夜行列車の想い出

現在ではサンライズ以外廃止になった定期夜行列車だけど過去の夜行列車・想い出乗車レポートと夜行列車に纏わる懐かしい夜行列車ブログです(1975年以降から)

Twilight Express(SA2)前編

【プロローグ】1997年はゴールデンウィーク後半に往復「はやぶさ」と「富士」の全区間乗車を含む南九州エリアの温泉宿泊旅行で我家の財政は赤字に転じたが夏は往復寝台特急で同じく温泉宿2泊を含む、豪華家族旅行を計画していた。1994年6月8日に息子には祖父母(僕の両親と留守番させて夫婦で下り「トワイライトエクスプレス」のそれも展望スイートに乗って来て子供が羨ましがったものである。それ以来子供からトワイライトに乗りたいと請願されたのであるが息子も小学生5年生となり、そろそろ家族で旅行も終わりの時期かと思って息子の夢を叶える事にする。

 

日程は会社の夏季休暇前半4連休である7/26から7/29の4連休に7/25を年次休暇取得した5連休、出発日は7/25に決めて難問の指定券はJR西日本勤務の知り合いにコネを使って頼んで自分でも10時打ちやJR北海道プラザ東京店にも早期の予約をしていたが自己手配は全滅。二日くらいしてJR西日本勤務の知り合いから電話が来て1号車のSA2は無理だよと言われていたが1号車1番のSA2を補助ベッドプラスで取れたよと明るい声が受話器から聞こえた。数年後に日本旅行JR西日本傘下に入るとツアー申し込みでないと下りトワイライトの展望SA2は通常枠から外されて予約は難しくなってしまう。すぐに振替口座に代金を振り込むと後日、証明付き書留郵便で指定券が送られて来た。

 

乗車券はレール&レンタカーを使い行きも帰りも乗車券2割引なので往路は都区内~東海道線~山科~湖西線北陸線信越線~羽越線奥羽線~青森~津軽海峡線五稜郭函館本線室蘭線千歳線~札幌市内。帰路は札幌市内~千歳線室蘭線~函館線~五稜郭津軽海峡線~青森~東北本線~都区内で山科~大阪往復は別途購入。往路の新幹線「ひかり」もレール&レンタカーの特典で1割引で購入するがこんなマニアックなレール&レンタカーを受けてもらえるか心配だったけどすんなり受け付けてもらえた。出発は東京8:03発の新大阪行き「ひかり207号」でスタートした。

 

1997年7月25日(金曜日)、 大阪駅10番線で家族3名にて札幌行き臨時寝台特急「Twilight Express」の入線を遅しとワクワクしながら待っていた。やがて宮原客車区から北方貨物線経由で塚本駅側から「Twilight Express」の回送列車が11:36に敦賀運転派出のEF81-44に牽引されて入線。早速スロネフ25-503(第三編成でした)に乗り込み1号車1番に荷物を置いて北斗星のカードキーで鍵を閉めてから停車時間が24分間もあるので展望スイートの前で記念撮影(駅員氏にシャッターを押してもらう)を行い、更に機関車の前でも記念撮影してSA2に戻ると他の乗客らしい人が展望車の前で記念撮影をしていた。

 

大勢の人に見送られて旅立つのは恥ずかしいけど隠れてコソコソするのも嫌なので展望窓に家族3名並んで10番線ホームの人々に手を振りながら大阪駅ホームを眺めているとトワイライトの展望SA2指定券を取ってくれた知り合いがこちらをチラっと確認していたのを私は見逃さなかった。淀川を渡ると新大阪(12:05-09)に到着して4分停車だが新大阪でも注目を浴びてしまい、柄にもなく照れてしまうが息子は平気で手を大きく振ってて親として恥ずかしい。新大阪発車と同時にダイナープレヤデスのチーフがウェルカムドリンク注文に翌朝の朝食予約に来る。

 

さらにトワイライトエクスプレス厨房で作ったらしいお茶込み1500円の弁当を売り込んできたが確かに最初は厨房で弁当を手作りしてたが数年前から金沢駅積み込みの大友桜の弁当(上りは五稜郭駅積み込み・函館みかどの北の駅弁屋さん)になってるので丁重に断わった。入替わりに大阪車掌区のレチがニコニコしながら切符拝見と部屋説明に来た個室カードキーとスイート客限定の記念乗車証明書を頂いたので空白の場所に車掌のサインを頂いた。車掌が戻るとすぐにダイナープレヤデスのチーフが注文した白ワイン2本とおつまみセットに子供用のオレンジジュースを持って来てくれた。

 

高槻駅付近では上りトワイトエクスプレスの8002列車とすれ違い、子供がカメラで撮影するけど残念ながら間に合わず悔しがる事しかり。京都総合運転所(旧向日町運転所)の脇を通過、新しく生まれ変わった京都駅(12:36-37)に停車して山科から湖西線に入る。今回はディナーは予算の都合でパス。いくらなんでも小学校5年生にフレンチディナーは早過ぎるのでランチとモーニングは食堂車で食べようという事になった。嫁とウェルカムドリンクのワインで乾杯していると車窓に琵琶湖が見えてきたが車内放送でランチタイムの案内が流れると3号車のダイナープレヤデス(スシ24-3)へ移動する。

 

2000年以降のトワイライト・ランチメニューは多くのメニューがあったけど1997年はビーフシチュー、ビーフカレー、ミックスサンド、スパゲッティボロネーズ、スパゲッティカルボナール、ミックスピザと飲み物くらいしかないけど息子がビーフシチューを推すのでビーフシチューランチを3人前注文するが北斗星のパブタイムで食べたビーフシチューとは別物で価格が張るだけあって流石に美味かった。鳩原ループ線を進み敦賀駅(13:40-46)に近付いているので自分だけ席を立ち、ダイナープレヤデス・スタッフにトイレに行くのでコーヒーは戻ってからお願いしますと断わり移動する。

 

トイレは大嘘で2週間前に駅弁4個を列車に積み込む敦賀駅の駅弁会社塩荘さんへ代金支払いと現物受け取りを済まして弁当は個室に置いてすぐにダイナープレヤデスに戻ると1972年に急行「きたぐに」が、火災を起こした北陸トンネルを通過。家族と落ち合い嫁が「首尾は上手く行った」と聞いて来たので指でOKサインを送る。因みに7分停車した敦賀駅は特急「しらさぎ7号」の先行だけど「トワイライト・エクスプレス」は今庄(14:05-10)の運転停車にて特急「サンダーバード」を先行させた。大阪駅を発車して2時間少々が経過したけど息子は展望車の窓淵に腰掛けて飽きないようです。

 

そうえいば僕と息子は「Twilight Express」に乗ってすぐにトワイライト・オリジナルTシャツ(1994年6月8日に乗車した時のJR西日本車内限定グッズ)を着て大阪駅ホームや車内を動いたため、目立ってしまい検札の際もダイナープレヤデス・ランチの時も恥ずかしかったけどバカ親子振りを発揮していた。福井(13:37-37)を発車すると息子もそろそろ展望風景眺めに飽きて来たみたいなので子供を連れて(嫁はパス)4号車のラウンジカー・サロンデュノール(オハ25-553)へ行くと注目を浴びて恥ずかしい事。Tシャツは子供だけに着させればよかったが後の祭りである。

 

ラウンジカーは家族連れが中心だが、車掌から聞いた話ではA個室(SA2/SA1)は中年や年配のご夫婦が殆どだと聞いているが子供はサロンデュノールの大きな窓から流れる景色に夢中でそろそろ金沢駅到着なので1号車1番の我家に戻ると嫁が展望窓の桟に座って流れる景色を見つめていた。やがて列車は金沢(15:30-32)に入線するが、ダイヤを眺めても特急に追い越される訳ではなく、車内予約の夕食用プレヤデス弁当の積み込みなのであろう。列車は津幡駅を定時に通過すると石川県と富山県の県境にある倶利伽羅峠を越え速度が鈍って来る。倶利伽羅峠の戦いという源平合戦でも有名な地だ 。

 

実際に県境は倶利伽羅隧道の中なのでどの位置が県境か不明瞭だが無事富山県側に入り周囲が開けた富山平野の高岡(16:04-04)に停車。高岡を発車すると庄川を渡り、高山本線のレールが近付くと神通川を渡ると"ますのすし"や"ぶりのすし"で有名な富山(16:20-20)に到着した。そろそろ東の方から空の色がいい色に変わり、トワイライトタイムに近付いているが7月下旬は日没時刻が遅くて海沿いに太陽が沈む落陽が見れるか微妙な感じでもあるが今のところは快晴なので周囲に海のない、長岡~新津間でトワイライトタイムを迎えそうだ(苦笑)。

 

Twilight Express(SA2)前編はここまで、続きの後編は来週UPします

 

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★

寝台特急 瀬戸(B寝台)

1997年6月27日(金曜日)、 香川県高松出張を終えた自分は高松駅寝台特急「瀬戸」の据付入線を待っていた。新幹線接続乗換えルートなら(高松18:45「快速マリンライナー52号」19:41岡山20:12「のぞみ30号」23:24東京)何とか間に合うけど高松空港からだと最終便ANA640便が18:00離陸で20分前には登場手続き終了なので飛行機は間に合わないため、翌日は休日なので瀬戸のハネで寝て帰る事にした。9号車10番下段の寝台特急券を真っ先に確保し、夕飯駅弁の"讃岐五目ずし"(あなごめしは売り切れで残念無念)も購入してから讃岐うどんの立ち食いを食べて土産を求めて駅や駅前を徘徊する。

 

家族への銘菓や讃岐半生うどんを求めて高松駅9番線ホームへ入ると寝台特急「瀬戸」の入線(20:15)が始まるところだった。今夜の「瀬戸」は季節現車で9両編成だが先頭車両になる9号車に乗車すると下関運転所のオハネフ25-133で席に荷物を置いていつものように牽引機を確認しに行くと田端運転所のEF65-1114であった。帰り掛けに缶ビールを購入して車内に戻ると梅雨空の蒸し暑いホームと違って冷房が効いてて気持ちよい。スーツもネクタイもワイシャツも脱いで浴衣姿になって下段寝台の上にあぐらをかいて寛いでいると高松駅を定刻の20:37に発車した。

 

車掌の切符拝見が終ってから生うどんを小さく切って油で揚げて塩をかけたおかき(揚げ餅)みたいなツマミがビールによく合って美味く、2本目の缶ビールは讃岐五目ずしを食べながら飲んだが寿司飯の上に海老、コハダ、タコ、焼き穴子、鯖、胡瓜、椎茸などが盛り付けてあって美味い!!。列車は19分ほどで坂出(20:56-58)を発車すると現時点では自分がいるBOX(コンパートメント)には相席がまだ誰も来ていないが宇多津構内の短絡線を通り、宇多津駅は通過せずに瀬戸大橋線本四備讃線)に入る。夜だし外は雨が降っているため、窓ガラスに水滴が付着して外の景色は全く見えない。

 

しかし雨の中の夜汽車もシットリしていいなと思う・・・梅雨の時期だから仕方はないけど四季の夜行列車を楽しむのもオツであり、車内は涼しくて空いているので環境的には抜群である。9号車の前が牽引機なので時おり聞こえるEF65PFのホイッスルが聞こえるのもいい。瀬戸大橋を渡って本州に上陸すると児島(21:17-19)で2分停車するが高松運転所の乗務員から岡山電車区の乗務員に変わるのと無線の切替が行われる。茶屋町駅までは本四備讃線を通過して茶屋町からは宇野線だが、ちなみに高松~岡山間を瀬戸大橋線とも称する。

 

やがて列車は岡山駅(21:42-44)10番線ホームに到着すると乗り込む旅客が大勢並んでおり、前回上り「瀬戸」に乗ったのは1996年3月だが同じ様に岡山駅からの利用客が多かった事を思い出した。2分停車だが明日の朝に飲む甘くない缶ビターコーヒーをホームの自販機で購入すると同じ区画のBOXにも岡山からの乗客が乗り込んできた様である。岡山からは山陽本線に入り、快調に飛ばすが岡山駅からの利用が多いのは東京行き最終新幹線が20:12発と早いのが原因であろう?。中には寝台特急券も買わずに乗り込んで車掌に9号車まで連れて来られた客は最終新幹線乗り遅れ組だろうか。

 

まだマルスシステムが稼動している時間帯なのに切符を持たずに乗り込む客は少なくないようで前回仕事の帰りに上り「瀬戸」に乗った時も同じ様なケースの乗客を目撃しているので珍しくないらしい。今朝は東京6:00発「のぞみ1号」(500系)で早朝からの早立ち出張で睡眠不足なので早々とベッドにもぐろうと思う。途中停車駅と時刻は以下のとおり・・・姫路(22:49-51)・三ノ宮(23:37-38)・大阪(0:02-05)・岐阜*(2:10-11)・名古屋*(2:33-37)・浜松*(3:49-50)・静岡(4:45-46)・富士(5:13-13)・熱海(5:43-44)「*印は運転停車」。

 

目が覚めたら湯河原駅構内を走っていたので浴衣姿のままで通路側の折り畳み椅子に腰掛けながら昨夜岡山駅で買った生温くなった缶コーヒーを飲みながら相模湾の景色を楽しむ事にした。関東も梅雨空で雨こそ降っていないけどドン曇の天気だけど朝に相模湾の海が見れる上り東京行きの寝台特急の旅はいい。もう数え切れないほど見てる景色だけど特に真鶴~早川間から見れる相模湾の車窓は何度見ても飽きない。小田原を通過すると酒匂川橋梁(小田原~鴨宮)で富士山が見えるポイントがあるのだが梅雨空だと全く見えないかな~?の予想通り富士山らしき物は見えなくて終了。

 

仮に晴れていてもこの時期は雲が多いので富士山を望む事は難しいので致し方ないけどやはり富士山は冬季から早春が一番見える確率が高いので仕方ないかな?・・・なんて自分を納得させているのが何だかおかしくて笑ってしまう。御殿場線国府津電車区からの線路と交わると国府津駅を一瞬に通過して小田原市も終り、神奈川県中郡に入る(二宮駅大磯駅は中郡の駅である)。平塚駅を通過すると相模川(馬入川橋梁)を渡ってすぐに富士山が見えるポイントがあるけどやはり見えない。ちなみに平塚駅から東京近郊区間になり、国鉄時代の普通電車だと平塚から禁煙区間になったものだ。

 

湘南という地域イメージが一番似合う茅ヶ崎、辻堂、藤沢の各駅を通過するといよいよ大船駅の大カーブにかかり、大船駅も一瞬に通過すると大船の観音様も見えて横浜駅まではすぐの距離である。東海道本線京口唯一のトンネルである清水谷戸隧道を抜けると約4分で横浜(6:46-47)に到着。横浜を発車すると横須賀線(一部湘南新宿ライン)、京浜東北線、そして生麦まで京急線が並んで並走したりすれ違う様は鉄道ファンでなくても楽しめる区間だろう。そろそろ寝坊してた他の乗客も通路に出たり降りる仕度などでブルートレインの朝らしい新しい一日の朝が始まった。

 

僕の実家(現在はない)最寄り駅だった川崎駅を通過して六郷橋梁(多摩川)を渡れば東京都大田区である。品川駅を通過すると既に「出雲2号」と「銀河」は品川客車区へ入区しており、新橋手前から東京駅到着と乗り換えの長い車内放送が聞こえてきて上り寝台特急「瀬戸」の旅が、終わりである事を告げている。そうえばどこかで寝台特急「出雲4号」の回送1004列車とすれ違っているけど有楽町駅から東京駅の数多いポイントを渡って列車は定刻7:12に東京駅10番線ホームにすべり込んだ。

 

9号車なのを幸いに前に連結されたEF65-1114を見に行くと雨で洗われたのか「瀬戸」のヘッドマークは光っており、やっぱり瀬戸のマークは恰好いいなーと見惚れてしまったが梅雨晴れの休日にでも「瀬戸」の走行写真でも小田原以西で撮影したいものである。

 

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

団臨 メモリアル能登(14系14形)

このブログに掲載する夜行列車は市販の時刻表に掲載されている定期列車、季節列車と臨時列車が中心で団体列車は除外しているのですが1997年5月31日から6月1日にかけて自分が所属する撮り鉄系の鉄道趣味団体「RSEC鉄道資料交換会」がスペシャルトレインとして運転した「メモリアル能登」が宮原~直江津~宮原間を往復運転されたので乗車参加という事で乗車レポートをここにアップする。団体専用列車だけど乗車客にも沿線で撮影してもらって高崎線で追いかけたり定期急行「能登」で追いかけて「メモリアル能登」に戻れるように、更に沿線撮影撮影者が車で何回も追っ掛け撮影出来るようなダイヤに設定している。

 

1997年5月31日(土曜日)、 「メモリアル能登」の乗車始発駅でもある宮原駅(JR高崎支社の駅)で列車の入線を待っていたら能登ヘッドマークを着けたEF62-43が14系寝台車6両を従えて臨客9339列車が入線。団体列車といってもどこかに集合して纏まって乗るという事はせず、予め郵送で送られた乗車票に書かれた号車と番号と席番に着席するだけなので団体専用列車にありがちな事はなにもなく、気軽に乗車出来る。寝台は全て1BOX6名定員の座席利用なのでやや窮屈である(昔の長距離寝台特急は3段寝台BOXに6名座ったのであたり前な時代はあったけど)。

 

とりあえず指定された席に座って撮り鉄仲間と缶ビールで乾杯していると21:38に「メモリアル能登」臨客9339列車が発車した。乗車客は100%鉄ちゃんなので受信機や受信改造した無線機を持ってる人が多くてCタイプ無線下り周波数を傍受しているので各所から「こちら9339列車車掌、運転士さんどうぞ、9339列車発車」の音が聞こえてくるのには爆笑してしまう。R会員T車掌の声が放送から聞こえて最後にこの列車には食堂車と車内販売はありませんが聞こえてくる(苦笑)。6分ほどで上尾(21:44-22:05)に停車だがこれは宮原駅で9339列車をホーム対岸から長時間露光撮影で写してからも後続の高崎線でゆっくり間に合うように設定されたダイヤで終着駅までバカ停が続く。

 

21分停車の上尾では新特急「あかぎ5号」(21:47)と高崎線普通975M(21:53)更に快速アーバン3953M(22:02)を退避。975Mで到着した仲間も増えて上尾駅を発車したが、宮原駅から直江津まで所要時間10時間04分だけど停車時間が、313分(5時間21分)「運転停車除く」という運転ダイヤで半分がバカ停での停車という鉄ちゃんが鉄ちゃんのために走らす団体臨時夜行列車の有様である・・・通常の夜行列車ではありえない運転ダイヤ設定なのが笑える。因み急行「能登」601Mだと同区間を4時間33分で走破している。上尾から乗り込んできた仲間が上尾駅前のコンビニで調達してきた缶ビールを頂き乾杯だ。

 

我々の乗ってるスハネフ14-40は空席が多く横川駅か軽井沢駅能登ヘッドマーク付きのEF63重連を撮影してから乗って来るグループもいるため、一番乗車率が多い区間が不明瞭でもある。因みに乗車会費を抑えるために運転種別は快速列車になっているが熊谷(22:35-54)に停車すると19分停車して高崎線普通電車2859M(22:43-43)を先行させる。普通の夜行列車なら寝る時間帯だけど声のトーンを下げて鉄道話で盛り上るが車内は減光されて雰囲気は夜行列車に。本庄(23:16-0:24)では68分の大休止で高崎線979M(23:31)と快速アーバン3955M(23:42)、985M(0:06)、987M(0:20)の先行退避と寝台特急「北陸」の通過待ちで「メモリアル能登」と「北陸」が一瞬並んだ時は凄かった。

 

長い68分停車が終って発車すると神保原~新町で埼玉県から群馬県に入り、高崎運転所が見えてくると高崎(0:45-1:10)に到着。高崎駅では快速「ムーンライトえちご」(0:55-1:09)を先行させるために25分の停車だが、扉が開くと一斉にビールの自販機へ走り、500ml缶を6本購入して同じBOX仲間に配って乾杯するが高崎駅を発車すると信越線に分け入り、深夜なので既に寝ている乗客もチラホラいるようだ。安中、磯部、松井田と通過して西松井田を過ぎると横川駅手前のEF63電留線に第二エンド側に取り付けてある連結用照明を灯しながら横を通るとEF63独特のブロアー音が聞こえてきた。

 

横川(1:40-2:30)に到着すると「メモリアル能登」のマークを高崎側に掲載したEF63を撮影したり連結シーンを見物する乗客が一斉にホームへ降りて深夜なのに入線ホームは大盛況。さらに先頭のEF62側を対岸ホームから2線空けで撮影するファンも多くて深夜とは思えない人出である。2時少し前に489系の定期「能登」が入線すると並びを撮影するポイントには雛壇が出来て定期「能登」はEF63重連の補機が連結されると2:04に発車。自分は車掌⇔EF62運転士の無線感銘試験とEF62運転士⇔EF63運転士の無線感銘試験や貫通試験や制動試験を聞きながら待機しているとEF62運転士からEF63運転士への軸重率とバーニア制御オーダーを聞いていると発車時刻。

 

「こちら9339列車の車掌です、運転士さんどうぞ、9339列車発車」、続いてインカム無線機で同じ様にEF62運転士からEF63運転士へ発車指示が出されると「メモリアル能登」も横川を発車した。この先軽井沢到着までEF62運転士からEF63運転士へ進段指示が無線で飛びシリース(直列)から横川運転区通過する時にはシリースパラ(直並列)、中山道踏切を通過でパラ(並列)のオーダーが飛んでここから主幹制御器のノッチが進んで行く訳だ。旧丸山変電所くらいから速度も下がるが変電所先のカーブを曲がると急勾配区間に入り、霧積川橋梁の鉄橋音が聞こえると66.7‰の勾配に差し掛かり、坂本集落を過ぎると第一トンネルに突入。

 

幾つかのトンネルを出入りして少し周囲が開けると熊野平信号所を通過して再びトンネルへ吸い込まれる。碓氷峠最後のトンネルを出ると急勾配から平坦になって矢ヶ崎信号所を経て軽井沢(2:47-3:53)に到着。怒濤の1時間6分停車だが流石に眠さも限界で横川側に「メモリアル能登」のヘッドマークを付けたEF63の解放を見る事なく寝てしまった。以下は就寝中の停車駅と運転時刻・・・小諸(4:13-53)・長野(5:40-50)・古間(6:20-24)・妙高高原(6:39-49)。自分で起きたのか誰かに起こされたのかは定かではないけど6:45くらいに目が覚めたようである。

 

関山~二本木でもの凄い三脚の林(それもスーパー雛壇)を目撃して思わず皆さん頑張るな~って思ってしまう。自分は基本ヤラセのネタ列車は興味ないので撮影する気もない(時刻表に掲載される列車は過去に急行越前・能登・軽井沢・信州・妙高シュプール・特急サロンエクスプレスそよかぜ・荷物列車等撮影している)。列車はスイッチバックの駅で有名な二本木駅(6:55-7:00)へ入線するのだが下り列車だと行き止まりの駅へ到着して5分間の停車が終ると列車はバックしてスイッチバックで非難線に入ってから向きを変えて本線に入り、新井駅方面に向かった。

 

そうえいば昔旧型客車と10系寝台の急行「妙高」(長野~直江津普通列車)に乗った時は二本木駅スイッチバックしてたなと昔の想い出が脳裏に蘇ってきた。朝配られた朝食用のたかべん"だるま弁当"を食べながら北新井~高田の車窓を眺めると各所に三脚が立ってて、この列車の人気を知る事になる。春日山(7:26-30)で4分間の停車するといよいよ下り「メモリアル能登」の終着駅である直江津駅に7:42に到着した。直江津では折り返し9342列車になるため、1時間7分停車してEF62-43のエンド交換(上り列車先頭にEF62を付け替えて直江津を8:49に発車して高崎線宮原駅に戻る訳だ。

 

しかしこのブログは夜行列車を主題なので帰路は対象外のために軽く簡単にトレースしておく。多くの乗客は1時間7分停車を利用して先行の普通1342Mや特急「あさま10号」で撮影へ先行移動すべく、車内が空いてるので誰もいない上段寝台で私は直江津駅発車前から仮眠させてもらい、1時間5分停車の長野駅で目が覚めて「山菜栗おこわ弁当」と「ますの青葉ずし」を昼飯に購入してビール飲みながら食べて更に寝て、碓氷峠区間以外はあまり記憶がない状態だった。宮原から宮原まで21時間を越える長時間の旅だったが碓氷峠区間を客車に乗って超えるのはこれが最後であった。最後に帰路の時間を記しておく。

 

9342~9344列車:直江津(8:49)・春日山(8:54-59)・高田(9:05-35)・脇野田(9:41-52)・妙高高原(10:23-36)・豊野(11:07-10)・北長野(11:19-20)・長野(11:26-12:30)・戸倉(12:48-58)・小諸(13:29-35)・中軽井沢(15:25-32)・軽井沢(15:25-32)・横川(15:56-16:00)・安中(16:17-17:15)・高崎(17:27-39)・上尾(18:44-49)・宮原(18:55)「運転停車除く」。

 

直江津~高崎:EF62-43(HM付)

軽井沢~横川:EF63-21 23(23号機にHM付)

高崎~宮原:EF65PF(HM付)

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

寝台特急 はくつる (B寝台)

1997年5月28日(水曜日)、 翌朝9時までに相手先の会社へ行く出張案件が発生して21時まで残業してからも間に合う寝台特急はくつる」に世話になる。出張での「はくつる」乗車は1996年1月以来で私用での乗車は1996年4月以来で何れにせよ1年振りの乗車だ。昼休みに念のために指定券を購入しに行き、周囲が比較的売れてない席が多い、7号車の更に空席が集まってるエリアの下段を購入してその日は21時まで残業した。飲みながらの遅い夕飯を終らせて上野駅15番線へ行くと青森行き「はくつる」の入線10分前だったので乗車位置で待つ事にする。

 

22:10に尾久客車区からの推進回送が入線するとホームは活気が戻ってきたが早速扉が開いて8号車に乗車すると青森運転所のオハネフ25-117であった。牽引機関車を見学しに先頭へ歩くと田端運転所のEF8197で「はくつる」のヘッドマークを検証するる。やはり鶴のマークは朝とかに見るより、夜の時間帯にマーク意匠面を光で反射させながら深夜に飛び立つ一羽のシチュエーションが素晴らしい。売店で缶ビールとツマミを買ってから8号車に戻るが、全然乗客が増えていない。上野駅を定刻の22:23に発車するとすぐに缶ビールを開けて1人で乾杯。

 

そういえば上野駅からの夜行列車に乗るにも久々で2月28日の寝台特急「北陸」以来の乗車だと記憶するが、上野駅から夜行列車に乗るのが久々なので気分的に懐かしい。大宮(22:49-50)では機関車を撮影している高校生数名のグループが撮影していたけど珍しい機関車でもないのに何だったのだろう?。今回乗車してるオハネフ25-117は1994年12月5日に品川客車区から転属した25形の緩急車付きの100番台だが、そもそもは「あさかぜ1・4号」用として品川客車区で国鉄時代からの長きに渡り、駐在してた客車の1両だけど「あさかぜ1・4号」の事実的廃止により予備車両を含めて全て尾久客車区へ集約する前に青森運転所へ転属移管した。

 

当時の青森運転所持ちの24系は「出羽」「あけぼの」「日本海2・3号」と臨時の「カートレイン北海道」のみであったが1994年12月3日から24系の「はくつる」が青森運転所持ちと分かり納得したのであるが営業を開始した24系「はくつる」は一部を除き24形や25形0番台ばかりの編成(ロコ除く)であった・・・閑 話 休 題。少し早いけど浴衣に着替えて寝台に横たわりながらマッタリする事にする。ゴールデンウィーク後は毎晩遅くまで残業だったので久々の早寝だし、ゴールデンウィーク期間中の夜行列車は全泊ソロだったので開放B寝台で寝るにも久々である。

 

就寝中の停車駅と時刻・・・宇都宮(0:01-01)・盛岡(5:31-35)・一戸(6:25-25)・二戸駅(6:31-31)・三戸駅(6:44)。実際にはトイレで催して三戸到着前に目覚めていたのだが起きて窓の日除けを上げたのは諏訪ノ平駅の手前くらいだった。この周辺は東北本線が馬渕川に沿って線路も川もいい具合にカーブが連続する区間であり、ED75が牽引してた50系が、走っていた国鉄末期から1994年くらいまでは対岸の山の上から俯瞰気味に撮影したものだ。やがて列車は苫米地~北高岩のカーブにかかり、八戸(7:00-02)に到着した。

 

2分停車で売店へ行くと相変らず特製奥入瀬弁当(普通の幕の内弁当)と八戸小唄寿ししか置いてないので甘くない缶コーヒー(甘さ控え目のビタータイプ)を購入して列車に戻ったが八戸駅を発車すると八戸線の線路と分かれて大きく進路を左にとり、八戸市から上北郡、そして三沢市に進む。小牧温泉渋沢公園の横を通ると三沢(7:18-18)に停車すると海と繋がっている汽水湖小川原湖が見えてきた。日本最古の鉄道防雪林が見えて来ると南部縦貫鉄道(廃止は2002年だが、1997年5月6日に休止)の線路が近付き、野辺地(7:40-40)に到着。

 

野辺地駅を発車して大湊線の線路と分かれて暫く進むと陸奥湾が近付いて来たが暫くは海沿いを走ると思いきや、いきなり内陸部方面を進んだりして期待外れだったりする区間なのであるが西平内駅を通過すると大きく左にカーブすると今度こそきたいを持たせる陸奥湾沿いを走り、温泉街が近付くと浅虫温泉駅を通過。このあたりはホタテ貝の養殖でも有名だが野内の液化ガスタンクが石油ターミナルが見えてくると一旦海から離れて東青森駅を通過すると列車は青森信号所を通過して青森駅方面と滝内信号所方面と分かれる箇所から国道7号線をアンダーパスして列車は青森駅に近付いた。

 

正面に青森ベイブリッジ青森県観光物産館の三角の大きなビル「アスパム」が見えてくると寝台特急はくつる」の旅も終わりでゆっくりと青森駅に進入して定刻8:15に到着した。時間に余裕があるのでEF81の全面に行くとマークに虫が着いて一晩走り抜いた姿に感謝して自分は改札を出てタクシー乗り場へ急いだ。

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

寝台特急 上り富士(B1)後編

5月4日に九州温泉家族旅行の帰りに南宮崎から東京まで寝台特急「富士」に乗った際の思い出夜行列車レポの後編になるが下関~東京間は1997年4月30日から5月1日に乗車しているので同区間は簡略的なレポートになるかも知れません。

 

1997年5月4日(日曜日)、 上り寝台特急「富士」が下郡信号所を通過すると大分駅(16:49-17:01)に入線したので6号車(オハネフ25-29)に乗っていた我々家族3名は大分駅より先は1人用B個室ソロなので下車して大分から増結される予備編成の12号車乗車位置で待っていた。6号車の先頭に連結されていたED76-91が解放されるとオハネフ25-29の貫通路が開いて連結の準備が調うと7号車から13号車までの熊本運転所所属の付属編成が、近付いて無事連結された。ホースと幌に渡り板が繋がるとドアが開いた。早速12号車に乗り込むと4/30の上り「富士」、5/1の下り「はやぶさ」でも乗った熊本運転所のオハネ25-1002である。

 

岐路のソロも既に誰がどこの部屋を使うか決めており、4番(2階/私)・7番(1階/嫁)・12番(2階/子供)を押さえてあり、部屋に荷物を置いて僕と子供は機関車を見に行くと先頭には大分運転所のEF81-414が連結されてるのを確認して列車に戻る前に駅売店あじ寿司(500円)を購入して戻ると嫁も買物(大分銘菓 ざびえる)から戻り、3人が集まって座りやすい1階部屋の7番・嫁の個室に集まって夕飯の時間まで各自解散する。17:01に大分駅を発車すると海沿いに走り、田ノ浦ビーチなどの海岸美を眺めていると日本を代表する温泉保養地お膝元の別府(17:13-13)に到着した。

 

別府を出るとまた別府湾沿いに走り、日出駅を通過すると内陸部を進んで山沿いを進むと立石駅通過から上下線が大きく離れて西屋敷駅の手前で合流して宇佐(17:56-56)に到着。東中津駅通過くらいから民家が増えて次第に街が大きくなると中津(18:18-25)、7分停車なのでビールや飲み物などを自分が売店で調達にして車内に戻って嫁の部屋である7番ソロへ行くと息子も集まって夕飯のスペースを作っていた。僕と嫁は缶ビールで子供は缶のソフトドリンクで乾杯、宮崎駅の椎茸めしを3人で食べ始めるとご飯は硬くなってないし、おかずの味付けは手作りらしくて味も上場だ。

 

大分駅で買ったあじずし(500円)も出すと好評で6個入ってた鯵の握り寿司が消えてしまい、こちらも好評である。鯵を使った寿司駅弁は大船駅(鯵乃押し寿し)、小田原(小鯵押寿司)、七尾(能登鯵寿し)などあるが押し寿司ばかりで握り寿しのあじずしは珍しい。大分県関鯖関鯵が有名で高級品の関鯵は使ってないと思うが新鮮で生臭みもなくて美味かった。夕飯に夢中で行橋(18:47-47)停車の事など忘れていたけど食事もその後の談笑も終ったので各自解散して明朝7時まで自由時間になったので僕も4番個室へ移動する。

 

子供を連れて先頭の14号車へ行くとEF81-414がパンタグラフからスパークさせながら14両編成(電源車を含めると15両編成)の重い編成を牽引している姿が何とも頼もしく見える。19:02に日没時刻を迎えると列車は小倉(19:09-10)に停車すると門司(19:17-18)に到着するが通常は門司駅でEF81に交換するのだが、「富士」は大分からEF81なので1分停車のみしてAC20kv「60Hz」からDC1.5kvへの電源切替をデットセクションで行うと関門海底トンネル(3,604m)に入って約7分で地上に出ると本州山口県下関駅(19:26-31)に滑り込んだが青函トンネルみたいな感動は無いけど本州に戻った実感はある。

 

下関の5分停車は飲み物とお土産で買う下関名物「小川の瓶入り粒ウニ」を求めてから先頭へ移動したらEF66-49は確認出来たけど発車のベルが鳴っており、手短な14号車から乗り込んだ。息子の個室と嫁の個室に下関駅で購入した飲み物を配ってから自分も個室に入り冷えたビールを飲みながら寛ぐ。この8日間に「富士」乗車3回、上り「富士」乗車は2回目なので新鮮味は落ちるけど他のソロ個室にはない、時計と目覚ましアラームに100Vコンセントもあって完全調光式の読書灯があるのですこぶる環境はいい。

 

下関駅で購入した500ml缶ビールを飲み終えた頃に宇部(20:07-08)に停車して続けて防府(20:41-42)にも到着。二階のソロ個室から見える車窓は素敵だが階段の照明が消せないため、部屋が真っ暗して車窓を楽しむ事が出来ないのがやや不満である。今回子供の要望で下り「はやぶさ」と上り「富士」のフル乗車に挑んだ訳だが一番楽しかったのはヒル区間に家族だんらんで乗れたのが一番楽しかった。個室はそれなりに便利で自分もよく使うけど今回はソロとB寝台ヒルネという2種類の寝台設備を使えたのがマンネリしなかったのがよかったのかも知れない。

 

少し早いけどベッドに横たわって湾曲した窓から星でも眺めようと部屋の照明を全部落としたらいつに間にか寝てしまったらしい。就寝時間中の停車駅と時刻は以下のとおり「*印は運転士交代他の運転停車」・・・下松(21:10-11)・柳井(21:32-33)・広島(22:31-35)・尾道(23:46-48)・福山(0:03-0:04)・岡山(0:45-47)・*大阪(2:55-57)・*米原(4:20-22)・名古屋(5:18-21)「米原駅では電源車内の荷物車の荷扱いの運転停車も含む」。目が覚めたのは三河安城~岡崎の間くらいで昨夜は爆睡したようである。浜松(6:31-33)の2分停車でホームに降りて自販機で甘くないビター系の缶コーヒー・ミニ缶を購入して一息いれる。

 

流石に静岡駅に近付くと家族も全員起きて前もって電話で予約した朝食の駅弁とお茶を受け取るために用意した代金が入った封筒の中身を確認していると静岡(7:31-32)に入線したので12号車のデッキで待機していると無事に東海軒の担当者に会えて代金を渡して弁当とお茶を受け取る。集まりやすい1階ソロの7番個室に集合して静岡駅の幕の内弁当を朝ご飯として家族で黙々と食べた。この駅弁はもう何回お世話になった事だろうか。大垣夜行(347M/344M・345M/340M・375M/372M)では数えきれないほどお世話になったが初めて食べたのは1976年であった。

 

俵型に型押しされたご飯の上にゴマと中央に梅干が乗り、副菜は焼き魚、蒲鉾、玉子焼き、エビフライ、チキンカツ、野菜の煮物、ウグイス豆、桜煮、わさび漬けとバランスがいいのは一目瞭然だが、小さなカップに入った田丸屋の本わさび漬けは特に美味かった。無事に朝食も終り小田原までフリータイムだが僕は子供を連れて9号車のロビーカーへ行くと暫し海側のソファーに陣取り子供を色々話をしながら車窓を楽しむが子供がやたらと鉄分の濃い質問をしてそれにいちいち答えていたら周囲の人に僕が鉄道ファンである事がバレてしまったのが悲しいが近くにいた子供は羨ましそうな顔をしていた。

 

「富士」のロビーカーはゴールデンウィーク後半なので家族連れも少なくなかったが少なくとも南宮崎駅から乗車した家族はみかけてないので全区間乗車は自分たち家族だけかと思うけどフル乗車はこれが最後になると思うので子供だけには想い出を沢山作ってあげたくて沿線の見どころを含む車窓ガイドをしていると列車は興津の海岸や富士山を見る名舞台でもある富士川橋梁を渡ると富士(7:59-59)に到着。やがて嫁も合流して家族でロビーカーの大きな窓で車窓を楽しんで僕が高校生の頃にはヘドロ公害で有名になった田子の浦湾が一瞬見えて沼津(8:16-17)に到着。

 

沼津駅を発車して三島駅を通過するといよいよ函南~三島間・竹倉温泉近くの富士山バックの撮影地を通過するのだが僕が高校2年生だった時に同級生鉄道ファン計4人で大垣夜行347Mにて三島駅まで行って、深夜に三島駅から竹倉温泉近くの撮影地まで道に迷いながら歩いて富士山バックにて20系になる前の急行「銀河」から「さくら」まで写しに行った事があるけど毎回上り寝台列車でこの場所を通過すると当時の事を思い出す。まだブルートレインブームが起きる前の1975年だったが深夜から未明にかけて何時間もかけて目的地まで歩いた苦痛と眠さとの戦いだったけど若さでカバーした大昔の想い出話。

 

富士山は見えたけど上の方は雲に隠れていて残念だが函南駅を通過すると長さ約7.8kmの丹那トンネルに入る。完成した当時(1933年)は清水トンネルに次ぐ日本第二位の鉄道トンネルであるが現在でも東海道本線では一番長いトンネルとして君臨。丹那トンネルを出るとJR伊東線来宮駅の横を通過するけど実は伊東線来宮駅国鉄時代やJRになっても局報や後の運転報(通達)では東海道線を走る団臨の時刻がB報にも掲載されていたし、熱海駅へ回送電車を留置する場所がなくて来宮駅構内に留置する電留線が現在でもある。

 

上り寝台特急「富士」は野中山トンネルを出ると熱海(8:34-35)に到着して熱海~湯河原間で神奈川県に入った。楽しみにしていた湯河原~真鶴~根府川~早川の海沿いを眺めながら江之浦の高台や白糸川橋梁を渡った時に伊豆諸島の大島が見えて得した気分。小田原駅を通過したのでロビーカーから12号車のソロに戻り、早いけど下車準備をして残りの時間を楽しんでいると早いもので横浜(9:35-36)に到着した。南宮崎からの長い旅も残り20分を切り、多摩川を渡ると最後の都府県東京都に入って品川駅を通過すると東京駅まではすぐである。

 

長かった旅も長かったゴールデンウィークも今日で終りなのでブルーな気分になるけど9:58、定刻に東京駅9番線ホームに到着した。果たして全区間乗車した旅客は我々家族以外にいたのか定かではないが往復の寝台特急フル乗車と共に温泉リゾートを楽しめた九州家族旅行でした。

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

寝台特急 上り富士(ヒルネ)前編

5月1日の下り寝台特急はやぶさ」フル乗車で西鹿児島に着いた我々家族3名は指宿枕崎線指宿駅にて下車して指宿温泉の観光リゾートホテルに泊まった我々はチェックアウト時刻まで遊んで指宿駅10:14発の「快速なのはな4号」で西鹿児島駅に出てお昼を食べてから西鹿児島駅12:30発の肥薩線吉都線経由の直通都城行き「620D」に乗り、京町温泉の最寄り駅である京町温泉で下車して風情のある温泉旅館で泊まった。翌日は京町温泉駅10:59発の急行「えびの1号」で都城駅へ行って、都城駅から特急「きりしま6号」で南宮崎駅に12:59到着。

 

1997年5月4日(日曜日)、 特急「きりしま6号」で南宮崎駅に降りた我々家族3名はお土産を購入してからホームに上がって上り寝台特急「富士」の入線を待っていると大分運転所のED76-91が24系25形基本編成の「富士」となる回送列車を牽引して入線。6号車に乗り込むと鹿児島運転所のオロハネ25-29で寝台側の窓が大きい25形0番台である(窓が大きくて子供は喜んでいた)。車内中ほどのボックス席「コンパートメントという」をキープしてED76-91の前で記念撮影をして飲み物を買ってから車内に戻ると発車時刻が迫って13:23に南宮崎駅を発車して列車は一路東へ向かった。

 

列車はすぐに大淀川を渡ると宮崎(13:26-27)に到着するが、東京からやってきた下り寝台特急「富士」と同時入線で上りのダイヤも13:26-27なので同時発車である。宮崎市は観光都市で乗車客が多く乗るものだと思ったら「富士」の23分前に博多行き特急「にちりん40号」が設定されるのでヒルネ客はごく僅かである。宮崎駅を発車するとすぐに大分車掌区の車掌が来たので3枚綴りの寝台特急券(1枚目は南宮崎から東京までの金額表示がされてるけど号車・席番表示なし、2枚目は南宮崎から大分までのヒルネ用B立席特急券で金額表示なし、3枚目は大分から東京までの1人用B個室寝台券で号車・席番指定あり)を銘々に提示。

 

昼食には遅い時間だけど京町温泉宿での朝食が8時半からだったので丁度いい頃合だが都城駅での乗り換え時間に都城みづま本店の五目とりめし2個と牛めし1個を購入しておいた。南宮崎駅は駅弁販売はなく、宮崎駅は1分停車だし、車内販売も万人受けする駅弁しか積まないためである。嫁と子供に選ばせると二人とも五目とりめしを選んだので残った牛めしは僕になったが都城の駅弁はレベルが高くて三人とも大満足の昼食となった。日向新富駅を通過すると待望の日向灘が近付いて南国日南の海が見えてくると高鍋(13:51-52)に到着。高鍋では博多発南宮崎行きの特急「にちりんシーガイア9号」と交換したが787系のつばめ型車両だった。

 

高鍋を発車して日向灘日南海岸なのかな?)の海沿いを走ると都農駅美々津駅間でリニアモーターカー・宮崎実験線跡の高架橋が見えてきた。1978年の夏に上り寝台特急「富士」乗車中に高速運転してるML500が一瞬目撃する事ができたけど1996年にはリニア走行実験を終了して同年7月には超電導磁気浮上式鉄道・山梨実験センターへ移動している。そういえば砂浜が中心だった海岸も岩場が、目立つようになって街並みに入ると列車は日向市(14:21-22)に到着した。日向市駅を発車すると夕飯はどこで調達するか家族会議するがこの先駅弁が購入できるのは大分駅中津駅下関駅しかない。

 

門司駅は機関車交換がないので対象外なのだが下関駅は時間的に遅いし、中津駅は大した駅弁はなく、大分駅くらいしかないがイマイチ食べてみたい弁当もない。「富士」の車内販売が積んでいた宮崎駅の「椎茸弁当」の賞味時間が夕方まであれば買っちゃおうか~と家族で話していたら丁度ワゴンが通ったので聞いてみると夕飯なら大丈夫という声を聞いて「椎茸弁当」(700円)を3個購入。門川駅を通過する際に下り特急「にちりん13号」が待機しているのを目撃して子供と眺めていると土々呂(ととろ)駅を通過する際に子供へ映画・となりのトトロの駅だよと冗談を仄めかすと列車は延岡(14:40-42)に到着。

 

延岡市は宮崎県で2番目に人口が多い市だが、日向長井駅を通過すると北川沿いに進み、急に山深くなって市棚駅宗太郎駅で宮崎県から大分県に入り、宗太郎峠越えに入る。宗太郎越えは市棚駅宗太郎駅重岡駅で急峻な山地の中を20‰(パーミル)の急勾配の鉄路が合計37個のトンネルを抜いて続き、宗太郎駅が峠のサミットになっている(ここの峠越えも日豊本線の見どころのひとつで嫁も子供も驚いていたが僕の携帯電話も暫く圏外表示が長く続いた)。宗太郎を越えても更に山深い場所を走って上岡駅を通過するとやっと街らしくなって佐伯(15:44)に到着した。

 

さて4/30の上り「富士」で乗り、5/1の下り「はやぶさ」でも乗ったオハネ25-1002が途中運用降板さえなければ本日(5/4)大分から連結される上り「富士」に充当されるのか楽しみである。熊本運転所の25形・予備編成が「富士」にも運用するように上り「はやぶさ」が東京駅へ到着すると当日の夕方には下り「富士」として運用を差し替える事を子供に教えるが流石に10歳(1997年8月で11歳になる)ではそこまで理解できないようである。海崎駅あたりから津久見駅手前まで海が、見えて暫くすると津久見(16:04-04)に停車してヒルネ客数名を拾って発車すると一瞬山深い所に分け行ったがトンネルを出るとまた海沿いを走る。

 

車窓の景色を見ていた嫁曰く、日豊本線は海あり、山あり、川ありの変化に富んでいて景色を眺めていても飽きないと珍しく褒めていた。列車は臼杵の石仏で有名な臼杵(16:13-14)を発車すると今度はまた山奥に分け入り車窓が目まぐるしく変わってゆく。子供にJR時刻表と電卓を渡して往復でどれぐらい乗ったか計算させてみた。田端~小倉は往復割引運賃で小倉~西鹿児島西鹿児島~指宿往復に西鹿児島~隼人~吉松~都城都城~小倉を計算させたら43,390円。都区内からの鹿児島・宮崎ミニ周遊券は28,020円なのだがちょっとお得すぎじゃないか?と子供に注意するも東京に着くまでの宿題にした。

 

運賃計算は会社間によって運賃が違うし、地方交通線の特定運賃も用意されて更に面倒なのが会社別にまたがって乗る時は加算額もあって複数の会社線にまたがって加算額を運賃計算したり、地方交通線の事も考えたりすると運賃計算は本当に複雑で小学生には理解できない箇所もあるが特急区間の運賃などはすぐに計算できるまで成長してくれたのが父親にとっては嬉しい。大分からはソロに引っ越すので下車準備を追えて列車は坂ノ市駅通過から急に開けて街らしくなって牧駅を通過すると進行方向左手に大分運転所が見えて豊肥本線久大本線のレールが近づくと大分(16:49-17:01)に到着。

【この先は後編として来週の月曜日にUPします】

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寝台特急 はやぶさ(B1→ヒルネ) 後編

2022年8月29日の寝台特急はやぶさ」(1997年5月1日~5月2日に実際乗車)乗車レポの続きとなります。

自分にとっては二晩連続の夜行列車(1997年4月30日の上り寝台特急「富士」)旅なので浜松(21:34-36)を発車早々に就寝して翌朝目が覚めたのは朝6時の岩国駅通過した辺りで寝不足だからという事はないけど久々によく寝た。洗顔を歯磨きを終えて着替え終わると列車は海沿いを走り、周防大島が見えてくると神代~大畠の有名撮影地を走って柳井(6:26-26)に到着した。柳井駅では弁当(駅弁ではないのであえて弁当と記述)積み込みはなかった様だが列車は下松(6:48-48)に到着すると1号車から6号車は寝台は使えなくなってヒルネのB立席特急券でも乗れるようになる。

 

徳山駅は先頭の1号車から車内販売が乗り込むので早めに先頭車まで歩いて行くと基本編成のB寝台は結構乗ってたけど1号車と2号車は殆ど空いていて笑い。徳山(6:55-56)に停車すると1号車の先頭デッキから車内販売員が乗り込んで来て早速車内販売スタートだが自分は4番目であったけど徳島駅の幕内弁当を3個、更にお茶も合わせて購入して12号車まで戻った。既に嫁と子供にお茶と弁当を渡して各自自分の個室で食べるにもいいし、僕の部屋に集まってもいいと伝えると家族が3番個室に集結。個室の窓から瀬戸内の海が見えないのが難点だが家族で食べた徳山の幕内弁当も美味かった。

 

寝台特急はやぶさ」は防府(7:19-20)や宇部(7:57-57)に停車しながら本州最西端の駅でもある下関(8:34-39)に到着するので機関車確認するために子供と嫁を連れて車内を移動してホームの一番前に行くとJR九州・大分運転所のEF81-400番台ではなくて、JR貨物・門司機関区のEF81-302が「はやぶさ」のマークを付けており驚いた。「みずほ」と「あさかぜ」の廃止で機関車を整理した大分運転所だが1996年からA45仕業(3レ「さくら」)とA51仕業(31レ「なは」)の旅客運用を受け持っているため、他の寝台特急牽引・機関車運用もJR貨物・門司機関区が稀に運用へ入る様である。

 

車体のボディーがコルゲート状に加工してあるEF81-300番台は国鉄時代は門司機関区に所属してEF30と一緒に関門間の専用機として活躍していたがデビューした時はステンレスのラッカー塗装だけのなのだがその後に内郷機関区へ転属してローズピンク色の交直両用機関車のスタンダードな色になってしまったが子供は変わった風貌の機関車に喜んでいた(因みに長男は安中貨物「いわき駅から安中駅までの貨物列車」撮影でこの機関車と10数年後に運命的な再会を果たす)。下関駅を発車すると列車は坂を下って関門隧道に入るが地上に出るとデットセクションを過ぎると門司(8:46-52)に到着。

 

門司からは鹿児島本線日豊本線などAC20kV(60Hz)なので大分運転所のED76-90が連結されて終着西鹿児島駅まで牽引する。機関車の前で記念写真のシャッターを駅員?に押してもらい、急いで12号車まで移動するが発車時刻が迫り、7号車くらいから車内を移動して遠い遠い我が12号車まで歩いて移動したらかなりのいい運動になった筈であるが嫁は食後の運動にバテバテであった。車内販売が回ってきたのでホットコーヒーを求めると嫁も追加して息子はコーラを注文。門司を発車すると列車は長かった山陽本線とは別れて鹿児島本線に入り、小倉(8:59-9:00)に到着した。

 

走るにつれて福岡市の中心に近付いている事がわかるが、すれ違う優等列車も特急「つばめ」(787系)、特急「有明」(783系ハイパーサルーン)、ソニックにちりん(883系)、「にちりんシーガイア」(787系)等初めて見る特急電車も多くて息子は始めて見る車両に大わらわだったらしいけど寝台特急はやぶさ」は九州の中心駅でもある博多(9:53-54)に到着した。博多を発車すると特急「かもめ」「みどり」「ハウステンボス」なども混じって我が子の頭の中はパニックしそうだが久々に九州上陸した俺も大差ないレベル。新型鉄道車両の情報は入るには入るけど基本電車は興味ないので初心者同様であります。

 

原田~けやき台間で福岡県から佐賀県に入り、寝台特急はやぶさ」も残るところ熊本県と鹿児島県のみとなったが、鳥栖(10:19-20)の2分停車では食べ比べようと中央軒の焼売単品(350円)を購入する事に成功したのでお昼にでも家族でつまんでみよう。8分で久留米(10:29-30)に停車するが、列車は先ほど書いたように福岡県から佐賀県に入ったのだが久留米駅はまた福岡県に戻ってしまい、大牟田駅まで福岡県を走るのだ。福岡県と佐賀県を行きつ戻りつする線形は異様に特殊みたいだけど致し方ない。やっとの思いで大牟田(11:03-08)に到着してやっと熊本県に入った。

 

大牟田駅では後から来る特急「つばめ7号」の退避待ちで5分停車するが国鉄時代は特急が特急を追い抜くなんて事はなかったが、JRになると各社高速運行の特急(787系などの最高運転速度130km/h)が開発されると速度の速い特急と国鉄時代の速度の遅い寝台特急が同じレールの上を走ると特急が特急を抜かすなんて事が当たり前の行為になった。特急「つばめ7号」は大牟田駅に11:06に入線して11:06に発車した(はやぶさより西鹿児島駅に1時間早く着くのだ)。これじゃあ「はやぶさ」のヒルネ(B立ち席特急券)なんかに乗る人はいないし、息子も嫁まであっちに乗りたいと言い出す始末・・・ヤレヤレ。

 

大牟田駅を発車すると車掌が個室の鍵を回収にきたので各自荷物の準備をして西南戦争の激戦地であった田原坂駅を「はやぶさ」が通過した際に我々家族も民族の移動と称して12号車から6号車の西鹿児島行き・禁煙車に車内を歩いて移動するが熊本駅で我々が乗っていた付属編成は切り落とされるため早々に環境が良さそうなヒルネの区画をキープしようというのが我々の作戦だ。幸い6号車(オハネフ25-110)は空きボックスばかりで寝台も使われた気配がない席をキープして家族3人で思い思いに座ると熊本(11:48-53)に停車したので自分は5分停車で昼飯の駅弁を買いに行く。

 

熊本駅弁当屋は駅前で音羽屋という中華飯店を同時営業しているので中華弁当には定評があるため、中華弁当(820円)を3個購入して6号車に戻ると飲み物が待っており、熊本駅を発車してヒルネのキップ類を車掌に見せ終わると昼食にする。中華弁当はシューマイ、春巻き、エビチリ、中華風ワカメサラダ、ニラ炒め、などのおかずで味付けも本格的だ。鳥栖駅で買った中央軒の焼売も一緒につまむが嫁が言うには崎陽軒のシウマイには到底勝てない味付けと言っていたが駅売りでは小田原駅大船駅に札幌駅で売ってる駅弁会社の焼売単品の方が美味いように感じる。

 

真昼間だけど嫁と缶ビールで乾杯しながらの中華弁当は味付けも抜群で家族も喜んでくれてよかったけど車内が空いているのをいい事に嫁は空いてる区画の席(寝台下段)で横になって寝てしまった。列車は宇土駅を通過すると三角線(現あまくさみすみ線)と分かれて八代(12:19-20)に到着するが熊本からは九州新幹線の高架工事も行われていて昔とはイメージが変わってしまったが肥薩線と分かれて球磨川を渡り、日奈久(現日奈久温泉)駅の先には待望の有明海不知火海?)が見えて暫し、海沿いに進むとやっと南国九州にやって来た気分で盛り上る。

 

肥後二見駅を通過すると更に海に近い箇所を走り、寝台で寝ていた嫁も起きて来たが水俣(13:07-08)を発車すると暫く進むと水俣湾に沿って進み、袋駅と米ノ津駅の間で熊本県から鹿児島県に入る。いよいよ下り寝台特急はやぶさ」は最終県の鹿児島県に到達したので旅も残り僅かであるが終着駅の西鹿児島駅までまだ2時間弱ある。鹿児島県最初の停車駅でもある出水(13:24-25)に停車すると折口駅(通過)の先で海沿いを走って阿久根(13:43-44)に到着。牛ノ浜駅を通過すると更に海沿いを走るが速度が落ちて運転停車の薩摩大川(13:54-14:00)に停車。

 

16M(特急「つばめ16号」)を通過退避のため、6分停車するが単線区間なので致し方がないが「はやぶさ」も発車すると更に海沿いの車窓を楽しんでいるとまた徐行して運転停車の薩摩高城(14:08-11)に停車するので子供と嫁を連れて最後尾オハネフ25-110の展望区画へ行き、下り「はやぶさ」と上り「はやぶさ」がすれ違うシーンを見学しに行く。既に我々が寝ている深夜時間帯に加古川駅~宝典駅間にて既に1回目の上り「はやぶさ」とすれ違っているので本日2回目の同一列車同士のすれ違いだ。本列車が薩摩高城駅に到着すると1分30秒か1分45秒くらいすると上り「はやぶさ」がゆっくりと通過して時刻通りに14:11に本列車も発車した。

 

薩摩高城を発車すると海沿いから内陸部へ移動して川内(14:25-25)に到着するがマルス端末が漢字打ちが出来ないマルスN型はカコ・センダイ(鹿児島本線川内駅)と表しカタカナ・ひらがな同一駅名の東北線の仙台駅はトホ・センダイを記してあるくらい川内駅は読めない人が多かった国鉄時代だけどカコもトホも線区の電報略号である。なんて家族に説明していたら串木野(14:37-38)に到着。川内駅くらいから人工も増えてヒルネ乗客が増えてもいいのに数分後には特急「つばめ9号」が追い上げてくるから我が「はやぶさヒルネに乗る乗客は極めて少ない。

 

これでは熊本~西鹿児島間が廃止になるにも無理はないけど最新鋭のビュッフェもある787系に人気があるのも仕方がない事で自分が同じ境遇ならBOX席で前夜からの汗と臭いみたいなのが染み付いた寝台車のヒルネなんて乗らないで787系の「つばめ」を選んでいると思う(苦笑)。やがて列車はかつて鹿児島交通・枕崎線が分岐していた伊集院(14:53-53)に到着するといよいよ次が終着駅の西鹿児島(現鹿児島中央駅)だ。我々家族3人も降りる仕度をしてデッキに移動するとこれから乗り換える指宿枕崎線の線路が近付いて所定時刻の15:10に西鹿児島駅に到着した。実に1,514.7km、20時間54分の旅が終った。

 

定期列車では一番長い距離と時間を走る列車に感銘する暇もなく、家族で階段とホームをダッシュして2分接続で指宿枕崎線・快速3963Dに乗る事が出来た(予定では15:20発の965Dに乗る筈であった)。家族に「はやぶさ」フル乗車の感想を聞くと息子は楽しめたとの事で手応えを感じたが嫁は午後が長すぎて疲れた(空いてる下段区画でヒルネと称して横になってたのに)の一言で切り捨てられてしまった。16:02に指宿駅へ到着した我々家族は指宿観光ホテルにチェクインして砂蒸し風呂やジャングル風呂にプールなどでリゾート気分を楽しんだ。

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★