夜行列車の想い出

現在ではサンライズ以外廃止になった定期夜行列車だけど過去の夜行列車・想い出乗車レポートと夜行列車に纏わる懐かしい夜行列車ブログです(1975年以降から)

急行きたぐに(12系)自由席  

下記本件ブログは2019年12月で消滅する弊yahooブログで2016年4月に紹介した内容を加筆修正して本ブログに再掲載となりますのでご承知願います(ブログ移行失敗による一部のブログ記事救済策)。特に印象に残った懐かしく、想い出深い夜行列車レポートを不定期で掲載しています。

 

1978年6月上旬、自分は大学2年生でしたが、下り急行「きたぐに」で青森まで乗るなら絶対に夏休み期間中とGWに年末・年始の自由席は混雑するから避けろと、趣味の諸先輩方から言われており、大学の講義を調整して6月第1週目の日曜日に大阪駅まで、東海道線を鈍行乗り継ぎで目指す。乗車券は横浜市内~東海道線米原~北陸~新潟~羽越~奥羽~青森~盛岡~都区内を一筆書きキップとして学割で購入して、重複区間である米原~大阪間も片道101km以上あるので別途、学割にて往復事前に購入した。 シーズンオフの日曜日なので、夜行列車を利用する客は少なく、急行「きたぐに」入線30分前なのに自由席を待つ列が少ないのが助かる。

 

この日は臨時急行「アルペン」富山行きの設定はないが、急行「立山3号」の糸魚川行きも走るため、糸魚川くらいまでは急行「立山3号」を長岡以北なら急行「きたぐに」と分かれるみたいだ。 やがてEF58牽引で501レが入線したが、客車急行にしては編成が長い・・・先頭の12~11号車がオハネフ12、10号車がオロネ10、9~8号車はオハネフ12、7~2が12系座席車、1号車がグリーン車のスロ54で、その後ろにオユ10とマニ37を連結したトータル14両編成だが、8~12号車のB寝台とA寝台は新潟までの連結なのだ。自分は5号車のオハ12、新潟から先は日本海が見える進行方向右側(新潟から先は左側になる)に座り、片道19時間を過ごす急行「きたぐに」の旅にワクワクして発車を待つ。

 

大阪駅の停車時間は意外と短く、22:10の発車時刻を迎えたが牽引機である、EF58-36の澄んだホイッスルが鳴って「ガクン」と揺れて501列車は発車。停車駅は45個くらいあったような気が、するけど定期の急行列車では一番長い、急行「きたぐに」に乗ってみようという計画というか、野望は高校1年生くらいからあったのだが、その夢も叶って今こうして「きたぐに」の12系に揺られて感無量である。 途中、新大阪(22:16)・京都(22:57)・大津(23:08)に停車して11分停車の米原(23:59-0:10)に到着すると機関車をDE10に付け替えて米原~田村間のデッドセクションを進み、田村駅(0:22)からはEF70を連結して北陸本線(現在は琵琶湖線とも呼ばれる)を進み、敦賀駅(0:59-1:02)に入線。

 

我が5号車は米原から乗車した人は何名かいたけど敦賀からは殆ど乗車はなく、3分停車で自販機の飲み物補充だけして席に戻って寝る準備だけして車内で寛ぐ。敦賀を発車すると全長13.8kmの北陸トンネルに進入するが、6年前の1972年11月6日のAM1:09に、現在乗っている列車と同じ急行「きたぐに」のオシ17(食堂車)から火災が発生して、死者30名・負傷者714名の大惨事となった事故が発生している。その影響で電源分散式の14系より、固定電源式の24系を中心になってトンネルや地下へ入る列車へのAA基準が、見直されたり、青函隧道の竜飛定点や吉岡定点の防災避難定点の新設などは北陸トンネル火災事故を参考にしているのは言うまでもない。


自分は敦賀駅を発車して早々に寝てしまったが、以下は就寝中の停車駅と時刻・・・下り急行「きたぐに」(501列車)は武生(1:35)・福井(1:51-56)・小松(2:41)・金沢(3:06-20)・高岡(3:56-58)・富山(4:16-24)・魚津(4:46-47)。目が覚めたら山から続く、川幅の広い川がそのまま海に注いでたので多分、生地~西入善間の黒部川だと思われる。親不知周辺では親不知伝説の海岸とは違うけど、日本海の海岸が近付いて、夏の日本海の海の色は何気にきれいであった。更に自分が寝ている間に牽引気が変わったようで富山第二機関区のEF81-23へ変わっている。そして急行「きたぐに」は9分停車の糸魚川駅(5:31-40)に到着、ホームと改札周辺をウォッチするがまだ売店の類は開いてなかった。

 

直江津の10分停車(6:13-23)では何としても"もずくそば"は食べたかったけど、立ち食い蕎麦屋はまだ準備中だった(悲惨)。空腹を我慢しながら笠島青海川鯨波日本海の海を見ながら空腹を癒し、空腹も限界の中、長岡駅(7:31-41)に到着。10分停車なので改札近くまで行って牛めし弁当と揉み出し茶を購入・・・発車まで待てなくて、行儀が悪いけど長岡停車中に食べ始める。朝の通勤時間帯だけど急行列車は通勤者の利用者は少ないようだが、朝食後の満腹に睡眠不足もあって、朝なのに眠くなってしまい、盛んに船を漕ぐ。 途中、見附と東三条に停車して、鉄道の要所、そして鉄道の街として知られる新津駅(8:29-38)に到着した。

 

9分停車するのでキヨスクへ行き、昭和の前から新津駅売りの名物として売られてる「三色だんご」を購入して車内で食べていると、越後石山駅くらいから新潟運転所(上沼垂運転区⇒新潟車両センター)が、見えて上野と新潟を結んだ特急「とき」の183系・ボンネット181系電車や他にも485系や、寝台特急「つるぎ」の24系25形客車の他に12系客車などが、見れて大満足・・・急行「きたぐに」は新潟(8:54-9:08)へ到着。特急「日本海」などの優等列車は新津から直接羽越線に入って、新潟駅白新線なんて無視して最短ルートで北へ向かうのですが、急行「きたぐに」はわざわざ新潟駅を経由して機関車交換と不要になった8号車~12号車(B寝台のオハネフ12とA寝台のオロネ10)を切り離すのである。

 

寝台車5両を切り離してグリーン車と12系座席車6両と荷物車・オユ10の合計7両の短い編成に姿を変えて、今まで先頭だった富山第二機関区のEF81も外されて今度は酒田機関区のEF81-55号機が先頭に立ち、進行方向を変えて急行「きたぐに」は新潟駅を発車して青森を目指した。急行「きたぐに」は夜行列車というより、ローカル急行の出で立ちだが、白新線を走り、新発田(9:36-37)から羽越線に入って中条(9:51)・坂町(10:02-04)・村上(10:16)と停車。鮭の遡上と捕獲で有名な三面川を渡ると待望の日本海の海岸沿いに進み、沖合いには佐渡かと見間違えた"粟島"が見えてきた。

 

海岸は見事な景観を誇る延長11kmの"笹川流れ!と呼ばれる日本百景にも選定された、県下有数の海岸景勝地が見えたが、澄み切った碧い海と日本海の荒波浸食によりできた奇岩、怪石などの岩礁や洞窟が見事で美しい。日本海沿いを走る急行「きたぐに」は府屋~鼠ヶ関間で新潟県から山形県への県境を越えて温海温泉の最寄り駅、あつみ温泉(11:06)に到着。数人が乗り降りして、EF81のけたたましく鳴るホイッスルの後に発車の衝撃が伝わり、ゴトリと車輪が動いて発車したが、一連の音と動きと動作はまるで生き物のような感じがしたのは私だけではないだろう?。暫く日本海沿いに進むと、今度は沖合いに飛島が見えて来た。さきほど見えた粟島より小さい様に見えるけど沖合いに浮かぶ有人島を見ながらの旅は羽越線旅の醍醐味である。

鶴岡(11:35-36)、余目(11:49-50)と庄内地方の中心地を走ると、進行方向右側前方に独特の形をした出羽富士とも呼ばれる秀峰鳥海山が見えて来ると酒田駅も近い。酒田(12:03-07)では4分停車なので昼食の食料調達には最高の駅であり、駅の立ち食いそばを予定してたのですが、弁当屋のオヤジさんと目が合ってしまい、"特製ササニシキ弁当"を買ってしまったのですが、まだ温かくて作りたての駅弁はほかほか温かく、発車を待たずに箸を付けましたが、これほどご飯が美味しい駅弁は自分にとって初めてでした。 銘柄米幕の内駅弁で3本の指に入る美味さで、現在でも我家では庄内米の「はえぬき」や「つや姫」を食べているほど。

 

本楯~東鳥海では一番鳥海山がきれいに大きく見えて、通過駅の吹浦からはまた日本海の海が近付いて、車窓を楽しませてくれる・・・長かった山形県も終わりに近付き、通過駅の小砂川駅からいよいよ秋田県に入るが、象潟(12:41)では"陸の松島"も車窓から眺めて国鉄・矢島線(現.由利高原鉄道鳥海山ろく線)乗換え駅の羽後本荘(13:05-07)に到着する。そして更に40分走ると10分停車の秋田駅(13:46-56)に入線した。秋田駅では新潟駅からロングランしてきたEF81が解放されて、代わりに秋田運転区のED75-705が連結されて、お客も新潟駅以来大きく入れ替わった。


秋田駅を発車してから、最後尾の7号車に当るオハフ13の展望スペースで、過ぎ去りゆく景色とすれ違う列車との離合を楽しむ。1978年当時の奥羽線北部の普通列車ED75-700が牽引する旧客が殆どだったので、すれ違いも楽しめたのです・・・オハフ12やスハフ14だとディーゼル発電機の音がしてムードもないのですが、オハフ13はディーゼル発電機のエンジン音がしないため、実にいい感じがする。八郎潟(14:23)や森岳(14:39)に停まりながら東能代駅(14:50-51)に到着すると、上り急行「きたぐに」(502列車)との2回目(1回目のすれ違いは未明の金沢駅周辺で寝ていた)すれ違い時刻がせまり、後追い展望スペースで目を凝らして確認する。

 

東能代二ツ井間でEF81に牽かれた12系6両とスロ1両が確認できた。 この当時の夜行急行列車で1行路に姉妹列車と2回もすれ違うなんて列車は急行「きたぐに」だけである。二ツ井(15:06)・鷹ノ巣(15:18)に停車して秋田犬や比内地鶏で有名な大館(15:35-38)にも停車するとSL時代は機関士泣かせだった矢立峠の白沢~陣場(通過)を軽く越えて、津軽湯ノ沢駅(通過)から最後の都道府県となる青森県へと入った。列車は碇ヶ関(16:03)大鰐「現.大鰐温泉」(16:13)に停車しながら弘前(16:26-29)に到着すると終着駅の青森も近く、弘前駅を発車すると進行方向左手に津軽富士こと岩木山が見えて来たが今回の旅のフィナーレに相応しい。

最後の途中駅となる浪岡(16:47)にも立ち寄り、気持ちはゴールを迎える体制を作っていたが今回急行「きたぐに」で全区間フル乗車した乗客は一体何名いたのか気になるところであるが、鶴ヶ坂駅通過辺りから終点青森からの接続列車の案内が始まり、青函連絡船への接続を聞いていると、北への憧れとロマンを感じて連絡船で津軽海峡を渡りたくなってしまう。そんな時間的余裕も金銭的余裕もないので、現実に引き戻されて夢は砕け散ったのであるけど19時間という長い乗車時間だったが、シーズンオフの平日をあえて選んだのでほんの一部を除いて終始ワンボックス占領して前の席に足を投げ出しての旅だったため、疲れは皆無であった・・・そして17:10に定刻で青森駅へ入線したのである。

 

夜行急行で一番走行距離が長く、走行時間も長い急行「きたぐに」を走破してみて更に多くの自分が知らない夜行列車に乗ってみたいと思った今回の旅でした。

1978年10月にグリーン車の連結が無くなり、1982年11月15日で新潟~青森間が区間廃止になって編成が14系ハネと14系ハザのみになる・・・一番いい時期に乗れたのかも知れない(でも本音を言えば旧客時代に乗りたかった)。

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★