思案していたら車内販売が接近。

 

弁当は売り切れだけどサンドイッチならあるとの事でサンドイッチ2個にホットコーヒーと子供用にオレンジジュースを買って部屋に戻って食べる。北斗星の車販サンドイッチを食べるのは初めての経験だけど日本食堂・仙台営業所謹製でした。1970年代や1982までの東京発着ブルトレの車内販売サンドイッチは食堂車で作っていたから美味しかったけど時代は変わったなと思う。仙台(4:49-51)積み込みなので未明2~4時に製造しただろうと推測するがサンドイッチのパンがパサついていた。そんなサンドイッチをコーヒーで流し込んで朝食が終ると列車は蓮田駅を通過。

 

北斗星2号はEF81-95なのと夏休み最終日兼日曜日なので多くの撮り鉄諸氏がヒガハス(東大宮~蓮田間の撮影地別称)に集まるだろうと楽しみにしている95牽引情報が流れたのか多くの三脚が並んでやはり95は人気の機関車だ。僕は洗面にハミガキと髭を剃っていると大宮(8:54-56)に到着して下車準備も終らしてから子供と残り僅かの乗車を楽しむ。昨夜は何時に寝たのか聞いてみると運転停車の八戸まで起きていたそうで困った物であるが本人にとっては楽しい旅であったらしい。

 

かく言う自分も懐かしいローカル線に乗れて楽しかったけどそんな話をしていると上野駅地平ホームへ通じる線路へ入って定刻どおり9:21に上野駅14番線ホームへ入線した。ホームへ降りると北海道の心地よい気温や北斗星のエアコンに慣れた身に蒸し暑い熱気が纏わりついて東京は朝なのに猛暑でいっぺんに鬱陶しくなる。いつものマンネリした北斗星のレポートだけは避けたくて視点を変えて父親の目から書いてみたがブログ本文が長すぎてしまった。

 

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

特急 オホーツク10号(B寝台)

1996年8月29日(木曜日)、 残った道東観光地をレンタカーなどで回った自分達親子2人は網走駅の駅舎内で22:15発・札幌行き特急「オホーツク10号」の改札が開くまで待機していた。長かった子供と2人親子北海道旅だったけど今夜乗るのが道内最後の夜行DC特急のラストになる。21:50に特急「オホーツク10号」の改札が始まり、改札を通ると1番線にスハネフ14をキハ183系でサンドイッチした一風変わった編成が停まっているので3号車のスハネフ14-508に乗車、3番下段と4番下段だったので自販機の飲み物を買いがてら編成を眺めると「スーパーとかち」色の183系が混じっているのがご愛嬌。

 

8月下旬の木曜日、B寝台は大いに空いており、3割くらしか乗っていないけどこの先の北見で乗客が増えると思うので何とも言えないけど22:15に定刻で網走を発車すると旭川車掌所の車掌がキップ拝見で巡回してきたので親子で北海道フリーきっぷと金額表示のない特急寝台券を見せてから今夜は早く寝るんだよと息子に言い聞かす。夜行おおぞらに比べて「オホーツク10号」は1時間15分乗車時間が長いのですぐには寝ずに暫くは夜行列車の雰囲気を楽しむために4号車の空いてる自由席に座って暫し、就寝前の一時を楽しんだ。

 

女満別(22:38)に停車して多少の乗車客を拾って美幌(22:50-51)を境に自由席から3号車の寝台車に戻って浴衣に着替えて寝台に潜って就寝した。以降は就寝時間中の停車駅・時刻・・・北見(23:17-18)・留辺蕊(23:41)・生田原(0:07)・遠軽(0:24-34)・丸瀬布(0:59)・白滝(1:30)・上川(2:23-46)・当麻(3:32)・旭川(3:45-4:20)・深川(4:47-48)・滝川(5:10-12)・砂川(5:20)・美唄(5:36)・岩見沢(5:51-52)。朝6時ごろ目が冷めてトイレを行くために息子の寝台のカーテンを捲るといないので3号車のトイレと4号車のトイレを探すが使用されずにトイレの扉を開けて中を確認すると息子は入っていなかった。

 

これはもしかして途中の駅で降りたって事はないと思うが途中駅で息子が浴衣姿でホーに降りれば車掌や駅員くらいは気付くだろう。やや青くなってグリーン車のトイレでも入っているのかと探しに行くと何と寝台車備え付けの浴衣を着たままグリーン車の端の席に座っていたので頭を軽くポンと叩いてデッキに出て注意をしてから3号車の寝台に戻る。江別(6:10)を発車すると札幌駅までは20分なので洗面にハミガキや下車準備を済まして待つと既に列車は千歳線と並んで走り、定刻の6:30に札幌駅4番線ホームに滑りこんだ。

 

8月30日(金曜日)札幌駅構内でホットコーヒー(息子はホットミルク)を飲んで暫し休憩した後、帯広行きの特急「スーパーとかち1号」の2階建てグリーン車、キサロハ182-550番台のグリーン車に乗って帯広では豚丼の老舗ぱんちょうでランチタイム。帰路は特急「「スーパーとかち6号」の2階建てグリーン車でとんぼ返りしたが行きのグリーン車はA席orB席、帰路はC席+C席で一人用席を向かい合せに座っていると車掌のご好意で1階部分の普通2人用個室も見学させてもらった。翌日は朝が早いので札幌駅北口前のホテルクレスト札幌(当時僕が札幌で愛用してたシティーホテル)のツインに宿泊。

 

翌日8月31日はこれまた子供のリクエストだった「スーパー北斗」での往復で「スーパー北斗2号」で函館まで行って函館朝市の海鮮丼屋さんで早めのランチを済ませて「スーパー北斗6号」で札幌駅へ戻った。同じ列車で戻るだけという芸のない乗車行為だが子供のリクエストとあれば致し方ない(苦笑)。

 

2021年最後のBlogUPとなります・・・早いですがよいお年をお迎えください。

 

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

特急 おおぞら13号(B寝台)

1996年8月28日(水曜日)、 宇登呂温泉の知床第一ホテル朝9時少し前にチェックアウトした僕たち親子はウトロのゴジラ岩に見送られる様にレンタカーで能取湖、能取岬、サロマ湖などをドライヴィング周遊しながら半日観光&景勝地巡りを楽しんで網走でレンタカーを返却して網走駅で13:53発の札幌行き特急「オホーツク6号」のグリーン車に乗って常紋峠と北見峠を通って札幌へ。1992~1995年くらいの1~2月に原色DD51重連牽引・石北線臨貨撮影で何回も訪れた事がある峠区間の撮影地をグリーン車内から眺めるのは不思議な気持ちだった。

 

札幌駅構内パセオのお気に入り北海道料理屋"魚河岸甚平"で夕飯を済ました自分達親子2人は札幌駅で8月26日に乗った同じ列車である夜行特急「おおぞら13号」を札幌駅6番線ホームで待っていた。連続して同じ夜行列車の同じ下り列車に乗るのは冴えないけど道東がメインなので致し方ない。5・6番線ホームのベンチに座りながら息子は各地に発車する列車の発車や入線に退屈もせずに一人で楽しんでいるが僕は携帯電話で家に電話をして嫁に「何もトラブルなく順調だよ」報告の電話をすると札幌駅独特のざわついた騒音に気動車のエンジン音が聞こえるから札幌駅から電話しているのがバレバレであった。

 

ほどなくすると向かいのホームに見慣れない列車が入線、息子が落ち着かないので列車が近付くとキハ183系5100番台(走行性能はNNキハ183系に順ずる)のクリスタルエクスプレスだった。時刻表に掲載される多客臨(夏臨)ではないので団臨運用みたいだが息子にはJR北海道で5番目のリゾート列車兼ジョイフルトレインである事を説明する。先頭車が展望車みたいになってる風貌や編成中央に2階建てのキサロハ182-5101のディテールに興奮しているので新車なんだけど実は国鉄時代の古い台車(サハネ581-15)を流用してる事を説明したけど分かってもらえたどうか怪しい(苦笑)。

 

やがて6番線に夜行特急「おおぞら13号」が入線したので3号車のB寝台車へ乗り込むと2日前にのった客車と同じでスハネフ14-503だった(ちょっとガッカリ)。今回は3号車3番下段と4番下段で押さえたがすぐに浴衣に着替えて車内で寛ぎながら缶ビールを飲み始めると息子が通路側の椅子に座って窓の外ばかり見つめているので早く寝ないと明日の朝が眠くてツライよと言っても昨夜の宿でたっぷり寝たので眠くないらしい。確かに昨夜は夜10時に親子で寝てしまい、8時間以上は寝ているから僕自身も眠くないので気持ちは分かるのだが・・・。ここまで読んで早く「おおぞら13号」を発車させろよと思われる人も多いだろう。

 

しかし前回(先週)と同じ列車の想い出レポートでは新鮮度がないし、マンネリ防止を少しでも解消したいと思っておるブログ記事作成者の思いを少しでも・・・(閑話休題)・・・いい訳しても仕方がないので「おおぞら13号」のレポートに戻ろう。23:00に札幌駅を定時発車するとすぐに車掌が現れたのでキップ類を呈示し終わると「おおぞら13号」は速度を落として新札幌(23:12)に到着した。そういえば「おおぞら13号」が新札幌駅に停車するようになったのはいつ頃の事なのだろう?少なくとも1995年春の時刻表には新札幌駅は通過になっているのに合点がゆかない・・・なんて事を考えながら眠りに就いたようだ。

 

途中停車駅は先週のブログ(2021年12月13日UP)を見ていただくとして何時ごろが忘れたけどヤケにカーテンから光が差し込むなぁーと目が覚めて気が付くと寝台側窓の日除けが外してあり、不思議に思って息子のベッドを覗いたら窓際のカーテンフックを外して日除けを上げて寝台内から外の景色が見れるように工夫したみたいで本人は窓際に頭を置いて既に爆睡中であった(苦笑)。僕も1977年10月に始めて客車寝台の「瀬戸」乗った時も同じ様な事をしているので血筋は争えないと思ったが喜んでいいの悲しむべきなのかヤレヤレである。

 

目が覚めたのは白糠(5:30)を発車して5分くらい経過した頃だったが釧路駅まで20分ちょいしか時間がなかったので子供を起すがなかなか起きてくれない。訳を聞くと昨夜は追分くらいまで起きて車窓を眺めていたようで寝台側窓の日除けが開いて窓際カーテンが開けてあった件を質すと寝台側で車窓が見たくてカーテンを外して日除けを上に上げてから1人で秘密基地にして楽しんでいたようで正に"この親あってこの子あり"ぢゃないけど怒る気もしなくなった。大急ぎで下車準備を終らして「おおぞら13号」が定刻6:00に釧路駅へ到着するとデッキで待機していた息子は全力疾走にて釧網線4726Dの席をキープに消えた。

 

釧網線4726Dで釧路湿原駅で下車して釧路湿原細岡展望台まで歩いて早朝の釧路湿原を展望台から望んだ。夏場の早朝ゆえ、釧路名物朝霧が出たらアウトだけど朝霧の影響は最低限で澄み、幻想的な早朝の釧路湿原を堪能したが流石に雌阿寒岳と雄阿寒だけを見ることは出来なかったけど大急ぎで釧路湿原駅に戻り、釧路行きに乗って塘路駅で降りてから釧路湿原の一部である駅から近い塘路湖やマクントー沼を見物しながら周囲を散歩して釧路行きで釧路駅へ戻った。駅構内でモーニングサービスの朝食を急いで食べて9:00に予約した駅のレンタカーに乗って釧路市湿原展望台、鶴居村、阿寒湖、パンケトウ、摩周湖屈斜路湖他を回る。

 

川湯温泉駅の駅舎内で営業しているオーチャードグラスでお茶して斜里からオホーツク海沿いに進んで北浜駅舎で営業している停車場でお昼を食べてお腹も満足してオホーツク海沿いに進み、網走市内のオホーツク流氷館で流氷体験してサロマ湖の夕景(黄昏色のサロマ湖)を見て網走駅の駅レンで車を乗り捨てれば道東の旅は終了である。網走駅から徒歩圏内の中華料理屋でラーメン2個にギョーザと炒飯をシェアしながらの夕飯を済まして夜行特急「オホーツク10号」に乗るために網走駅へと戻った。

 

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★