夜行列車の想い出

現在ではサンライズ以外廃止になった定期夜行列車だけど過去の夜行列車・想い出乗車レポートと夜行列車に纏わる懐かしい夜行列車ブログです(1975年以降から)

快速 ムーンライトえちご(上り)

1996年12月21日(土曜日)、 新潟で夕飯と一献を済まして上り快速「ムーンライトえちご」(3720M)の始発駅である村上駅まで945Mにて移動して21:45に村上駅へ到着。村上~新潟は快速3948Mの全車自由席だけど面倒なので村上駅から快速「ムーンライトえちご」として書かせてもらうが一旦改札を出て明日の分の青春18きっぷへ日付を入れてもらい改札が始まると側線に停めてあった快速「ムーンライトえちご」の編成が入線した。みどりに窓口で調べてもらうと今宵の空席は沢山あって三連休中日の影響なのだろうか?。

 

早速2号車の扉が開くと昨夜も乗ったモハ164-64で今夜は空いてるのに6両編成は不思議だけど明日の折り返しで需要があるから致し方ないのだろう?。「ムーンライトえちご」や過去の「ムーンライト」は3両、6両、9両の何れかにて混雑期と、そうでない時期をフレキシブルに対応しているのが面白い。村上駅を22:20定刻発車すると後ろ向きに進むがこれは新潟で進行方向が変わって新潟からが本来の列車の向きであり、村上~新潟間は快速3720M「ムーンライトえちご」でなく、快速3948Mなのだなと思う自分であった。列車は坂町(22:30)・中条(22:37)・新発田(22:48-48)に停車。

 

K君から電話が来たのでデッキに出てから出ると白河市・白坂駅周辺にて車中泊準備中との事で明日は黒磯以北の交流区間ED75+マヤ342003と黒磯以南でEF65PF+マヤ342003を撮影して宇都宮の32分停車でも更に追いかけて撮影するとの事であった。列車は豊栄駅(22:59)を発車して阿賀野川橋梁を渡るとJR貨物の東新潟機関区前を通って上沼垂のデルタ線(デルタ線の中央に上沼垂運転区がある)を過ぎると新潟駅(23:12-20)に入線。8分停車の新潟ではそこそこの乗車があったけど6両編成のため、緩和されて我が2号車は思ったほど席が埋まらない。

 

快速「ムーンライトえちご」は4~6号車が基本編成で1~3号車は付属編成で付属編成は連結しない日も多く、基本編成から発売していくのか新潟駅停車中に確認したら4~6号車の方が乗車率が多かった。新潟を発車すると進行方向が変わって村上からの後ろ向きに進むのが解消されて缶ビールを飲んでいると車掌が切符類のチェックに回ってくると新津(23:34-58)に到着。24分停車中に特急「日本海2号」と高速貨物2082列車を先行させてから発車したが2号車の指定席も7割弱が埋まってるが自分の隣席は未だに空いたままであるが長岡までに多少は乗って来るかも知れない。

 

列車は順調に信越本線を上って加茂駅(0:15)・東三条駅(0:22-23)・見附駅(0:34)と小まめに停車するが乗車客は数名は数名のみで信越線と上越線のジャンクションになってる長岡(0:43-1:09)に入線した。26分停車するのでホームの自動販売機は大盛況で駅前にあるらしいコンビニへ行った若者が大手コンビニのレジ袋を提げて発車前に戻ってきたが、後に夜行列車の食料事情に詳しい知人から聞いたら長岡駅から徒歩4分ほどかかるらしい。長岡駅停車中に下り寝台特急「鳥海」が青森へ向かうと、我が快速「ムーンライトえちご」も発車であるが僕の隣席は未だに乗って来ず。

 

今まで全く眠気がなかったのだが自販機で購入したリアルゴールドを飲んだら急に睡魔が襲ってきたようでリクライニングを倒して寝る準備。以降就寝中の停車駅と時刻は高崎駅(3:39-40)・大宮駅(4:30-30)だが水上で運転停車している筈である。大宮駅停車中に目が覚めると結局は隣席はノンゲストだったが下車準備を急ぎ、トイレも済まして予定より早い赤羽(4:48)で下車して赤羽4:53発の京浜東北線南行3番電車にて田端5:03に到着して自宅まで歩き家に到着すると家族はまだ就寝中だった。今回の乗車が1996年最後の夜行列車乗車となったのである!!

 

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

快速 ムーンライトえちご(下り)

1996年12月20日(金曜日)、 12月の3連休前夜に新宿駅7番線ホームで村上行き快速「ムーンライトえちご」の入線を待っていた。当初は21日に只見線の初冬風景を写しに行く予定だったのだが急遽21日の午前中にオリエントサルーンJR東日本・東北地域本社「現仙台支社」の12系和式客車)が磐越西線を下る事が分かった。JR東日本新潟支社・運転報 (A報)によればDE10牽引なので我々は撮影する気はさらさらなかったけど3日前に東新潟機関区へ貸出中だった長岡運転所のDD51-745に運用が変更して自分たちもナシゴが運用に入るなら磐越西線・非電化区間へ行く事にした。

 

22:50に「ムーンライトえちご」となる回送電車(6B)が入線して2号車のモハ164-64に乗車しするとN君も到着したので一緒にホーム上のコンコースまで缶ビールとツマミを買いに行く。翌早朝に新津駅で待ち合わせするK君の携帯へ予定通り出発連絡してから車内に戻って乾杯した。青春18きっぷが使える3連休前夜である快速「ムーンライトえちご」は6両編成なのに利用客が多い様で発売日早々に満席(女性専用席除く)で盛況の様である。新宿を23:03に発車しても鉄道写真を磐越西線まで写しに行く様な人は見かけず鉄道ダイヤ情報や鉄道ファンのジョイフルトレイン運転情報に記載がないから助かる。

 

池袋(23:11)・赤羽(23:26)に停車しながら埼京線(新宿~池袋)・山手貨物線(池袋~赤羽)・東北貨物線(赤羽~大宮)経由で進み、大宮(23:40-43)に到着。車掌の巡回も終って明日は4:59着の新津駅で下車するので早めに寝ようとリクライニングを倒してウトウトしていたら突然の急ブレーキ。明日がつらいので自分は寝てしまったが起きていたN君の話によれば停車したのは北上尾~桶川間で先行の貨物列車が異音感知とか障検動作(踏切障害物・検知装置の動作)とかで停止したため、防護無線を受けて緊急抑止にて快速「ムーンライトえちご」も停止したそうだ。

 

列車無線の高崎輸送指令を傍受していたN君によれば快速「ムーンライトえちご」は40分ほど停車して抑止解除ののちに運転再開したとの事。遅延が出ると明日の臨客9221レ撮影に支障が出るけど高崎14分、長岡10分停車以外に運転停車の新前橋28分、越後湯沢6分停車など運転時間に余裕があるので45分程度の遅れなら長岡駅発車までには所定時刻に戻ったそうである。自分は寝てて気が付かなかったけど起きたのは見附(4:26)を発車したくらいでダイヤどおり運行してたのでN君から聞くまでは知らなかった。東三条駅(4:36-37)に到着すると新津まで20分ちょいなので爆睡中のN君を起こす。

 

高崎まで起きていたN君は眠そうだけど2人で洗面と歯磨きを済ましたら加茂駅(4:44)は発車して次は下車駅の新津である。デッキへ移動して携帯電話から所定時刻で新津駅へ到着出来る旨をK君へ電話(当時はまだメール機能はなかった)すると駅前に車を横付けして待っている返事が聞こえてきた。席に戻って網棚の撮影機材を下に降ろしていると新津(4:59-59)へ入線したので急いで誰もない改札口をフリーパスで出て出口へ行くと車が横付けされてハッチバックが空いていたのでK君車にお世話になって新津駅前を5時過ぎに出発。

 

K君の話では新津駅を3時少し前にDD51-745が会津若松に向けて臨単9220レで回送されたそうで新津ICから津川ICまでは磐越自動車道でワープしてその先は国道49号線と県道61号線(喜多方西会津線)経由で山都~荻野の西海枝漕艇場近くの築堤アウトカーブで撮影後、車で追いかけて野沢駅の6分停車中に車で追いかけて上野尻~徳沢の群岡集落と端村集落の間にある田んぼと山を入れてDD51-745が、牽引するオリンエントサルーンを順光で撮影する事が出来た。この先は新潟県に近付けば近付くほど天気が悪いので撮影を終了して普通列車で帰るN君を快速「あがの」が停車する野沢駅へ送る。

 

N君を見送って西会津でK君と昼飯を食べてPCで天気を調べると雨予報に変わってる。これじゃあ只見線へ行っても無意味なのでゆっくり話そうという事になり温泉でも浴びに飯豊の湯(山都町一ノ木)へ移動して温泉に浸かって雑談しながら仮眠した。山都駅まで送ってもらい、新潟まで行ってから駅前で夕飯食べてから村上駅へ向かった。

 

             ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

急行 能登(489系・自由席)

本件は子供が特急「白山」のラウンジ&コンビニエンスカーに乗りたいと言い出した事が発端で年が明けたら乗りに連れてってあげるよと口約束したのだが、行きか帰りに乗車する急行「能登」はスキー客で混雑する事を思い出して急遽年明けは辞めて無理やり年内に予定を変更して1996年12月7日(土曜日)出発に変更して帰路は福井から上野まで急行「能登」で戻るプランを立てて当時都区内発14,730円だった北陸ワイド周遊券を購入(子供は半額の子供用を購入)。都区内~福井の乗車券が往復で16,860円、急行能登の自由席分が1,240円、特急「白山」の糸魚川~金沢間の自由席特急券が1,750円、金沢~福井間の自由席特急券1,130円で総額20,980円かかるのが北陸ワイド周遊券だと14,730円で済むのは大助かりである(大人だと通常購入より6,250円安くなり、ラッキー)。

 

上野(8:30)から金沢(14:36)まで特急「白山」の9号車・禁煙自由席に座って旅を楽しみ、横川駅では名物の峠の釜飯を購入して489系台車の空気バネをパンクさせて横軽こと1997年10月1日に廃止されてしまう碓氷峠を楽しみ、車内が大幅に空いた長野~直江津間では6号車のラウンジ&コンビニエンスカーへ移動して電子レンジ暖めメニューだけどうなぎご飯やカレーライスを食べて息子も満足したようだが自分もラウンジ&コンビニエンスカー連結の「白山」フル乗車は今回初めてだけど食堂車が営業している時期は何回かフル乗車している。金沢で土産を買ってスーパー雷鳥で福井まで移動。

 

1996年12月7日(土曜日)、 福井名物・ヨーロッパ軒のソースカツ丼で子供と夕飯を済ませて福井若狭名物の小鯛のささ漬と翌日まで日持ちする焼き鯖寿司(嫁からの希望)を購入して福井駅2番線で急行「能登」の9号車(禁煙自由席)乗車口で待っていると489系「能登」に乗るのも初めてである。1994年1月に上野~直江津間、1995年1月に上野~長野間で2回ほど乗ってるだけ。上越線経由の旧客「能登」や信越線経由の14系で運転していた「能登」なら何回かフル乗車済みだが福井駅から夜行列車に乗るのは急行「越前」以来になる。

 

21:10くらいに急行「能登」が回送電車で入線したので早速9号車に乗り込むと金沢運転所のクハ489-5に乗り込んでシートがフリーストップリクライニングシートのR55系列なのを確認して前の席を回して進行方向右側をボックスにしてキープする。R55系シートはキハ183系500番台で使われたフリーストップリクライニングシートで「能登」や「白山」だと1号車と9号車のクハ481のみに使われており、他の普通座席車はR51改の簡易リクライニングシートだがR55でもシートピッチは狭いままだけど2人で4席確保できれば大差はないけど問題は金沢駅富山駅での乗車人数如何だと思われる。

 

21:27発の特急「加越7号」が発車すると急行「能登」も追いかける様に福井駅を21:34に発車したが9号車の乗車率は3割も乗っていないので誰も座っていないシートも多い。平日だと仕事帰りのホームライナーみたいな使われ方もあるのだろうが幸い今日は土曜日である。夕飯食べた時間帯が早かったのでコンビニオニギリみたいな鱒の寿司を子供と夜食に食べて自分はビールのツマミにした。芦原温泉(21:45)・加賀温泉(21:57)・小松(22:07-08)・松任(22:22)と停車して金沢(22:30-32)に入線。1996年当時、北陸地方の乗車客数が一番多い金沢駅だが下車客も多いので少し増えたくらい。

 

流石に12月最初の土曜日は旅行客も少ないようであるが子供は「また来た金沢駅」と喜んでいるのは11月3連休に往復寝台特急「北陸」利用で金沢へ来ているから。このままの状態が続けば1BOX確保で足を伸ばして寝て行けそうだが富山駅での利用客が多いと分からない状態である。子供が6号車のラウンジ&コンビニエンスカーの様子を見てきて戻ってきたら営業してなかったの事で流石に夜間~深夜~早朝まで営業したら人件費だけでも大赤字になる件を説明。七尾線との乗換駅でもある津幡(22:41-42)を発車して富山県との県境を倶利伽羅峠で越えて石動(22:51)に到着。

 

各停車駅の入線時にはホームに並ぶ乗客もいるのに流石に一番先頭(直江津からは最後尾になる)の端は好まれないのか乗って来る乗客も少なめでお陰で助かる。高岡(23:02-02)・小杉(23:09)と停車して富山(23:18-20)に到着。流石に北陸第二の都市にある駅だけあって乗って来る乗客は多くて最悪BOXにした席を元に戻して放出しないとマズイかなと思ったけど下車する人もそこそこいてBOXにした席をキープする事は出来た。時間が時間なので子供を窓際に足を伸ばした状態で席をリクライニングして僕は通路側に反対向きで同じ様に足を伸ばしてから休む事にしよう。

 

既に列車内は富山発車時点で減光されているが今朝は早起きして特急「白山」の発車1時前から並んでいたので早起きして僕自身も眠い。寝る前にトイレに行った序に8号車から6号車の様子を覗いてみたが、6~7号車の喫煙自由席はそこそこ混雑している。滑川(23:31-32)発車を機に自分も寝る事にしたが以降は就寝中の停車駅と時刻・・・魚津(23:38-39)・黒部(23:44-44)・入善(23:55)・泊(23:58)・糸魚川(0:18-20)・直江津(0:48-53)・高田(1:02)・新井(1:11)・妙高高原(1:29-30)・長野(2:31-32)・上田(2:56-56)・小諸(3:09-10)・軽井沢(3:27-35)・横川(3:59-4:03)・高崎(4:25-31)。

 

因みに豊野駅で約25分の運転停車して西上田~上田で下り急行「能登」とすれ違っている筈だが完全に爆睡してたので全て夢の中だし、横川~軽井沢の碓氷峠も夢の中だったようだ。この区間は往路の特急「白山」で見て感じたからいいや(感じるというのは座屈現象防止のためにDT32/TR69台車の空気バネを無効化させて碓氷峠を走るため、ショックにより乗り心地が悪い事。目が覚めたら熊谷到着まじかだったが、流石に5時では外はまだ暗い。そういえば目が覚めた時に気が付いたのだけど車内の席がそこそこ埋まっているけど直江津か長野で乗って来たのだろうか?

 

熊谷(5:02-03)を発車してもまだ頭は寝ているようで少しウトウトしながら二度寝を楽しんで完全に目が覚めたら北本駅を通過するところで子供に起されたようでもある。子供に赤羽で降りた方が早く家に着けるよと提案しても上野駅で写真を撮りたいらしく赤羽下車は却下されて大宮(5:39-40)へ入線した。下車準備をしながら子供に今回の旅について色々聞き、まだ乗ってみたい列車はあるのかという問いにトワイライトエクスプレスの展望スイートと言われて絶句する。来年か再来年に考えてみるけど展望スイートは無理だと説明しても展望スイートがいいと聞かない。

 

聞かないフリして下車準備をしていると赤羽(5:53)を発車していよいよ上野駅の地平ホームに入るポイントに入って6:05、終着駅でもある上野駅18番線ホームに到着して今回の旅を終えた。

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

寝台特急 北斗星2号(B1)

1996年11月29日(金曜日)、 出張で苫小牧市へ着ており、翌日休日なのと今回の出張日程と予定は早期に日程組んでいたため、「北斗星2号」ソロは東京駅・地下中央口改札に近い「JR北海道プラザ東京支店」に早期予約していた。下り北斗星で森駅や南千歳駅(旧千歳空港駅)で降りた事はあるけど上り北斗星を途中駅から乗車するのは今回が初めてである。昼食は社食の軽めなランチだったのでホームの売店でサーモン寿司(700円)と日高路(600円)とクラシック350ml缶ビールを2本購入して苫小牧駅2番線ホームで待っていると17:47にハイビームの全光状態で入線したので機関車番号は不明未確認。

 

5号車の扉が開いてオハネ25-551に乗り込むと車内の暖房が暖かくて本当に助かるが6番の1階ソロに荷物を置いていると17:48に苫小牧を発車して早々、車掌が登場すると乗車券と特急・B寝台券を確認すると「ご乗車ありがとうございます」と慇懃に挨拶して他の個室へ行ったので日高路(酢でしめた生のシシャモの押し寿司と焼いたハモの焼きアナゴ風の押し寿司セット)でサッポロクラシックビールを飲みながら寛ぐ。車窓は真っ暗で(苫小牧市の日没時刻は16:02)景色は見えないので帰路が飛行機と北斗星との差額を算出してみた。

 

苫小牧~上野間の運賃13,180+特急寝台券9,270=(a22,450円)、苫小牧~新千歳空港運賃1,020+加算運賃140+航空運賃23,850+モノレール460+JR浜松町~東京150=(b25,620円)で差額が3,170円もJR北斗星経由の方が安いとはビックリ(苫小牧~南千歳を特急「北斗」や「スーパー北斗」を使えば更に金額が増える。少なくとも明日の朝食代と北斗星を乗る前に買った苫小牧駅2種の寿司駅弁がチャラになって370円余るのは大きい。なんてセコい計算をしていたら列車は登別(18:40-41)に到着、久々の北斗星ソロ1人旅だが子供と一緒だとデュエットやロイヤル利用が多いので1人単身でのソロは久々。

 

暇なのでロビー室へ遊びに行くとスハネ25-501で一番端(自販機の近く)のソファー区画が空いていたので座っていると隣のご夫婦から「出張ですか?」と声がかかる。フルムーン夫婦グリーンパスというJR全線のグリーン車やB寝台2人用B個室・デュエットが乗り放題切符で和歌山の白浜温泉の旅の途中との事で僕が苫小牧駅ホームで待っているスーツの上にコートを羽織った僕の姿目撃したそうである。列車は東室蘭(18:55-57)を発車して待望の非電化区間へ入るが外は真っ暗、絵鞆半島を結んで工事中であった白鳥大橋の吊橋部分と主塔上部にパイロットランプが点灯しているので車内からでも分かる。

 

隣のご夫婦の話によれば道内最大規模(全長1.38km・海面からの高さ140m)で通行料無料の自動車専用道になるとの由。白浜温泉へ向かうご夫婦と別れて5号車ソロに戻ると列車は黄金~稀府~北舟岡の海岸沿いを走るが8月までなら夕日が列車に当っていい塩梅なのだが流石に11月下旬ではソロの室内灯を全て切っても真っ暗である。日本で一番渚のある海岸から近い駅で有名な北舟岡駅を一瞬に通過して伊達紋別(19:17-17)に到着。苫小牧駅で購入したサーモン寿司がまだ残っているのだがパブタイム行かないならもう少し待って、パブタイムへ行くなら今食べちゃおうかと思案?。

 

結局冷えたビールと一緒にサーモン寿司を食べていたら洞爺(19:30-30)に到着、車内放送ではディナータイム第2回目のオープニング案内が始まったところだったが列車はこの先、風光明媚な海岸が続く、豊浦・大岸・礼文の各駅を通過するけどこの時期は漆黒の闇が支配するだけである。お腹が満たされると眠気が来るのは困るけど今朝は羽田空港7時の飛行機で出張へ行くために朝5時起きだったので長万部(20:01-01)を発車するとパブタイム開始までまだ1時間以上あるため、ベッドに横になったのがいけなかった。すっかり寝てしまい、八雲(20:25-25)・森(20:53-53)・函館(21:40-46)は夢の中である。

 

結局目が覚めたら江差線釜谷泉沢を走行中で"やってもうた状態"で楽しみにしていたパブタイムには参加できずに残念な結果になってしまったが2個目に食べたサーモン寿司とロビー室の自販機で購入したクラシック缶ビールで空腹感はなかった。トイレで用を足して浴衣姿に着替えて個室の照明を落として再び寝に入ったが青函隧道に入ったのは記憶していたけどそのまま吸い込まれるように就寝した様だ。以下は就寝中の停車駅と時刻・・・青森(0:05-13)・八戸*(1:21-21)・盛岡*(2:38-40)・仙台(4:49-51)「*=運転停車」起きたのは藤田駅手前だったが洗顔と歯磨きをしていると福島(5:50-52)に入線した。

 

急いで着替えて6号車ロビー室の7号車よりに並んで暫く待っているとグランシャリオのスタッフが呼んでくれて2人用のテーブルに座って和朝食をオーダーすると列車は郡山(6:31-33)に到着。何とか限定10食?(A個室へのルームサービスがあったので実際は限定7食だったらしい)にありついて別会計のコーヒーも注文して満足。会計を済ませて1号車の車端展望エリアまで牽引機を確認しに行くと田端運転所のEF81-98号機( 🌠ガマ)が車体を揺らしならが懸命に牽いていた。個室に戻ると宇都宮(7:56-58)到着なので荷物の整理をして下車準備を行う。

 

8月に息子と行った北海道旅行でお土産は大量に買ったので今回は苫小牧銘菓の「よいとまけ」と「チーズタルト」のみだが、経費節減である。車内販売のコーヒーを飲みながらマッタリしていると上り北斗星の有名撮影地でもあるクリコガ(栗橋~古河)、ワシクリ(東鷲宮~栗橋)、ヒガハス(東大宮~蓮田)を通過するといよいよ大宮(8:54-56)へ到着した。今回の出張の帰りに乗った「北斗星」だったがパブタイムは寝てしまって参加出来なかったのが心残りだったけど色々と楽しめてよかった。なんて考えていたら列車は荒川を渡って東京都に入り、まもなく終着駅の上野である。

 

赤羽駅くらいから先行電車の860M(伊勢崎発上野行き・高崎線普通電車)が遅延している様で「北斗星2号」も速度が上がらない。結局2分遅れで尾久駅を通過して9:23に終着駅の上野駅14番線ホームに到着。片道850キロを越える夜行列車の旅は1996年最後の旅となった。

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★

寝台特急 北陸(B1)

1996年11月4日(月曜日)、 三連休も今日で終わりだが、現地2泊の能登北陸旅行を終えてレンタカーを返却して夕飯を済ましてから駅で上り寝台特急「北陸」の入線を待っているが翌日は平日なので利用客は少なそうである。21:46頃に西金沢方面から「北陸」が入線すると牽引機は長岡運転所のEF81-127が牽引だった。往路と同じく9号車ソロに乗ると行きと同じスハネ14-758で帰路のソロ個室の割り当ては7番(1階)、9番(1階)、10番(2階)、を押さえる事が出来て7番は自分、9番は子供、10番は嫁が乗る事に決まり、部屋に荷物を置いて下りで使ったカードキーで施錠してから息子と先頭へ歩く。

 

長岡運転所のEF81-127はヒサシがないタイプだったが「北陸」のヘッドマークはEF81にもEF64にも似合うようなデザインだと思う。機関車バックで子供を入れて撮影してから9号車へ戻り、買物を終えた嫁と合流して取りあえず9号車7番に3人集まって旅のフィナーレを記念して好みの飲み物とお菓子で談笑タイム。僕は能登牛のビーフジャーキーで缶ビールを飲み、嫁と子供は加賀あんころ餅に緑茶やジュースといった感じで楽しんでいると寝台特急「北陸」は定刻22:08、金沢駅を静かに離れた。明日は僕は仕事だし、子供は学校があるので今夜は早めに終了解散した。

 

飲食はしないので洗面所で歯磨きしていたら列車は津幡(22:18-19)に到着、帰りに息子の部屋によって明日は学校登校日だから今夜は早く寝るんだよと忠告したけど早く寝たら来年早々に特急「白山」フル乗車の旅を餌に言い聞かせた。深夜の倶利伽羅峠を越えて石川県から富山県へ入った頃に7番個室に戻って備え付けの浴衣に着替えて寛いでいると高岡(22:42-43)に到着して数名を乗せて寝台特急「北陸」は上野駅を目指しながら北陸第2の都市である富山(22:58-58)に到着。そろそろ時間なので寝る体制でベッドに横になりながら乗車している車両の事を考えながら寝たようである。

 

因みに乗車してるスハネ14-758の前身であるオハネ14-99は1972年7月に製造されて品川客車区へ配属後は「さくら」「みずほ」「あさかぜ」運用に入って、1975年3月に早岐客貨車区へ転属後3月14日から「あかつき」「明星」「日本海」の運用に入って南は熊本まで、北は青森までのロングラン運用に就くが1978年10月2日から尾久客車区へ転属して「北陸」「北星」「ゆうづる」の運用に入り、1982年11月からは急行「妙高」、1984年2月からは急行「津軽」そして1985年4月から急行「能登」の運用にまで入って1990年4月20日に北陸ソロへ改造されるまで華麗なる転配歴がある車両であった。

 

就寝中の停車駅と時刻[* は運転停車富山駅(22:58-58)・魚津駅(23:17-18)・糸魚川駅(23:57-58)・直江津(0:27-30)・長岡駅*(1:30-2:06)・越後湯沢駅*(3:05-09)・水上駅*(3:48-50)・高崎駅(4:44-46)・大宮駅(5:53-54)。目が覚めると大宮駅に停車していたので子供の部屋と嫁の部屋をノックして「次上野駅だよ」の伝言をしてから1号車まで急いで車内を歩いて牽引機を確認しに行くと長岡運転所のEF64-1053が、大きな車体を揺らしながら14系寝台車を牽いている姿を確認。急いで戻り、洗面と歯磨きを済ませて下車準備が終ると既に東十条駅を通過。

 

嫁はグッスリと寝たようだが子供は夜更かしした様で眠たそうだが学校の授業中に寝ないとよいのだが10歳(小学生4年生)になれば親がグチグチ文句言っても始まらず、自分で己を管理する能力を備えて欲しいものである。尾久駅を通過する頃には7番個室に全員揃うと寝台特急「北陸」は1分遅延した6:20に終着駅でもある上野駅14番線ホームに入線した。機関車確認は終っているので先頭までは行かずにエスカレーターで大連絡橋から2番線へ移動して京浜東北線北行電車で田端まで乗って帰宅後にシャワー後着替えて自分は職場へ向かった。

 

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

寝台特急 北陸(B1)

1996年11月1日(金曜日)、 11月の3連休前夜に上野駅15番線ホームで我ら家族3名は寝台特急「北陸」の入線を待っていた。昨年の12月3連休は同じ様に「北陸」のソロで金沢旅行へ行ったので今年は京都に行きたいと嫁からの要望があったが往復B個室3部屋で金沢以外なら北陸地方でもいいとの事。往復の「北陸」ソロ3部屋は9号車指定で10時打ちしてもらったら簡単に取れてしまったので決定だ。今回は下り「北陸」ソロは9号車3番(1階)、5番(2階)、6番(1階)で個室が取れているので乗車前にジャンケンで嫁と子供が1階か2階のソロを選んでもらい、自分が3番、子供5番、嫁6番と決まった。

 

家族3人で寝台特急「北陸」の入線を待ち兼ねていると突然「業務連絡、トーゴバン(15番)回送3011列車接近」の業務連絡の後に一般旅客用の入線案内に切り替り、22:46頃に尾久駅方のカーブから推進運転用の簡易ライトを灯らしたスハネフ14のサービス電源発電用のディーゼルエンジンを響かせて入線。扉が開くと9号車(尾久客車区のスハネ14-758)に乗車して発車まで15分しかないので急いで子供と牽引機を確認しに行くと長岡運転所のEF64-1032であった。買出しに行った嫁と合流して乗車口で記念写真を撮影(シャッターを押したのは駅員氏)して取りあえず僕の個室9号車3番ソロに集結して発車と同時に乾杯をする。

 

ソロ個室に入って嫁と子供は開口一番に「あけぼのソロは狭くて地獄だった」と口々に言われて、個室の扉を開けておいたら横を通った乗客がニヤニヤしてたからあけぼのソロが狭い事を知ってる鉄道ファンなのだろう。上野駅を23:03に発車したので僕は缶ビール、嫁は烏龍茶、子供はジュースで乾杯しながらお菓子をつまんでいると車掌が登場したので3人分の特急寝台個室券とレール&レンタカーで割引の乗車券を呈示して纏めて個室カードキーを3枚もらって家族に配る。家族で談笑していると列車は大宮(23:28-30)に到着したら今宵の宴も終了で解散して各自自分の個室に戻った。

 

すでに時刻は23時半を回り明日は車の運転もするので早めに就寝する事にしよう!以下は就寝中の停車駅と時刻・・・高崎駅(0:28-30)・水上駅*(1:21-23)・長岡駅*(2:46-3:10)・直江津駅*(4:06-08)・糸魚川駅(4:37-37)・魚津駅(5:16-16)・富山(5:36-38)・高岡(554-54)「*が付く駅は運転停車」。目が覚めるとちょうど高岡駅へ停車中だったけど始発駅を23時過ぎに発車して終着駅へ早朝6:30に到着する寝台特急はどうしても寝不足気味で卓上目覚まし時計がなる約5分前に自然に目が覚めたけどやはり7時間は寝ないとツライ様である(毎回「北陸」に乗るとそう思う)。

 

子供と嫁の部屋へ行って起こしに行くと子供はノック1回で反応があったけど朝に弱い嫁は扉ノック4回でやっと反応があり僕と息子は車端にある洗面所を親子で使って歯を磨いたり洗面していると子供も眠たそうだ。子供は高崎まで起きていて深夜に目覚めたら長岡駅運転停車していたので反対側の1号車端にある貫通扉の窓からEF81-150だったそうである。戻る途中に3号車の自動販売機でジュースを買って2号車のシャワー室前のミニロビーで飲んで満足した由。深夜の車内探検も結構だが母親に知れたら起こられるから黙っておけよと釘を刺しておいたが困ったものだ。

 

今回乗車しているスハネ14-758は始めて当った車両で北陸のソロは数え切れないくらい乗っているのに初めての乗車、オハネ14-99からの改造だが通常は予備車になっているのであろうか?。外はすっかり明るくなり、日の出を迎えて嫁が眠い目を擦りながら来た時にちょうど列車は津幡駅(6:17-18)へ停車するといよいよ次が終着駅の金沢駅だ。車窓右手に金沢運転所のヤードが見えて来ると昨夜子供が「コンビニエンスに乗りたい」と意味不明な事を言っていた意味が分かった。金沢運転所に停車中の白山色489系を見てピーンと来たのだが「白山」のラウンジ&コンビニエンスカーの事である。

 

その代わり帰路は急行「能登」の自由席だよと答えていると列車は6:30に終着駅の金沢駅へ到着した。先頭のEF81-150の前で家族3名にて記念撮影(またしても駅員にシャッターを押してもらった)して北陸の回送を見送ったがヒサシ付きのEF81は恰好いい。近江町市場へ移動して朝7時から営業している海鮮の店で海鮮丼食べてから駅へ戻ってからレンタカーを借りて能登半島方面に向かった。

 

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寝台特急 瀬戸(B寝台)

1996年10月29日(水曜日)、 東京駅9番線ホームで寝台特急「瀬戸」高松行きの入線を待っていた。高松ならANA631便(羽田7:50⇒9:00高松)で何とか朝一番で到着出来るけど高松空港から高松市内中心部までタクシーで30分、バスで45分かかるため、最短到着が9:35~9:40くらいになるので飛行機始発便では間に合わず、寝台特急「瀬戸」を使う事になった。瀬戸の時間帯だと既に駅弁は売り切れている可能性もあるので20時まで残業して職場近くの中華料理屋で夕飯を済まして駅へ向かう。特急・B寝台券は禁煙車の車両中ほどの下段を希望すると7号車12番下段で発券してもらい、改札を入る。

 

東京駅9番線ホームに上がり、「瀬戸」7号車の乗車目標に並ぶと田端運転所(品川運転所常駐)のEF65-1111(実際は「出雲3号」の牽引機になる)が20:46に「瀬戸」の客車を牽引して入線。すぐに扉が開き、7号車のオハネフ25-137に乗り込んで指定された下段寝台に鞄を置いて1号車まで歩くと普段は田端常駐のEF65-1029が「瀬戸」のマークを付けて連結されていた。田端運転所・A61仕業で以前は上野発着の旅客列車には田端常駐組を、東京発着の寝台列車(瀬戸・出雲1.2.3.4号・銀河)は品川運転所常駐組に分けて使用していたが現在では上野発着のPF牽引定期列車は消滅したので区別してない様である。

 

EF65-1029はパンタグラフ下枠交差式でない大きなパンタで尾灯の上に通風孔があってスノウプラウが装備されたPFらしいPFで赤い出雲のマークが似合っていた。A61は高松まで行って上り「瀬戸」で戻って来る運用なので10月31日には戻ってくるため、これは早起きしてでも仕事行く前に浜松町~田町周辺で撮影しようと考えていたら「瀬戸」発車5分前なのでホーム売店で飲み物などを購入して車内に戻った。下りの「瀬戸」乗車は約3年前の1993年以来だと記憶するが、久々の下り「瀬戸」に乗ってニンマリしていると東京駅を21:00に発車。何回東京~浜松町をブルートレインに乗ってもやはり通勤電車から見る景色とは違って見える。

 

缶ビールを飲みながら都会のオフィスビルの夜景を見て過ごしていると車掌が来て特急寝台券と乗車券を呈示して早いけど浴衣姿に着替えてから缶ビール2本目に移行した。多摩川を渡って川崎を一瞬に通過すると約8分で横浜(21:23-24)に到着した。自分が始めて乗った(1977年10月)ブルートレインが「瀬戸」なのであれから19年の月日が経過しているし、やはり「瀬戸」という列車に対して想いが無いといえば嘘になる。当時の「瀬戸」は東京19:25発の宇野6:03着で時間帯も違うし、宇野から宇高連絡船5便に接続して日本一朝早く終着駅に到着するブルートレインだった。

 

ブルートレイン独特の旅情というか浪漫を楽しみながら初めて「瀬戸」に乗った1977年10月の事を思い出しながら約19年前をフラッシュバックしてあの頃が一番楽しかったし、夜行列車の本数も多くて夜行列車旅も充実していた。19年間で東海道本線を走るブルートレインで消えたのは「安芸」「紀伊」「いなば」「みずほ」「あさかぜ1・4号」の5系統と電車寝台の「金星」だけだが・・・なんて考えていたら小田原駅を通過。仕事での出張移動なのに頭の中はすっかり鉄道趣味100%しちゃって楽しんでいるが、まぁいつもの事である。いつもの玉川橋梁(早川~根府川)と白糸川橋梁(根府川~真鶴)を通過したのを確認してから就寝。

 

就寝中の停車駅と時刻は以下参照・・・熱海(22:24-26)・富士(22:56-57)・静岡(23:23-25)・浜松(0:22-24)・名古屋*(1:39-42)・米原*(2:41-42)・大阪*(4:05-08)・姫路(5:19-21)・「*印は運転停車で運転士交代と荷物扱いの停車」。昨夜は熱海到着前に寝てしまったので自然と岡山到着前に目が覚めたが喉がカラカラなので岡山駅(6:28-30)での2分停車を利用して「ジョージア・ゾット」という甘くないビターテイストの190g缶をホーム自販機で購入。岡山を発車して宇野線に入り、本四備讃線に乗り入れると児島(6:52-54)に停車して瀬戸自動車道の横を走り、鷲羽山トンネルに入ってトンネルを出ると上が高速道路で下がJRの瀬戸大橋にかかる。

 

車窓下に田ノ浦漁港が見えるといよいよ瀬戸内海を渡り始めるが、瀬戸大橋は途中、櫃石島、岩黒島、羽佐島、与島、三つ子島、無人島を含む大小五つ島を経由するが田ノ浦漁港と櫃石島の間に岡山県倉敷市下津井と香川県坂出市櫃石の境があって櫃石島香川県なのである。キラキラと眩い朝の瀬戸内海の海が光って見えるが、瀬戸大橋の全長は12,300m(海峡部9,367m)なので高速運転をしている寝台特急「瀬戸」からだと思ったより短く感じた。列車は四国の地上に近付き、瀬戸大橋記念公園の瀬戸大橋タワーが見えてくると四国に上陸して瀬戸大橋線から予土線丸亀駅方面と予土線坂出駅方面に分かれる三角デルタ線を通過。

 

進行方向右手に富士山みたいな山(讃岐富士「飯野山」)が見えて来ると寝台特急「瀬戸」は四国に入って最初の停車駅でもある坂出(7:14-16)に到着した。自分もそろそろ下車準備を行っていると列車は進行方向右に高松運転所が見えて高徳線の線路が近付いて寝台特急「瀬戸」は定時7:35、高松駅へ滑り込んだ。時間があるので駅構内の讃岐うどん屋で釜揚げを食べてからタクシーで出張先へ行く。さて本文上から11行目にも書いてあるように翌日はいつもの出勤時刻より大幅に早く自宅を出て大森~大井町のフェンスが低い公園横よりEF65-1029牽引の上り「瀬戸」を無事に撮影してから職場へ向かったのは言うまでもない。

 

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★