夜行列車の想い出

現在ではサンライズ以外廃止になった定期夜行列車だけど過去の夜行列車・想い出乗車レポートと夜行列車に纏わる懐かしい夜行列車ブログです(1975年以降から)

鈍行夜行 ながさき(421列車)

 下記本件ブログは2019年12月で消滅する弊yahooブログで2016年1月に紹介した内容を加筆修正して本ブログに再掲載となりますのでご承知願います(ブログ移行失敗による一部のブログ記事救済策)。特に印象に残った懐かしく、想い出深い夜行列車レポートを不定期で掲載しています。なお一部駅の時刻や一部の電車や気動車の番号などに相違がありましたらご了承願います。

 

1984年1月2日(月)、筑豊線筑豊支線・日田彦山線を走破した自分は現在ほど有名ではなかった門司港駅界隈の昔ながらの洋食屋でグラスワインを飲みながらハヤシライスを食べ、九州最後の夜なので、関門海峡に面したキャビンのようなしゃれた喫茶店でゆらゆら揺れる関門連絡船の浮き桟橋を見るながら、九州旅行を振り返る。 ルネッサンス調の駅舎で名高い門司港駅に戻って待合室で休憩する事にする。 実は「ながさき」のB寝台券は長い硬券(D型硬券)で発券してくれる駅を探して、最後の下段ラスト1枚を発券してもらったため、並ぶ必要はないのである。

 

改札が始まり、最初はボックス席で過ごしたいので、スハネフ12の車掌に指定券と九州ワイド周遊券のB券を提示して、暫くは自由席車にいる旨を話してナハフ11へ移動すると、九州内夜行列車の自由席や高千穂線の車内で出会い、今日は日田彦山線豊前川崎駅舎で列車乗り継ぎ待ち時間に雑談した千葉のレールファンがいたので隣のボックスに座り、再会と鈍行夜行「ながさき」の惜別に乾杯した。氏曰く、今夜の「ながさき」で門司港まで行き、門司から寝台特急「あかつき4号」で大阪まで行って紀伊勝浦まで移動後、寝台特急紀伊」で東京まで行くとの事。


「ながさき」「あかつき」「紀伊」の3連続寝台特急の旅は考え付かなかったし、この時は上には上がいるものだなーって関心したのだが、今考えると夜行列車が沢山走っていて、経済的にも余裕があり独身だった当時にその様な旅もしておくのだったとこの文章を作成しながら後悔先に立たずという言葉が頭の中を過ぎった。自分は事前に用意した官製ハガキに門司港駅の駅スタンプを押し、さっき鈍行夜行「ながさき」のB寝台券を持参して今自由席にいる旨を話した車掌へ官製ハガキの下にレチのサインも頂いた。

 

そのレチサインと駅スタンプが押された完成ハガキを持って郵便車のオユ11へ向かい、車内で公務中だった郵政公社(現JP)の係員に頼んで、「ながさき」の列車番号と扱い区間が入った消印を押して長崎行きの郵袋の中に入れてくれた。ハガキは旅を終えて帰宅した翌日の1月5日にちゃんと自宅のポストに配達されていた。門司駅寝台特急「あかつき4号」に乗り継ぐ、千葉のレールファン氏を見送って自分はB寝台へ戻ったが1984年1月2日の下り「ながさき」(421列車)の編成は下記のとおり。

 

ED76-1022[鹿]⇒DD51-737[早岐]+マニ36(門サキ)+オユ11(門サキ)+オハネフ12(門サキ)+スハフ42(門サキ)+オハ45(門サキ)+オハ47(門サキ)+スハフ42(門サキ)、佐世保編成はマニ35(門モシ)+スハ43(門モシ)+スハフ42(門モシ)だったと思いますがメモする時に間違えている箇所があるかも知れません。幅が狭くて高さも満足にない10系寝台のB寝台だけどこれが最後の「ながさき」乗車で翌月には廃止になるため、最後のチャンスなので3,500円を自分の趣味に投資した様なものですわ。

 

おかげで念願の普通夜行B寝台券をD型硬券で残す事ができて今もその硬券はあるけどあれから35年、いやあと1ヶ月もしないで36年が経過するけど件のD型硬券は自然劣化している(笑)。15分停車の小倉駅(23:07-22)を発車と同時に早々にB寝台(オハネフ12)のB寝台に移り、折角の旧客ハネなので早めに就寝した。流石に座席夜行と違い、寝台車はよく眠れて諫早まで爆睡してしまい、「ながさき」は旧線経由の大村湾沿いに進んで6:40定刻で長崎駅に滑り込んだ。

列車は廃止になってD型硬券の寝台指定券もボロボロだけど想い出は僕の脳裏にまだ焼き付いており、車中で出会った千葉のレールファン氏とはその後、文通で交流があり、今でも年賀状を交換する真柄でもある。

 

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★