夜行列車の想い出

現在ではサンライズ以外廃止になった定期夜行列車だけど過去の夜行列車・想い出乗車レポートと夜行列車に纏わる懐かしい夜行列車ブログです(1975年以降から)

1975年の時刻表から・・・東海道夜行①

先週に引続き、2週連続(またかよ、こいつ懲りねえなぁって思われているでしょうね)で同じ様なネタだと鮮度は落ちますが「1975年の時刻表から」に類似したネタは暫くお休みして来週からは1996年8月付近の"想い出夜行列車レポート"に戻りたいと思います。今回は1975年3月号の時刻表を使った東京発着、東海道線山陽本線方面他の夜行列車を解説してゆきましょう。

 

最初は東京発着の夜行列車で発車時刻などがJNRからJRに変わった1987年と違いますが編成や客車に牽引機以外は大差ありません。なお1975年3月10日時点でのご案内となります。それでは一番上の画像(「さくら」から「あさかぜ2号」まで)を見ると一番最初の発車は栄光の1列車こと、「さくら」から始まります。この時間帯は東京駅の帰宅ラッシュ時間前だったので入線時刻が発車37分前という早期の入線は栄光の1列車に貫禄を感じてなりません。客車は14系14形寝台車で運転されていましたが東京~横浜間・所要29分は前に横須賀線が走ったのが原因。

 

続いて2番手の「はやぶさ」は1975年3月10日に20系から24系24形に変わっていますが当初「はやぶさ」の付属編成は長崎編成でしたが1975年3月10日から熊本編成に変更になっています。今では東北新幹線新青森新函館北斗を結ぶ新幹線の名称に(「さくら」や「みずほ」は九州新幹線などで使用)使われているけど当時としては信じられなかった。3番目に東京駅を発車する「みずほ」は「さくら」と共通運用のため、同時期に14系寝台車化されているけど1968年10月現在では全編成熊本行きでした。しかし1975年3月10日から付属編成が長崎編成へ変更になって「さくら」と「はやぶさ」の補完的役割になって人気は今ひとつだった。

 

東京発の夜行列車4番目は日本一の走行距離と走行時間だった「富士」、24時間以上の運転時間を要した「富士」は鉄道ファンからの憧れでしたが開放A寝台(プルマン式とも言われた)と三段式B寝台に食堂車だけの編成だったけど当時から乗りたくてたまらないブルートレインだった。客車は「はやぶさ」と同じく、1975年3月10日から24系24形に変わり3段寝台だけど待望の70㎝幅ベッドの新型投入だった。長年東京発着の寝台特急は「さくら」が1列車を名乗り、後に「はやぶさ」が1列車を名乗ったが1993年3月に「富士」が1列車を使うようになった。朝日を浴びて富士のヘッドマークを付けたEF65Pが何とも恰好よく感じた1975年。

 

さてお次は列車番号が2001レまで飛ぶ「出雲」ですが客車は「はやぶさ」「富士」と同じく、1975年3月10日に20系から24系24形へ変更になっています。ここまで読むと1975年3月10日ダイヤ改正は東京発着ブルートレイン(一部除く)にとって一大エポックになっていますが全てが新車投入とは限りません。「さくら」「みずほ」他の14系14形寝台車は「あかつき」などのお古ですし、24系24形も向日町運転所時代に「あかつき」「彗星」などで使われたお古が品川客車区へ転属しただけなのです。話を「出雲」へ戻し、当時指定券が取りづらいブルートレインナンバー1がこの「出雲」だった。

 

続いて9列車は元祖ブルートレインの「あさかぜ1号」、あさかぜはそもそも3往復走ってたが1975年3月10日ダイヤ改正で11列車と12列車が臨時化(あさかぜ51号)されて9レと10レが博多行きの1号、13レと14レが2号に集約される。「あさかぜ1号」はまだ20系だったけど寝台特急で唯一のA寝台個室(ルーメット)を連結していたのが元祖ブルートレインの風格を感じるけど、約3年後の1978年2月1日から24系25形に変更されている。次は元11列車こと、8011列車の臨時「あさかぜ51号」。

 

1975年3月当時は臨時なのに食堂車も連結されており、車両は14系14形(14両編成)を使用して寝台は全車B寝台のモノクラスだけど1976年8月7日から運転された臨時8011列車と8012列車(あさかぜ51号)の夏臨は24系25型(12両)で運転され、東京駅・発着寝台特急では初の24系25形登場となる。しかし一番驚いたのは臨時列車なのに食堂車が連結されて営業している事だ。続きまして13列車こと「あさかぜ2号」であるが通称"博多あさかぜ"に対して13レは”下関あさかぜ”と呼ばれ、編成はA寝台・B寝台・食堂車の20系。

 

しかし1977年9月25日に24系25形が投入されるがA寝台と食堂車は廃止になった。臨時になったけど「あさかぜ」3往復時代の面影が残されていると思ったのは私だけではないだろう。下の画像【資料B】へ移動して15列車の「瀬戸」から・・・当時の東京発着寝台特急で一番走行区間が短かったのが「瀬戸」で宇野着が6:00なので日本一早起きな寝台特急とも言われた。車両は20系15両でA寝台とB寝台を連結していたが1977年9月26日から24系25形に変わってオールB寝台のモノクロスに変わる。宇野からは宇高連絡船に接続して高松からは特急「しおかぜ」「南風」に接続していた。

 

東京発着寝台特急ラストは2003列車の「いなば」+「紀伊」、「いなば」+「紀伊」は基本編成8両が「いなば」で、付属編成6両が「紀伊」として1975年3月10日現在は14系14形寝台車で運用されて「さくら」や「みずほ」と共通運用を組んでた理由により、食堂車は連結されていた。因みにA寝台は米子行きの「いなば」に連結。一方「紀伊」は紀勢線紀伊勝浦まで運転して名古屋駅で「いなば」を別れると名古屋~紀伊勝浦間は4003レ・4004レに列車番号が変わって紀勢線はDF50が牽引。東京発着の寝台特急は東京機関区のEF65Pがヘッドマークを付けて運行していたが「いなば」+「紀伊」だけはマークなしの浜松機関区のEF58が牽引して異色を放っていた。因みに車両は「あさかぜ」で使わなくなった14系14形を使用。

 

寝台特急が終り、次は季節列車の夜行急行6101列車「銀河51号」。1975年3月時点で全車座席指定の自由席がない夜行急行で使用客車は12系座席車を使用(14系座席車に変わったのは1976年10月1日から)していたが当時から品川客車区には12系座席車の配置が無いため(後にジョイフルトレインの12系ロ・ロフ6B「江戸」が配備)、大阪基点の「銀河51号」だと大ミハや天リウの12系座席車が、東京基点の運用だと北オクの12系座席車を使っていたけど繁忙期は高シマや静ヌマの12系座席車を使い、牽引機は大阪基点だと宮原機関区のEF58が、東京基点だと東京機関区のEF58が運用に入っていた。

 

続いて103列車は急行「銀河」だが当時は10系A寝台とB寝台車に指定席2両の旧型客車を連ねた編成で宮原機関区のEF58が牽いていた。20系が投入されたのは1976年2月20日の事で寝台特急「つるぎ」の20系が余剰になって「銀河」に回ってきた。座席車(指定席のみ)を連結している関係上、深夜未明の静岡・浜松・豊橋・名古屋などにも停車していたが上りは横浜駅であさかぜ1号に抜かれた。さーて来ました大垣夜行の347M、入線時刻が22:46、発車時刻が23:28なので42分前に乗車出来るのかと勘違いしないでほしい。

 

実は静岡駅を19:23に出た普通電車の340M(どこかで見たような列車番号)が東京駅に22:26に到着すると一旦乗客を降ろして車内清掃とサボ交換をしてから乗客を乗せるので実際の乗車時刻は発車20分前くらいである。編成は大垣電車区の153系と155系で組成してあり、1号車に165系が使われている時もあったようだが当時は非冷房の車両も一部あって車両は急行「東海」3往復と東京⇔静岡を結ぶ3往復の普通列車を共通運用で使っており、なお1号車の前にクモユニ74やクモユ141など郵便荷物車を2両連結していた。サロ163の窓下には白いラインが入っており格好よかった。

 

ラストは東京駅を日付変更直前(23:59)に発車する臨時夜行急行「銀河52号」、51号は6000番台の季節列車だけど52号は9000番台の臨時列車になってる。京都止まりの52号は上りの設定がなく、実車を見ていないため使用客車が不明なのだが旧客か12系を使っていたのだと思われる。51号は翌日52号で戻って来るけど当時は52号の戻りスジ(返却回送)が分からずに1975年現在では詳細不明になっている。以上で終るが最後に乗客が乗れない急行荷物列車の夜行列車を軽く紹介したい。汐留9:30発の急行荷物列車「荷31列車」の西鹿児島到着は翌日18:40の到着で約33時間を要していた。

 

次週からは1996年8月乗車分の想い出夜行列車レポートに戻りますが忘れた頃に「1975年の時刻表から」を行うかも知れない。

       ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

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