夜行列車の想い出

現在ではサンライズ以外廃止になった定期夜行列車だけど過去の夜行列車・想い出乗車レポートと夜行列車に纏わる懐かしい夜行列車ブログです(1975年以降から)

臨時大垣夜行 9375M

1996年1月3日(水曜日)、1996年になって最初の夜行列車レポートとなるが品川駅9番線で臨時大垣夜行9375Mの入線を同じ勤務先に努めるN君を待っていた。実はN君から青春18きっぷが余ってるので正月末に東海道線・興津~由比の通称由比S字カーブで東海道線の上り寝台特急第二群を撮りにいかないかと年末から誘われていた。N君も僕も静岡県内なら確実にマイカーで移動してしまうが青春18きっぷが余っているのでは協力しましょうと品川駅9番線ホームの最後尾乗車位置で落ち合って代金を渡すと翌日の乗車日が入った青春18きっぷを受け取る。

 

N君との夜行列車に乗っての撮影行きは1995年8月10日の臨時・夜行急行「妙高」以来だと思うがまだ正月三が日が終わっていないのに臨時大垣夜行9375Mに乗車する人は多く、大垣夜行に限っては繁忙期移動の下り/上り需要が曖昧で掴めない。今夜は田町電車区の167系8B運用である。発車2時間前から待っていると突然入線アナウンスと165系のライトが光り、入線して扉が開くと8号車(クハ167-1)に乗り込んで2人でBOXをキープするとよく見かける撮り鉄2人が「ここ空いてますか?」と挨拶したので許諾したが名前こそは知らないけど各地の撮影地や夜行列車内で見かける24~27歳の若者だ。

 

車内の席はあっという間に全て埋まり、23:55に品川駅を発車すると日付が変わる5分前に列車は西へと向かった。臨時大垣夜行9375Mは蒲田駅付近で日付が変わり、僕とN君と若者2人の計4人で明日の撮影話で盛り上る。若者2人は浜松まで乗って上り始発電車で金谷から大井川鐵道に入り、しめ縄の付いたSLを列車と撮影するとの事である。多摩川を渡り、神奈川県に入ると川崎駅(0:04)・横浜(0:13-14)と停車するが臨時列車なので途中駅から乗る乗客はいつも以上に少ないのは、まだ仕事が始まらない新年早々だからなのだろう?。

 

いつもなら夜行列車の旅立ちだと必ずお酒とか買って車内で乾杯するのだけど正月の元旦と二日両日は飲み過ぎたため、今夜は休肝日なのでノンアルコールのソフトドリンクで乾杯した(笑)。戸塚(0:24)・大船(0:29-30)と停車して横浜市から藤沢市に入ると、藤沢(0:34)・辻堂(0:38)・茅ヶ崎(0:42)へ各駅に停車する。同じBOX席内では1995年冬にNTTドコモの携帯電話、デジタルムーバ101シリーズを契約購入したN君の話題になるがN君曰く、基本料金と通話料金が高いと苦笑いしていたけど自分に身近なK君も携帯電話を所持してるし、携帯は急遽旅先や撮影地でも連絡が取れるので必須アイテムだ。

 

列車は深夜の東海道本線を飛ばして平塚(0:42)・大磯(0:51)・大磯(0:51)・二ノ宮(0:56)・国府津(1:01)に停車。N君は若い2人と話していたが自分は大晦日からの慢性的な寝不足で小田原到着前に寝てしまったようである。以下は就寝中の停車駅時刻・・・小田原(1:08-10)・熱海(1:29-30)・三島(1:43-43)・沼津(1:50-56)。2時くらいにN君から起こされるが、猛烈に眠くてこの先の予定がどうなってもいいからこのまま寝ていたい衝動に駆られるがそれは一時の事であって正気に返ると現実と向き合う事になるため、眠い目を擦って起きた。

 

急いで下車準備をしていると列車の速度が遅くなったのでデッキに移動して富士(2:12-13)で9375Mを下車するとどこかでK君の声が聞こえ、周囲を見渡すと上り線の先端で臨時大垣夜行を撮影中だった。K君と合流して由比~興津にある興津川橋梁へ行き、早朝まで待機してからEF65-112が牽く12系臨客をサイド気味に撮影したら今度は同じ興津~由比の由比S字カーブへK君車で移動して3人で長崎運転所持ち15形寝台車の「あさかぜ82号」から「富士」「はやぶさ」「さくら」を写し、明日まで休みでそのまま飯田線で撮影するK君に興津駅まで送ってくれたので駅前で少し雑談してから別れた。

 

N君と興津駅発10:26発の442Mで沼津駅まで行き、沼津駅始発の344M(昔の上り大垣夜行みたいな列車番号だ)にそのまま乗り継ぎ東京へ到着後に帰宅。

 

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

ブルートレイン・20系

ブルートレイン」 ・・・ 青い帯のように夜を駆け抜ける固定編成の寝台列車を誰となく、ブルートレインと呼んだ。窓ごしに街のネオンを別れ、ごとごと揺れるベッドで目を覚ませば見知らぬ土地に運んでくれるブルートレインには汽車旅の魅力と味わいが残っています。そこにはスピード本位の飛行機や新幹線が切り捨ててしまった安らぎがあったのである。"星影の旅情"や"青い流れ星"というネーミングが使われたのも20系後期くらいでブルートレインブームなんて言葉が世に出てくるほど夜行列車での癒しや旅情を求めていた人が多かったに違いない。

 

しかしそんな人気のあったブルートレイン整備新幹線や地方飛行場の開設と航空便が増えてブルートレインもすこしずつ減ってゆくが1970年台は「安芸」と「いなば」の名称消滅だけで本格的なブルートレインの衰退は1980年台以降になる。ブルートレインの定義って何だろう?青い色の列車から?そうすると青い電車や気動車まで全てブルートレインになってしまう。一般的には寝台専用特別急行寝台特急)の固定編成の説が有力だが12系座席車や14系座席車もブルートレインに入れてしまう無理やり的な記述が残ってる書籍もあるほどだ。そこで簡単だけどブルートレインに付いて簡単に整理したく、1回目は20系を紹介したい。

 

【20系】20系寝台がデビューしたのは今から約63年前の1958年で、1970年まで製造が続けられた。サービス電源を自車の専用発電機で補う(一部パンタからDC1500Vを集電して非電化区間は電源車内のディーゼル発電機から給電される)マニ20、カニ21、カニ22の発電電源集中化を図って全車完全冷暖房の密閉式になった固定編成として集約している。初運用は1958年10月1日からで「あさかぜ」(7レと8レ)に充当された。その後は1959年7月20日付で「さくら」から20系運用が広がる。

 

更に1960年7月20日はやぶさ」・1963年6月1日「みずほ」・1964年10月1日「富士」「はくつる」・1965年10月1日「あかつき」「ゆうづる」・1968年10月1日「彗星」「日本海」「あかつき」1970年7月1日「あけぼの」・1972年3月15日「出雲」「瀬戸」・1972年10月2日「つるぎ」・1973年3月1日「北星」「北陸」「安芸」を順次投入。約17年間を寝台特急で使うと老朽化するので一部の寝台専用急行の10系寝台・ハネやロネを救済すべく、1970年代から14系寝台車投入や24系投入で余剰になった20系を寝台専用急行にも運用した。

 

1976年2月20日「銀河」・1976年10月1日「天の川」「新星」。1977年以降は寝台専用急行に関わらず、20系と12系座席車との併結を目的にナハネフ22やナハネフ23とナハネ20の1000・2000番台改造して客用扉を12系客車と一括操作可能な自動ドアに交換。サービス電源を12系客車の440Vから供給とするために1000番台車はジャンパ連結器を12系客車対応品に交換。さらに変圧器などを搭載ナハネフ22形・23形は車掌室・業務用室に車掌スイッチ、デッキにドアコックを取付。

 

更に急行「十和田」及び「だいせん」が20系化される際に座席車が必要になったため、A寝台だったナロネ21形16両を種車に改造した普通座席車ナハ21が生まれて充当された。20系の寝台車以外に座席車併結を含む夜行急行化(「十和田」「だいせん」以外は全て12系座席車を併結する20系の夜行急行)は以下のとおり。1977年10月1日「十和田(201レ・204レ)」・1978年3月15日「かいもん(101レ・102レ)」・1978年3月16日「日南(501レ・502レ)」。1978年10月2日からは「ちくま(4803レ・4802レ)」「だいせん(705レ・706レ)」「さんべ(811レ・812レ)」まで20系が普及していく。

 

その後も20系の臨時寝台特急や臨時寝台急行は増えるけど全部追ったら大変なのでゴーサントオ(昭和53[1978]年10月2日ダイヤ改正)以前の動きとしてそれ以降はキリがないため、今回の20系特集に終止符を打った。

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1995年の夜行列車乗車回数

1995年の夜行列車乗車回数は前年の24回より1回少ない、23回乗車になったが相変わらず出張での夜行列車利用回数が7回と新記録更新だけどその内に頭打ちに減ってゆくかと思う。さて1995年の出張利用で乗った夜行列車は以下のとおり・・・「あさかぜ」「北陸」「銀河」「出雲4号」「はくつる」「瀬戸」「あけぼの」の各1回のみの利用でその内「北陸」と「あけぼの」はB1個・ソロを利用した。それでは1995年の夜行列車別ランキングやその他で分けたランキング形式で紹介するが375Mや9372Mは大垣夜行として集計。

 

1995年に乗車した夜行列車の種類は17種類で数多くバラけているが乗車した列車種類は
13種類で同一3位は3種類もあり、1回のみ乗車が7種類もあってつまらない結果になってしまった。年々夜行列車は廃止や臨時化、更に臨時夜行でも運転本数が著しく少なくなってしまうなど現行夜行列車も陳腐化してゆくので致し方ない。この手の報告内容が近年つまらなく感じているのは致し方ない。それでは【列車別ランキング】【列車種別ランキング】【利用施設ランキング】【形式別ランキング】を紹介しよう。

 

★夜行列車の列車別ランキング★ 4回乗車の「北斗星」が1位で単独1位はこれが始めてである。北斗星の単独1位はこの年が始めてである。2位は3回乗車の「北陸」「大垣夜行」「妙高」の3種類が同一ランキングだ。3位は「ムーンライト」で2回乗車した。そして4位が1回利用の「あさかぜ」「能登」「銀河」「出雲」「はくつる」「オホーツク9号」「瀬戸「あけぼの」という結果で全然バラエティーに富んでいないため、イマイチ面白くない。ただ1995年から「八甲田」「津軽」に1回も乗っていないのが原因かも知れない。

 

★夜行列車・種別ランキング★1位は特急種別の13回(北斗星④・北陸③・出雲①・あさかぜ①・はくつる①・オホーツク9号①・瀬戸①・あけぼの①)。2位は急行の5回と普通・快速の5回で同一2位という結果(銀河①・能登①・妙高③)と同じく2位の普通・快速の5回(ムーンライト②・大垣夜行⑤)。

 

★夜行列車・利用施設ランキング★1位は8回利用の自由席(大垣夜行③・妙高③・能登①・オホーツク9号)。2位は6回利用の1人用B個室ソロ(北陸③・北斗星②・あけぼの①)。3位は4回利用のB寝台(あさかぜ①・銀河①・出雲①・はくつる①)。5位は2回利用の普通指定席とSA1の同数4位(指定:ムーンライト②)(SA1:北斗星②)。6位は2人用B個室デュエット(北斗星①)。

 

 ★夜行列車・乗車形式ランキング★ 1位は10回乗車の24系(あさかぜ①・銀河①・北斗星④・出雲①・はくつる①・瀬戸①・あけぼの①)。 2位は5回乗車の165系「167系も含む」(ムーンライト②・大垣夜行③)。3位は3回乗車の14系寝台車と14系座席車が同一ランキング(14系ハネ:北陸③・14系ハザ:妙高③)。4位が489系(能登①)とキハ183系(オホーツク9号①)という結果だが、このランキングにキハ183系が出てくるなんて世も末だ。

 

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

臨時夜行急行 妙高(14系ハザ)

1995年12月27日(水曜日)、 北陸の旅から上野に到着した翌々日だが上野駅17番線ホームにて臨時夜行急行「妙高」(9307列車)の入線を30分前から待っていた。1995年最後となる夜行列車だが臨時夜行急行「妙高」は1995年だけで3回目の乗車となり、春臨・夏臨・冬臨の年に3シーズンしか各数日間のみ走る臨時夜行に年3回も乗るのは初めてかも知れない。勤務先の年末年始休暇は12月29日から1月4日までだが29日前夜の28日から夜行列車は混雑するので28日に年次休暇を入れて27日の夜から出発して翌日は急行「妙高」の回送である、回9304列車を中軽井沢の浅間山バックで撮影するのが目的である。

 

1995年度冬臨の下り「妙高」の運転日は12/22・12/27~30の5日間であるが流石に今夜の「妙高」に乗車する人は疎らで、やはり普通の勤め人にとっては12月27日発の夜行列車は無縁なのである。そういえば臨時夜行急行「八甲田」でさえ12/28から設定だし、学生目当てなのかなとも思う。それでも隣の16番線に入線した福井行き、急行「能登」の自由席はそこそこ混雑しているのに・・・なんて考えていたら尾久側のカーブの先から臨時夜行急行「妙高」(9307列車)が推進回送にて23:39入線。扉が開くと早速6号車に乗り込むと尾久客車区のオハフ15-25だった。

 

取りあえず牽引機を確認すると高崎まで牽く田端運転所のEF65-1025を見てからホームの売店で缶ビールと購入して発車5分前に車内に戻っても我が6号車は僅かな乗客なので前の席を回して1BOXにして発車を待つとやがて23:53、上野駅を定時で発車した。臨時夜行急行「妙高」は1995年8月10日以来、約4ヶ月ぶりの乗車なので既に「妙高」の事は勝手知ってるけど北陸新幹線・長野開業における横川~軽井沢間廃止と軽井沢~篠ノ井第三セクター化Rまで約1年9ヶ月を切っているのでEF62やEF63重連が牽引する客車列車に乗る事も沿線で撮影する事も出来なくなるのである。

 

1日早く出発日を設定しただけでこんなに車内が空いているなんて流石に年間11日間しか運転しない片道のみの臨時夜行急行だが、列車は大宮駅(0:18-21)を発車するとすぐに車内照明は減光され、深夜の高崎線へと進む。碓氷峠を客車で越えた夜行列車は過去に「越前」「妙高」「信州」「能登」等があるけど今では定期列車はなく、臨時「妙高」とシュプールくらいで田端のEF62も使えるのが43号機と54号機に予備の46号機くらいなので致し方なく、まさに風前のともし火状態。熊谷駅(0:57-58)を発車すると暫くして運転停車籠原駅(1:06-10)に到着すると後から来る急行「能登」の通過を待つ。

 

車窓から急行「能登」の通過を待っていると特急「白山」色の金サワ489系が通過したが車内の乗車率は高そうでラウンジ&コンビニエンスカーのフリースペース(ソファ)に座っている人が多く見えた。「能登」が通過するとやがて4分停車を終えた、臨時急行「妙高」も後を追う様に高崎線を走って神保原駅新町駅(何れも通過駅)の間にある神流川で埼玉県と群馬県の県境を進み、北藤岡駅(通過駅)で八高線と合流するといよいよ高崎駅(1:38-2:10)に到着だ。高崎運転所には高座A(やすらぎ)や高座B(くつろぎ)に旧型客車や12系座席車が置いてあるのでいつも楽しみにしている。

 

先頭の機関車を見に行くと田端運転所のPF1025が外されて変わりに同じく田端運転所のEF62-46号機が連結された。46号機は暫く予備車の保留扱いになっていたのでこの1年間は43号機と54号機が運用に就いていたが46号機の復活は嬉しい。高崎駅の32分停車が終わるとEF62-46のブロアー音も高らかに聞こえて高崎駅を発車する。流石に深夜2時を過ぎると眠さも限界だが、今回はAM3:05着の軽井沢駅下車なので寝る訳にも行かずに受信改造した無線機を準備して周波数を合わせていると横川駅(2:42-48)に入線した。よく見るとK君が構内で「妙高」を長時間露光撮影しているではないか?

 

後方にEF63重連が連結された様で本務EF62と副務(補機63重連)との無線連絡が聞こえて来る。無線試験に続き、緩解試験に制動試験を行い制動軸数とバーニア数のオーダーを受けると車掌⇔本務⇒補機の順番で発車無線を飛ばして定時で横川駅を発車すると本務機と補機とで進段(直列[Series」・直並列「Series para」・並列「para」~)オーダーする無線を聞きながら無線は軽井沢駅よりの矢ヶ崎隧道出口先まで続いた。軽井沢駅(3:05-10)に到着すると先ほど横川駅にいたK君が、軽井沢駅で「妙高」をこれまたバルブ撮影していたので碓氷峠を車で飛ばしたのだろう。

 

軽井沢の改札を出てK君の車にお世話になり、明日の臨時妙高・返却回送でもある回9304列車の撮影ポイントである中軽井沢~軽井沢の浅間山バックのベストポジションには置き三脚が置いてあるので自分のハスキー4段と入換えて立てパン棒だけは抜いて置く。朝9時過ぎまで寝て、車の外に出ると正面の浅間山は上の部分だけ雪が積もっており、ロケーションも最高だ。回9304列車を撮影するとすぐに追っかけが始まり、碓氷峠旧道をタイヤを鳴らしながら爆走して軽井沢駅の7分停車を生かして旧熊ノ平信号所から2発目を写して3発目は安中駅の60分停車を利用して安中~群馬八幡で3発目を撮影。帰路はそのままK君の車に乗って帰った。 回送時刻は2020年11月16日のブログ参照の事。

 

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寝台特急 北陸(B1)

1995年12月24日(日曜日)、 言わずと知れたChristmas Eveであるが自分にとっては37回目のクリスマスイブとなるこの日の夜は北陸旅行を終えた妻子と一緒に金沢駅ホームで寝台特急「北陸」の入線を待ちわびていた。流石に石川県金沢市の12月下旬にもなると気温もかなり冷え込むが、家族3名で凍えながら上り寝台特急「北陸」の入線を待っていると6番線ホームに21:46、長岡運転所のEF81-144の牽引で入線。帰路も9号車なので扉が開くと尾久客車区のスハネ24-755に乗り込み、帰路も9号車限定にてみどりの窓口・10時打ち3ヶ所で入手した各自の個室に入った後に荷物を置いて記念撮影や買物を済ます。

 

今回用意できたBソロは9号車の3番(1階)、4番(2階)、5番(1階)の別駅みどりの窓口手配でも連続番号とは驚きで3番は嫁、4番は息子で5番は自分に決めては行きと帰りで1階と2階を分けて個室配分した。22分間の停車時間があるので金沢駅では買物や記念撮影が時間に追われる事なくできたけど、とりあえず5番の部屋に集合して飲み物と食べ物を窓際のテーブルに載せて22:08、金沢駅発車と同時に乾杯した(お酒は僕のみ)。車掌がくると特急寝台個室券と帰路の乗車券を呈示して車掌が去るとコンビニで購入した2個入りカットショートケーキや加賀あんころ餅などで夜食を楽しむ。

 

列車は10分で津幡駅(22:18-19)に到着すると、子供は早く自分の個室で流れる景色を眺めたいようで気も漫ろになって来たので金沢駅発車してから20分余りで解散して各自の個室に散ったが本音を言えば明日朝上野駅に到着すると自宅で休憩後に出社するので早く寝たいのであるが昨夜の温泉宿では8時間寝てしまったので今夜は眠気さえ来ない。倶利伽羅と石動の駅間にある倶利伽羅峠で石川県から富山県に入って高岡駅(22:42-43)へ入線した。ビールの追加が欲しくても停車時間は短く、2号車の自販機はソフトドリンクしかないので明日も早いので浴衣に着替えてベッドに横になった。

 

今夜乗ってる9号車のスハネ24-755はオハネ14-92から改造された車両で転配歴が見事なので紹介したいと思う。1972年8月4日に新潟鐵工所で新製された該当車両は向日町運転所へ配備されると「あかつき」で使われる。1973年10月に早岐客貨車区転属後、「あかつき」「彗星」「明星「日本海」と使われるが「あかつき」と「日本海」が共通運用を組むと異例の長期離運用となり、大阪到着の「あかつき」から「日本海」への通し運用を受け持っていたから、九州~青森間(長崎・佐世保~大阪~青森~大阪~長崎・佐世保)を往復して出庫から早岐区へ帰還するまでに5日間を要した。

 

1978年に新型の14系15形が早岐へ新製配属されると不要になったオハネ14-92ら14形85両は1978年10月に尾久客車区へ転属すると「北陸」「北星」「ゆうづる」の運用に就き、その後も「妙高」「津軽」「能登」の14系座席車と併結する運用にも入り、1985年2月27日に三段寝台から二段寝台改造され、1989年11月22日に「北陸」用のBソロ個室(スハネ24-755)へ改造された。因みにスハネ24の700番台がソロにシャワールームと談話室が併設された車両で750番台がオールソロの車両になっている。

 

就寝中の停車駅と時刻[* は運転停車富山駅(22:58-58)・魚津駅(23:17-18)・糸魚川駅(23:57-58)・直江津(0:27-30)・長岡駅*(1:30-2:06)・越後湯沢駅*(3:05-09)・水上駅*(3:48-50)・高崎駅(4:44-46)・大宮駅(5:53-54)。目が覚めたのは大宮駅を発車して京浜東北線北浦和駅周辺だったが嫁か子供が扉を強くノックしたというより、僕が起きないから扉を叩いたらしいが急いで飛び起きて洗面&トイレと下車準備が終わると列車は尾久駅に差し掛かっていた。まだ頭の中は寝ているけど嫁と子供も夜更かししてた様で眠そうでもっと寝ていたいと不満を漏らしていた(自業自得だ)。

 

まだ頭の中は寝ぼけてる中、寝台特急「北陸」は定刻の6:19に終着駅の上野駅13番線ホーへ牽引機の確認をしたいので一番前までホームを歩くと一般B寝台の下段に使われてない浴衣とシーツなどリネン類がそのまま畳まれて置いてあるので昨夜の利用客は少なかったようだ。9号車のソロでさえ、4割近い個室が空いていたからやはり翌日平日になる日曜日の寝台列車は人気がないのがよく分かる・・・3年3ヶ月後の1999年3月には12両だった「北陸」編成が8両へ減車された。ホームを9両分歩くとようやく牽引機の姿が見え、長岡運転所のEF64-1029だった。

 

山手線で田端の我家に帰宅後、シャワーを浴びて朝食を食べて僕はスーツに着替えて会社へ通勤したが6時間以上寝れたので思ったほど眠さはなかった。なお後日、嫁と子供に聞くと個室の往復1人利用は楽しかったそうで翌年の1996年にも企画したのは言うまでもない。8時間11分という定期寝台特急の中では一番走行時間が短い列車で殆ど寝ている時間のため、更に翌日仕事なので早く寝て朝もギリギリまで寝てた事により、本来の乗車レポートでは内容が薄くなる関係上、乗車した列車の転属歴や使用された列車の紹介もさせてもらった。

 

       ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

 



🍴夜行列車の味・北海道編🍱

1995年12月21日から始めた月1回の新企画「🍴夜行列車の味🍱」の2回目といて本日UPします。2回目の今日は北海道編として道内の夜行列車に纏わるグルメや美味しかった食べ物をピックアップしてゆきたいと思う。

 

【函館夜行】函館夜行とは函館駅と札幌駅を山線経由(小樽廻り)や海線経由(苫小牧廻り)で結ぶ夜行列車で普通夜行の43列車・44列車、(のちの41列車・42列車)と夜行急行「すずらん」に快速「ミッドナイト」の事を言う。普通列車なので車内販売はなく、途中の停車駅で食料を買う事も出来なかったので想い出に残る味は深夜でも函館駅ホームの立ち食いそば屋に数個置いていた北海幕の内(450円)だ。ここの弁当は青森を19:25に出た青函連絡船・27便が23:15、函館に到着すると23:40発の急行「すずらん5号」と23:51発の普通43列車の乗客がホームに降りて来ると確実に売り切れるのである。

そのため、早く買わないとホームで蕎麦をすする事になるが北海幕の内の掛け紙には漫画チックな鮭とイカとワカメが描かれており、塩鮭の焼いたのが美味しかった。貧乏学生旅ではなかなか駅弁を食べる機会は少なかったけど昼食を抜いたりして予算調製してた学生時代が懐かしい。なお1990年代から北海幕の内は長方形の箱に入り、弁当中身を写真にしていたが昔の北海弁当とはまるで違う弁当になってしまった。

 

【利尻・大雪】この2本の下り列車は深夜の旭川駅で駅弁が買えたのが懐かしい。当時の旭川駅(昔はasahigawaと濁った)は駅が深夜でも開放されており、主に売っていた弁当は大雪寿司と旭岳べんとうが多かったようだ。大雪寿司は海鮮の押し寿司で旭岳べんとうは普通の幕の内だが駅弁掛け紙には絵画風で大雪山系の旭岳をバックに781系電車(実際にはキハ183に見える)が快走している絵が鉄道ファンには嬉しい。あと急行「大雪」では深夜の遠軽駅で立ち食いそば屋が営業して、この店舗は1番ホームと駅の外側の間に店を設けており、両側からも利用できて便利だったけど合鴨蕎麦が美味しかった。

厳冬期の時期の「利尻」「大雪」だと自宅からミカンと網ネット・丈夫な紐を用意してミカンを入れた網ネットを紐を頑丈に縛って窓を開け、ミカン入りの網ネットを窓から垂らして窓と二重窓をキッチリ閉めたら紐を窓際肘掛に固定すれば翌朝には冷凍ミカンの出来上がり。瞬間冷凍の市販冷凍ミカンと違ってみかんの皮がバリバリに凍てつくけど暖房の効いた車内で朝に食べる冷凍ミカンは美味しい。しかし14系になった道内夜行では残念ながら冷凍ミカンは作れなくなってしまった。

 

【狩勝・からまつ・まりも】札幌(一部小樽発)と釧路を結んだ3本の根室線経由の夜行列車は残念ながら深夜に売ってる駅弁とか深夜に食べれる駅そば・うどんは無かったけど424列車(上り普通からまつ)の釧路発が19:00だったので弁当くらいは手に入ったが地方の駅なので売り切れている事も多く、確実ではない。石勝線開業で急行「狩勝」が急行「まりも」なってから数年が経過してから釧路駅構内に急行「まりも」の改札開始時刻くらいまで営業してたミスタードーナツで夜食のドーナツはテイクアウトで買えたけど個人的に甘いドーナツは苦手で自分は店舗でコーヒーと甘くないドーナツ(シナモン)を注文(本当はコーヒーだけで充分)したくらいの利用だった。

 

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

寝台特急 北陸(B1)

1995年12月22日(金)、上野駅14番線ホームで嫁と子供の3人家族にて寝台特急「北陸」の入線を待っていた。翌日の23日は祝日で24日は日曜日なため、子供はそのまま冬休みに入るので夜行列車往復2泊と宿1泊のショートな旅だが予定を組んでる時は25日の月曜日は休暇が取れれば休むし、無理なら帰宅後に出社の選択だった。12月下旬の北陸は雪囲いが設置された兼六公園を見るのと子供が1人用B個室乗車を推してきたからだ。

 

1990年3月10日~1992年3月12日までの寝台特急「北陸」は12両編成中、1人用B個室ソロが5両(2.4.7.8.9号車)連結されているため、家族3名で同じ号車の個室を取る事はかなり難易度が高い。通常の指定席やB寝台ならマルス端末1回の操作で4枚分取れるが個室は1枚しか取れないため、最悪3名が別の号車にばらけてしまう可能性がある。そこで3ヶ所の駅みどりの窓口に10時打ちで9号車限定で操作してもらったら9号車のみでソロが無事取れて冒頭部分に戻る。また例によって頭でっかちのレポートになってしまった。

 

「北陸」入線の案内放送が響くと尾久寄りのカーブからスハネフ14の推進運転用ライトとテールマークが見えて発電用ディーゼルエンジンの騒音を周囲に撒き散らしながら22:45に推進運転で回送3011列車が入線した。扉が開くと早速9号車に乗車すると尾久客車区のスハネ14-751に乗り込み、各自渡した個室寝台券とレール&レンタカーの往復2割引きの片道乗車券を渡して各自が個室へ向かった。用意したのは9号車の3番・6番・7番の3部屋でこんなに部屋位置が纏まるとは思わなかった(9号車限定の10時打ちのおかげか?)。

 

12号車の前に連結されている機関車を確認すると長岡運転所のEF64-1053なので家族で記念写真を撮影して乗車口の方向幕を入れて記念撮影もする。ホーム売店で各自の飲み物を購入して車内に戻ると基地としている3番の部屋に集合する。上野駅を23:03に発車して車掌が来ると各自銘々に特急個室指定券と乗車券を纏めて渡して個室キーカードをもらうと各自の部屋に移動して翌朝までフリータイムにした(息子も嫁も久々のソロ個室を楽しみにしてたのでね)。因み私は3番(1階)、息子は6番(2階)、嫁は7番(1階)で全ての個室が長岡まで進行方向に向いて座れる部屋なのが奇跡のようだった。

 

「北陸」と言えばこの5年間は出張で乗るのが殆どで近年個人的な旅行で乗ってないから新鮮な気がするけど缶ビールを飲み終えると大宮駅(22:28-30)に到着。高崎線に入ってから嫁と子供の部屋へ行くと2人は部屋を真っ暗にして流れ行く車窓に夢中だった。自分もベッドに入って快いジョイント音を聞きながら北陸路への旅に期待しつつ、いつの間にか寝てしまったようだ。就寝中の停車駅と時刻は....高崎駅(0:28-30)・水上駅*(1:21-23)・長岡駅*(2:46-3:10)・直江津駅*(4:06-08)・糸魚川駅(4:37-37)・魚津駅(5:16-17)・富山駅(5:37-39)・高岡駅(5:54-56)「*が付く駅は運転停車」。

そういえば9号車のスハネ14-751はオハネ14-1を種車にしてるがそもそも14系寝台の試作車として1971年に新潟鐵工で落成。品川客車区へ新製配置されて記念する試験的な初運用は1971年9月30日の下り急行「瀬戸2号(39列車)」だった。1972年3月15日から「瀬戸」は特急化されて20系客車へ変更されたため、試作車(オハネ14 1~7・スハネフ14 1~3)に1972年3月15日改正で量産車を含めて「さくら」「みずほ」「あさかぜ(11レ・12レ)」の運転が始まったけどオハネ14-1他は「あさかぜ」の25形化で品川客車区から尾久客車区へ転属。尾久転属後は1978年10月2日から「北陸」と「北星」の共通運用で使用開始。

 

高岡到着5分前に目が覚めたが昨夜はぐっすりと寝たので清々しい朝だけど他の2人が気になって個室に行くがノックしても返事がない、どうせ遅くまで車窓を眺めていたに違いない。金沢駅到着30分前にもう1回起こしに少し強めに扉をノックするとやや遅れて2名から返事があった。金沢駅まで25分だから着替えてトイレと洗面に済ませて3番個室に集合させると案の定2人は遅くまで起きていたらしくまだ寝たいを連発。1991年くらいまでは乗ったまま金沢駅から西金沢駅まで車両を移動して9時くらいまで寝れたチェックアウトサービスがあったけど終了しているので金沢で降りないといけないのだ。

 

津幡駅(6:17-18)を発車するとやがて寝台特急「北陸」は夜が空ける前の6:30に金沢駅に停車したが雪は降っていないようで何よりだ。牽引機の確認が未だなので家族で一番先頭へ移動すると長岡運転所のEF81-135号機が北陸のヘッドマークを付けて任務を終えて回送として金沢運転所まで回送の発車待機をしていたがスノープロウには雪が付着しており、県境の峠(倶利伽羅峠)は雪だったのかも知れない。

 

近江町市場まで歩き、早朝営業してる店で海鮮の朝食を食べてから兼六公園を散策して路線バスで金沢駅まで戻ってから予約してある駅レンタカーでSクラスのホンダ・シビック・1300㏄ 3ドアハッチバックを借りて能登半島方面に向かった。

 

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★