夜行列車の想い出

現在ではサンライズ以外廃止になった定期夜行列車だけど過去の夜行列車・想い出乗車レポートと夜行列車に纏わる懐かしい夜行列車ブログです(1975年以降から)

寝台特急 北斗星1号(B2)

勤務先会社から勤続15周年で頂き、1995年4月に付与された褒章休暇の期限が1996年9月30日で失効してしまうため、家族会議で決めるが最終的に子供と2人旅で北海道へ行く事に決定した。繁忙期は混雑するのと使用する北海道フリーきっぷが使えないため、褒章休暇5日間に前後の土曜日・日曜日をフルに使った最長9連休にて出発日は8月24日に決めた。道内移動の夜行列車はB寝台を使いたいのでグリーン車用を使用して少しでも経費節減するために都区内~中小国の乗車券は株主優待券で購入。子供用は半額の子供キップで発券してもらった。6夜行(B寝台)2地上泊の強行軍だけど息子も小学校4年生になるからハードな行程も何とかなるだろう。

 

1996年8月24日(土曜日)、 上野駅13番線ホームで「北斗星1号」の4号車乗車位置付近で子供と入線を待っていると回送1レ入線の前に家内が見送りにやってきた。1995年7月18日の「北斗星1号」乗車でロビー室にて子供が一瞬消えた事件があった事は男の約束として嫁は知らないけど嫁は子供に注意点を噛んで言い含めていたら「北斗星1号」の推進回送が入線した。早速デュエット4号車のオハネ25-561に乗車して5番個室に入って荷物だけ置いて機関車番号をチェック(田端運転所のEF81-93)してから4号車へ戻ると嫁が購入した飲み物が置いてあった。今回も息子と2人旅で何で母親が一緒に来ない理由はもう少し大きくなると分かるに違いない(夫婦不仲な訳じゃないよ)。

 

家内の見送りを受けた寝台特急北斗星1号」は16:50に上野駅を発車して札幌向けて進むと青森運輸区の担当車掌の案内放送が聞こえてきた。車掌が来てキップや指定券を渡して車掌が帰ると夕飯には早いが昼食は軽くしか食べてないので親子で上野駅で購入したチキン弁当を食べたが僕は缶ビールのツマミにとして美味しく頂いた。そういえば下り「北斗星」乗車も久々で1995年7月28日以来、約1年振りである。大宮駅(17:15-16)を発車すると個室で出たゴミ捨てを兼ねてシャワー予約の時間が近づいてきたので息子を連れて6号車のロビー室に向かう。

 

今回は2人とも同じ時間帯でシャワーが予約できたので先に出たら近くで待ってるように指示したがシャワー室から出ると息子が先に出て今回は待っていたので助かったが前回は本当に肝を冷やしたものであった。シャワーを出てロビーで冷たい飲み物(僕は缶ビール)を飲みながら暫く滞在してから4号車に戻ると「北斗星1号」は宇都宮(18:11-12)へ到着するところであった。前回の教訓を生かし、最悪のケースを想定して都区内⇔中小国往復乗車券・北海道フリーきっぷ・指定券と寝台券をファスナー付きのソフトクリアケースに入れて首からぶら下げた。

 

父親と母親の連盟で自宅の℡番号と僕の携帯番号を書いた用紙に旅行程と宿泊先の名称と℡番号を印刷した用紙も折って入れてテレホンカード105度数も同封。もし父と逸れてしまったら直ちに公衆電話を見つけて僕の携帯に電話するか予定表の列車で目的地へ行けば必ず会える事も付け加えておいたが特急列車には公衆電話がある事も教えて緊急事態になったら警察か駅の駅員に見せる用紙(子供の身分保障と迷子になってしまったら宜しくご手配お願いします・・・云々他)もPCで作成してソフトクリアケースに入れておいた。時刻表は一般人以上に精通してるので弘済出版社の道内時刻表(現交通新聞社の北海道時刻表)を子供のリュックサックへ入れておいた。

 

郡山(19:33-34)を発車すると子供が、そわそわし始めたので聞いてみるとパブタイムへ行く気満々らしいのでまだ時間的に早いけど6号車ロビー室の7号車よりの椅子に座って待つが夏のお盆シーズンを終えて乗車している「北斗星1号」も一部のB個室やA個室にも空があるようで週末発の下りとはいえ、ディナータイムの予約が少なくてロビー室を利用する乗客もいつもよりは少ないようである。福島(20:08-10)を発車して暫くすると第二回目のディナー利用客の少ない事、息子が探索しに行ったら8名もいなかったらしい。確かに8月の最終週末に移動しているので客が少ないのは当たり前なのかも??。

 

4号車のデュエットも10時打ち2ヶ所で4番(2階部屋)と5番(1階部屋)が続けて取れてるし運が良かった?のかも知れない。いつもより早い20:55に呼ばれて案内されて21時のパブタイムオープニング放送が始まっても軽く席が埋まった程度だったが聞くと第二部のディナータイムは7名で殆どが懐石御膳だったとの事である。息子にはケーキセットを勧めたがハンバーグステーキセット(スープ・フルーツサラダ・ライス付き)がいいと聞かないのでOKして僕はもう少し飲みたいのでウィスキーミニチュアボトルにソーセージ盛り合せとピザ他を頼むと列車は仙台(21:11-13)に到着。

 

子供はソーセージやピザにも手を出して僕はハンバーグを盗みにいったりして親子でアホな事していると息子は楽しそうだ。僕が残業で帰宅が遅い時は家内と2人で夕飯を食べている子供は母親といつも何を話しているのか気になるけど旅先ではヤボになるのでやめておこう・・・僕も子供も鉄道が好きという線で繋がった親子以上の関係だから今が楽しければいいや。グランシャリオには1時間くらい滞在して会計を済まして4号車5番の我家に戻り、寝具を並べていると「北斗星1号」は一ノ関(22:20-20)に到着、早いものでもう岩手県である。

 

明日は和朝食狙いの6時起床なので早めに寝て明日に備えるが部屋を暗くして子供と話すがどちらが先に寝たのか分からないくらいにお互いに早く寝てしまったらしい。以降は就寝中の停車駅と時刻・・・盛岡(23:30-32)・八戸*(0:52-53)・青森*(2:03-11)・函館(4:24-32)・森(5:17-17)・八雲(5:43-43)「*印は運転停車」。目が覚めたら落部野田生の内浦湾(噴火湾)沿いに進むカーブ区間に列車はかかっており、子供は窓ガラスにヘバリついて車窓を眺めていた。寝た時間は遅い筈なのに僕より早起きってやっぱりこの旅が楽しみみたいで自分も嬉しい。

 

トイレと洗面&歯磨き中に長万部(6:07-08)に到着、朝の支度を終えて着替えてから6:20にロビーカーのグランシャリオ側へ行くとまだ待ってる人が居なくて一番で呼ばれて2人用のテーブルをキープしてから和風朝食をオーダーする。暖かいお茶を飲みながら待っていると重箱に入った朝食が運ばれて来たので早速頂くとグランシャリオの和風朝食は安定の美味しさで内容はコンパクトにした日本旅館の朝ごはんだ。列車は食べている最中に洞爺(6:38-38)と伊達紋別(6:49-50)に停車して僕だけコーヒーを別注文して飲み終わってから会計を済ましたが息子が飲み物を注文しなかったのには意図があった。

 

4号車の我がデュエット部屋に戻るとすぐに車内販売が来ると息子の「アイス買ってー」の声が・・・だから遠慮してグランシャリオで食後の飲み物は注文しなかったのである。東室蘭(7:09-11)を発車するとバニラアイスクリームを美味しそうに食べている息子を横目に見ながら下車準備だけしておく。北斗星の旅も道内は電化区間に入るとイマイチだが登別(7:27-27)を発車すると富浦駅周辺と竹浦周辺の海岸に社台ファーム樽前山くらいしか楽しみがない。やがて「北斗星1号」は自分たちの下車駅でもある苫小牧(7:57-58)に到着。

 

本日は息子の希望である日高線(苫小牧8:21「2225D」11:30様似12:14「2232D」15:24苫小牧)に乗るため昼食用(日高線内では食料調達困難なので)のサーモン寿司700円と息子用にえぞ寿司650円を購入して日高線乗り場に消えた。僕が日高線に始めて乗ったのは1977年で当時は急行色のキハ22だったけど久々の日高線乗車が楽しみである。

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

1975年の時刻表から・・・東海道夜行①

先週に引続き、2週連続(またかよ、こいつ懲りねえなぁって思われているでしょうね)で同じ様なネタだと鮮度は落ちますが「1975年の時刻表から」に類似したネタは暫くお休みして来週からは1996年8月付近の"想い出夜行列車レポート"に戻りたいと思います。今回は1975年3月号の時刻表を使った東京発着、東海道線山陽本線方面他の夜行列車を解説してゆきましょう。

 

最初は東京発着の夜行列車で発車時刻などがJNRからJRに変わった1987年と違いますが編成や客車に牽引機以外は大差ありません。なお1975年3月10日時点でのご案内となります。それでは一番上の画像(「さくら」から「あさかぜ2号」まで)を見ると一番最初の発車は栄光の1列車こと、「さくら」から始まります。この時間帯は東京駅の帰宅ラッシュ時間前だったので入線時刻が発車37分前という早期の入線は栄光の1列車に貫禄を感じてなりません。客車は14系14形寝台車で運転されていましたが東京~横浜間・所要29分は前に横須賀線が走ったのが原因。

 

続いて2番手の「はやぶさ」は1975年3月10日に20系から24系24形に変わっていますが当初「はやぶさ」の付属編成は長崎編成でしたが1975年3月10日から熊本編成に変更になっています。今では東北新幹線新青森新函館北斗を結ぶ新幹線の名称に(「さくら」や「みずほ」は九州新幹線などで使用)使われているけど当時としては信じられなかった。3番目に東京駅を発車する「みずほ」は「さくら」と共通運用のため、同時期に14系寝台車化されているけど1968年10月現在では全編成熊本行きでした。しかし1975年3月10日から付属編成が長崎編成へ変更になって「さくら」と「はやぶさ」の補完的役割になって人気は今ひとつだった。

 

東京発の夜行列車4番目は日本一の走行距離と走行時間だった「富士」、24時間以上の運転時間を要した「富士」は鉄道ファンからの憧れでしたが開放A寝台(プルマン式とも言われた)と三段式B寝台に食堂車だけの編成だったけど当時から乗りたくてたまらないブルートレインだった。客車は「はやぶさ」と同じく、1975年3月10日から24系24形に変わり3段寝台だけど待望の70㎝幅ベッドの新型投入だった。長年東京発着の寝台特急は「さくら」が1列車を名乗り、後に「はやぶさ」が1列車を名乗ったが1993年3月に「富士」が1列車を使うようになった。朝日を浴びて富士のヘッドマークを付けたEF65Pが何とも恰好よく感じた1975年。

 

さてお次は列車番号が2001レまで飛ぶ「出雲」ですが客車は「はやぶさ」「富士」と同じく、1975年3月10日に20系から24系24形へ変更になっています。ここまで読むと1975年3月10日ダイヤ改正は東京発着ブルートレイン(一部除く)にとって一大エポックになっていますが全てが新車投入とは限りません。「さくら」「みずほ」他の14系14形寝台車は「あかつき」などのお古ですし、24系24形も向日町運転所時代に「あかつき」「彗星」などで使われたお古が品川客車区へ転属しただけなのです。話を「出雲」へ戻し、当時指定券が取りづらいブルートレインナンバー1がこの「出雲」だった。

 

続いて9列車は元祖ブルートレインの「あさかぜ1号」、あさかぜはそもそも3往復走ってたが1975年3月10日ダイヤ改正で11列車と12列車が臨時化(あさかぜ51号)されて9レと10レが博多行きの1号、13レと14レが2号に集約される。「あさかぜ1号」はまだ20系だったけど寝台特急で唯一のA寝台個室(ルーメット)を連結していたのが元祖ブルートレインの風格を感じるけど、約3年後の1978年2月1日から24系25形に変更されている。次は元11列車こと、8011列車の臨時「あさかぜ51号」。

 

1975年3月当時は臨時なのに食堂車も連結されており、車両は14系14形(14両編成)を使用して寝台は全車B寝台のモノクラスだけど1976年8月7日から運転された臨時8011列車と8012列車(あさかぜ51号)の夏臨は24系25型(12両)で運転され、東京駅・発着寝台特急では初の24系25形登場となる。しかし一番驚いたのは臨時列車なのに食堂車が連結されて営業している事だ。続きまして13列車こと「あさかぜ2号」であるが通称"博多あさかぜ"に対して13レは”下関あさかぜ”と呼ばれ、編成はA寝台・B寝台・食堂車の20系。

 

しかし1977年9月25日に24系25形が投入されるがA寝台と食堂車は廃止になった。臨時になったけど「あさかぜ」3往復時代の面影が残されていると思ったのは私だけではないだろう。下の画像【資料B】へ移動して15列車の「瀬戸」から・・・当時の東京発着寝台特急で一番走行区間が短かったのが「瀬戸」で宇野着が6:00なので日本一早起きな寝台特急とも言われた。車両は20系15両でA寝台とB寝台を連結していたが1977年9月26日から24系25形に変わってオールB寝台のモノクロスに変わる。宇野からは宇高連絡船に接続して高松からは特急「しおかぜ」「南風」に接続していた。

 

東京発着寝台特急ラストは2003列車の「いなば」+「紀伊」、「いなば」+「紀伊」は基本編成8両が「いなば」で、付属編成6両が「紀伊」として1975年3月10日現在は14系14形寝台車で運用されて「さくら」や「みずほ」と共通運用を組んでた理由により、食堂車は連結されていた。因みにA寝台は米子行きの「いなば」に連結。一方「紀伊」は紀勢線紀伊勝浦まで運転して名古屋駅で「いなば」を別れると名古屋~紀伊勝浦間は4003レ・4004レに列車番号が変わって紀勢線はDF50が牽引。東京発着の寝台特急は東京機関区のEF65Pがヘッドマークを付けて運行していたが「いなば」+「紀伊」だけはマークなしの浜松機関区のEF58が牽引して異色を放っていた。因みに車両は「あさかぜ」で使わなくなった14系14形を使用。

 

寝台特急が終り、次は季節列車の夜行急行6101列車「銀河51号」。1975年3月時点で全車座席指定の自由席がない夜行急行で使用客車は12系座席車を使用(14系座席車に変わったのは1976年10月1日から)していたが当時から品川客車区には12系座席車の配置が無いため(後にジョイフルトレインの12系ロ・ロフ6B「江戸」が配備)、大阪基点の「銀河51号」だと大ミハや天リウの12系座席車が、東京基点の運用だと北オクの12系座席車を使っていたけど繁忙期は高シマや静ヌマの12系座席車を使い、牽引機は大阪基点だと宮原機関区のEF58が、東京基点だと東京機関区のEF58が運用に入っていた。

 

続いて103列車は急行「銀河」だが当時は10系A寝台とB寝台車に指定席2両の旧型客車を連ねた編成で宮原機関区のEF58が牽いていた。20系が投入されたのは1976年2月20日の事で寝台特急「つるぎ」の20系が余剰になって「銀河」に回ってきた。座席車(指定席のみ)を連結している関係上、深夜未明の静岡・浜松・豊橋・名古屋などにも停車していたが上りは横浜駅であさかぜ1号に抜かれた。さーて来ました大垣夜行の347M、入線時刻が22:46、発車時刻が23:28なので42分前に乗車出来るのかと勘違いしないでほしい。

 

実は静岡駅を19:23に出た普通電車の340M(どこかで見たような列車番号)が東京駅に22:26に到着すると一旦乗客を降ろして車内清掃とサボ交換をしてから乗客を乗せるので実際の乗車時刻は発車20分前くらいである。編成は大垣電車区の153系と155系で組成してあり、1号車に165系が使われている時もあったようだが当時は非冷房の車両も一部あって車両は急行「東海」3往復と東京⇔静岡を結ぶ3往復の普通列車を共通運用で使っており、なお1号車の前にクモユニ74やクモユ141など郵便荷物車を2両連結していた。サロ163の窓下には白いラインが入っており格好よかった。

 

ラストは東京駅を日付変更直前(23:59)に発車する臨時夜行急行「銀河52号」、51号は6000番台の季節列車だけど52号は9000番台の臨時列車になってる。京都止まりの52号は上りの設定がなく、実車を見ていないため使用客車が不明なのだが旧客か12系を使っていたのだと思われる。51号は翌日52号で戻って来るけど当時は52号の戻りスジ(返却回送)が分からずに1975年現在では詳細不明になっている。以上で終るが最後に乗客が乗れない急行荷物列車の夜行列車を軽く紹介したい。汐留9:30発の急行荷物列車「荷31列車」の西鹿児島到着は翌日18:40の到着で約33時間を要していた。

 

次週からは1996年8月乗車分の想い出夜行列車レポートに戻りますが忘れた頃に「1975年の時刻表から」を行うかも知れない。

       ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

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1975年の時刻表から・・・北海道連絡

今までこのブログでは夜行列車に実際乗車したレポートを「想い出夜行列車レポート」としてメインコンテンツにしてきたが65~70%くらいは発表してきた(過去のyahooブログやエクサイトブログ含む)。もっと皆さんにお伝えしたい事はあるのだが乗車自体以外にも視点を変えて紹介出来ないかなと思い、時刻表や駅から見た(感じた)夜行列車を題材に考えてる。"想い出夜行列車レポート"も2021年11月現在で約70%のネタを使ってしまい毎週1回のブログアップでは流石に先が見えて来るので別の企画も取り込んで行きたいと思っている次第。

 

今回は1975年3月号の日本交通公社国鉄監修時刻表をテーマに上野駅と対北海道への夜行列車もしくは青函連絡船深夜便を含んだ連絡状況を再現してみたい。1975年といえば今から46年前で生まれていない方もいるだろうと思い当時の物価を述べる。1975年3月号の時刻表は山陽新幹線の岡山~博多の開業が一番大きなニュースであった。当時の交通公社大型時刻表の価格は400円、当時の国鉄初乗り運賃は30円で東京~西鹿児島間の乗車券が何と5,310円。寝台料金に至っては客車3段寝台が上段1,300円・下段1,400円、客車2段寝台が上下段1,900円、A寝台個室は6,400円という信じられない安さ。

 

それでは東京から北海道方面の下り64ページを分けた資料AとBを参考にして話を進めましょう。1975年3月当時は特急「はつかり」「みちのく」は全車指定席で一部が盛岡から2両のみ自由席になったり、夜行急行では「八甲田」「十和田2号」、それに資料Aでは見えないけど「十和田3号」がゴールデンウィーク連休の前夜となる4/26と5/2のみ自由席を連結しない全車指定席となったのは時代の風潮(道内特急も全車指定席)だと思われる。さて北海道方面第1群の「はつかり1・2・3号」は青森から青函航路25便か27便で函館に到着すると札幌方面は函館23:40発の夜行急行「すずらん4号」しかなくて札幌駅に6:10到着。

 

札幌から網走方面は特急「オホーツク1号」で網走着が12:43、釧路方面は急行「狩勝1号」だと釧路着が13:43。北海道接続第2群は特急「はつかり4・5号」「みちのく」だと青森から青函航路11便か1便経由で函館からは「おおぞら1号」だと釧路着が14:52、網走方面だと「北海」で網走着が15:19。更にその後の急行「ニセコ1号」だと札幌接続で急行「天北」なら稚内に17:18到着、同じく「ニセコ1号」札幌接続で函館線・石北線・網走・釧網線経由の急行大雪では釧路が19:47着となり、9時間32分の乗車だが11時間弱乗車の急行「宗谷」には叶わない。

 

北海道接続第3群に入るがここからが夜行列車ファンにとって佳境となる。最初はいきなりの寝台特急登場であるが583系で運用した「ゆうづる1・2号」は青函航路3便に接続して函館からは「おおぞら2号」で釧路に19:37到着。北海道接続第4群は「八甲田」・「ゆうづる3号」「はくつる」だと青函航路臨時35便か5便接続にて「おおぞら3号」「おおとり」「宗谷」接続で釧路21:42着、網走21:46着、稚内22:45着。なお「ゆうづる3号」(上りゆうづる7号含む)は全車指定席になっているが583系寝台組立要員不足からの策で1976年3月には寝台車での運転へ復帰している。

 

早いもので北海道接続第5群である。急行「十和田1・2号」、ここから20系「ゆうづる4号(21:50⇒8:49)」「ゆうづる5号(22:10⇒9:25)」は青函航路7便(9:50⇒13:40接続するも札幌直通の特急や急行の接続無しになっている(印刷ミスか?)。更に北海道接続第6群は「ゆうづる6号(23:00⇒9:50)」「ゆうづる7号(23:05⇒9:55)」は青函航路17便(10:15⇒14:04)へ接続。函館からは「北斗2号(14:25⇒18:32)」か「ニセコ2号(14:30⇒1958)」で札幌方面へ行けた。時刻表拡大コピーで資料A+Bではゆうづる4号接続から見れないので時刻を追記しているけど道北や道東方面へは怒涛の2夜行連続となる北海道接続第7群へ続く。

 

上野発北海道方面接続列車のオーラスとなるのは上野23:21発の急行「十和田3号」で青森着が翌日11:40、青函航路21便(12:05⇒15:55)からだと16:15発特急「北斗3号」で札幌到着が20:28。ここから先は夜行列車しかなく、急行「利尻(札幌21:20⇒6:25稚内)」・「狩勝4号(札幌21:30⇒6:15釧路)」・「大雪5号(札幌22:15⇒網走)」と連絡になるが果たして急行「十和田3号」から乗り継いで札幌から夜行急行「利尻」.「狩勝」.「大雪」へ乗り継いで2連続夜行列車の旅をした者が何人くらい居たのか気になるところである?。「十和田3号」は青森行きだけど途中、一ノ関7:02・盛岡8:30・八戸10:21なので大半の乗客は宮城県岩手県で下車したのだと思う。

 

当時は下り列車も上り列車も関係なく○○1号、2号、3号を番号を振っていますが列車番号と連絡船の便名(便数)は下りは奇数、上りは偶数になっているけど1978年の白紙ダイヤ改正(ゴーサントオ)から列車名の号も下りは奇数、上りは偶数へ改善されています。因みに1975年当時の道内における電車の優等列車は「かむい」「さちかぜ」のみで何れも711系で運転されていた。当時の道内特急は「北斗」(函館⇔札幌)2往復、「北海」(函館⇔旭川「臨時で網走まで延長」)1往復、「おおぞら」(函館⇔釧路「旭川編成あり」)3往復、「オホーツク」(札幌⇔網走)1往復、「おおとり」(函館⇔網走)1往復。

ゆうづる4号接続以降も無理やり画像UPしました』

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★

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急行 銀河(20系・B寝台)

1979年5月1日(火曜日)、 僕とM君は大阪駅10番線ホームで急行「銀河」を待っていた。時刻表を見ると急行「アルペン」(9517レ)が発車すると急行「銀河」が入線するのだが急行「アルペン」富山行きが発車するとすぐに宮原から続く北方貨物線経由で塚本駅方から宮原機関区のEF58-126号機に牽かれて急行「銀河」(104レ)が入線。先ほどまで9番線に停車していた22:46発の急行荷物列車(荷32レ)汐留行きが先に発車したが最終的に銀河が荷32レを抜く事になる。早速11号車のナハネフ22-15(大ミハ)に乗り込み人生初経験の20系B寝台を経験する。

 

1975年に「ゆうづる583系の下段、1977年に「瀬戸」24系25形、そして1978年には「はやぶさ」や「富士」の24系25形を味わい、乗車順番では本末転倒なのだが最初にオイシイ2段ハネなどを味わってからの20系B寝台はハッキリ言って"狭い"に尽きる。B寝台料金が1000円安いだけでこうも違うとは驚きだけどどうせ寝るだけなのでいいが生まれて初めての20系B寝台は期待してたのにイマイチであった。すぐに車掌が来たので別に事前で学割で購入した大阪~米原と一筆書き乗車券と急行B寝台券を見せると車掌は苦笑いして去った。

 

ベッドメイキングだけしてタバコと缶ビールを持ってM君とナハネフ22の展望区画へ移動してタバコに火を付けてEF58-126の後姿を眺めながら旅の最後を乾杯していると新大阪(23:15-16)を発車した。流石に夜行列車3連続泊は辛く、1泊目の急行「十和田1号」と2泊目の急行「きたぐに」は座席車仮眠なので今夜は狭い3段寝台の52㎝幅ベッドでも朝まで爆睡できそうである。京都(23:49-50)を発車してすぐに寝台へ戻り、浴衣に着替えてから狭い寝台に潜ったが生まれて始めての3段寝台52㎝ベッドの感想は翌朝の楽しみにしておく。

 

人生初めての20系三段ハネ(蚕棚とも称された)は初めてカーテンを開けて下段寝台に入った時は幅52㎝ベッドの狭さと中段寝台からの圧迫が強烈だったけど既に三段寝台は583系や14系ハネで経験しているけどそこは70㎝ベッドと52㎝ベッドの差があり、18㎝の差は小さいようで大きいと感ずるしかなかった。しかしそれは起きてる時だけであまり寝返りを打たない平均体系未満の自分にとっては寝てしまえば同じという感覚が分かってきてそれこそ深夜帯に乗車して早朝に目的地に着くダイヤで走る夜行急行なら52㎝ベッドで充分という事に自分の中で話が集約した。

 

以降は就寝時間中の停車駅と時刻・・・大津(0:01)・名古屋(2:11-25)・豊橋(3:40-42)・浜松(4:21-31)・静岡(5:33-42)・富士(6:21-24)。富士駅停車中に目が覚めたけど昨夜はさんざDISった20系B寝台だったけどぐっすり寝る事が出来たけど起きると身を置く場所が無くなるのが解体しない3段寝台の悲しい所。しかし名古屋からは停車時間の長いこと、名古屋14分、浜松10分、静岡9分、沼津17分の停車は尋常ではないけど横浜駅で「あさかぜ4号」に抜かれるダイヤなので早く到着しないように時間調整をしているのだろうけどだったら大阪駅発車時刻を1時間くらい早めればいいのにと思うが如何なものだろうか?。

 

そうこうしているとM君も起きてきたので沼津(6:41-58)の17分停車を利用して自販機で缶コーヒーを買ってナハネフ22の展望エリアで一服しながらコーヒーを飲みつつM君から初20系乗車と初52㎝ベッドの感想を求められたので思った事や言いたい事を伝えておいた。そういえば大阪駅を「銀河」より先に発車した荷物急行列車・荷32レは米原駅停車中に「銀河」が抜いたシーンをM君が目撃しているらしく、浜松機関区のEF58-52だったそうだ。列車は丹那トンネルを出ると来宮駅来宮駅伊東線だけど国鉄の局報には東海道線としての来宮通過時刻が書いてあった)横を通過して熱海(7:26-28)へ入線。

 

上り寝台急行「銀河」は熱海駅を発車して千歳川を渡ると神奈川県に入り、湯河原駅を通過するといよいよ海沿いを走るのが楽しみである。東海道線のこの区間を夜行列車で乗ったのは1976年の「大垣夜行」と1977年の「瀬戸」だが、暗い時間帯なので1978年に乗った上り「富士」から見たのが始めてだと思うけど特に真鶴~根府川~早川の区間は何回見ても飽きないくらいである。「銀河」は3分停車の小田原(7:55-58)に到着すると早速ホーム売店で朝食代わりに「こゆるぎ茶めし400円」とお茶を購入して頭が閊える下段寝台に座って食べていると旅している感じが出てくるのが良い。

 

下車準備をしていると大船(8:44-44)を発車して鎌倉市から横浜市に入ると大船観音が見えると横浜(9:01-07)8番線に到着、横浜では後から来る寝台特急「あさかぜ4号」を先行させるために6分停車するがM君は品川まで乗って田町駅先端で返却回送を狙うそうだ。自分は自宅が川崎なので横浜9:14発、島田発東京駅に乗るのでM君が乗った「銀河」をホームで見送ってから帰途についた。

 

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

急行 きたぐに(502レ・自由席)

yahooブログからHatenaブログへ移行した際に引越し失敗してyahooブログから継続で
きなかった昔の"想い出夜行列車レポート"を新たに書き下ろしてUPする企画です。停車駅と時刻は乗車に近い年度の時刻表を使うため、実際とは相違がある可能性も多いので違ってたら申し訳ありません。牽引機・乗車した列車の客車系式番号や着発番線も記憶違いがある可能性がある事をお含みください。

 

1979年4月30日(月曜日)、 青森駅青函連絡船桟橋で7便の出港を見送り、26便の入港到着シーンを眺めた僕とM君は上り急行「きたぐに」2号車乗車口で入線を待っていた。急行「きたぐに」の自由席は1号車から5号車で自分達は2号車で待っていると急行「きたぐに」となる編成が据え付けられて2号車のオハ12-256(大ミハ)に乗車して荷物を置いてから先頭へ行くと秋田機関区のED75-790が連結されるところだった。昼食の駅弁と飲み物を購入して車内に戻るとまもなく12:55に青森駅を発車した。M君お奨めの伯養軒・ひなどり弁当でお昼にしたけど500円という価格の割には美味しくて満足できた弁当である。

 

平日の月曜日という事で車内は至って空いており、青森発車時点で2号車は2割も乗ってない感じで殆どの旅客が秋田駅まで?に降りてしまう中距離乗車の旅客が多そう。車窓右手に岩木山とリンゴ畑が近付くと弘前(13:31-34)に到着して大鰐「現 大鰐温泉」(13:45)と碇ヶ関(13:54)にも停車して、津軽湯の沢駅を通過すると青森県から秋田県へ入り、矢立峠を越えて大館(14:17-19)に到着。ホームでは名物の鶏めしを立売りしてるけどまだ夕飯には早く、自販機で飲み物のみ購入した。また大館駅では乗客が入替わり、乗車人数より下車した人数が多いくらいでまだ夜行急行「きたぐに」としての雰囲気は薄い。

 

大館を発車すると国鉄花輪線と分かれ、国鉄阿仁合線(現秋田内陸縦貫鉄道)とのジャンクション駅でもある鷹ノ巣(14:35)や二ツ井(14:47)に停車すると五能線との接続駅でもある東能代(15:03-04)到着するもすぐに発車、青森を出てここまで2時間ちょいだけど車内は増えずにマッタリ気分でいると車掌が現れてキップ拝見。学割購入の都区内発・仙台・青森・秋田・酒田・新潟・金沢・敦賀・長浜・米原東海道横浜市内行きと米原~大阪も学割購入(大阪~米原も学割購入)に青森駅で購入した硬券自由席急行券をまとめて呈示すると車掌が驚いていたのを今でも覚えている。

 

そろそろ夕飯はどこで買うか考える時間だけど17:45到着の酒田駅で果たして買えるか微妙なのだがこの先は弁当が買えそうもないのでM君と考えていたら下り急行「きたぐに」とすれ違って森岳(15:31)や八郎潟(15:31)にも停まりながら国鉄秋田鉄道管理局のお膝元駅でもある秋田(15:57-16:07)へ停車した。10分停車なので改札を出て夕飯の弁当を選びに行くとホーム立売り(ホーム販売は関根屋だけ)してない東洋軒が弁当を売ってたので2人でカツ丼風の卵とじで煮たとんかつ弁当を購入してホームへ戻るとED75-790は消えて酒田機関区のEF81-127が連結されていた。

 

更に秋田駅では客が殆ど入替わって乗客も増えたが大きな旅行鞄等を持った長距離客は少なそうである。因みに1976年7月に新製されたED75-790は1987年3月、苗穂工場へ送られて青函トンネル専用機関車のED79-18へ改造されて五稜郭準備区へ移管されたのでED75-790が牽引する夜行列車に乗ったのは最初で最後であった。秋田での10分停車で酒も煙草もおつまみも買い足したのでまだ日が高いけど冷えたビールで乾杯する。関東に住んでいるとEF81という機関車が珍しく、当時はゆうづる・十和田もEF80だったし、EF81の定期運用と言えば水戸線直通の東北線貨物くらいだったけど屋根が異常にスッキリした非貫通のEF81は好きになれなかった。

 

秋田を出ると国鉄矢島線(現由利高原鉄道)の接続駅でもある羽後本荘(16:45-46)を発車して鳥海山が近付き、象潟(17:09)を発車するといよいよ待望の日本海沿いに走る。小砂川~女鹿信号場(現女鹿駅)の日本海を見ながら秋田県から山形県に入って女鹿信号所~吹浦の日本海沿いを堪能していると酒田(17:45-51)へ入線。ホームへ降りるとオバチャン(酒田弁当部の社長夫人)が鳥海釜めしとポットのお湯を持ちながら販売してたので暖かい緑茶だけ買おうと近付くとオバチャンの上手い話術に誘われて500円の鳥海釜めしを買う破目になったけど夜食か明日の朝食に回そう(お茶は半額値引き)。

 

酒田を発車すると余目(18:03-04)・鶴岡(18:21-22)に停車すると空が夕焼け色になり、いよいよ日本海に太陽が沈む落陽というかトワイライトタイムが楽しみになるけど丁度日没時刻に海岸沿いを走るのか微妙であるのだが(羽越線は隧道が多くて海から離れる事も多い)小波渡~五十川の海沿いを走行中に太陽が海に沈むシーンを目撃できた。周囲が暗くなった頃にあつみ温泉(18:50-50)へ停車すると夜行列車らしくなったけど乗車率はローカル客車急行といったところ。鼠ヶ関~府屋で山形県から新潟県に入ると早いもので4県目に入った(残るは富山・石川・福井・滋賀・京都・大阪のみ)。

 

真っ暗なので外は見えないけど越後寒川~今川信号所(現今川駅)では海に浮かぶ月を見ながらお茶を飲み、秋田駅で買った東洋軒のとんかつ弁当(かつ煮風)を夕飯に食べていると気分は最高である。三面川橋梁付近でAC20kV(50Hz)からDC1.5kVのデットセクションを過ぎると村上(19:38)に停車して10分停車の坂町(19:50-20:00)停車だが特急「いなほ」の退避?かすれ違い?にここまで1パンタ状態で走ったEF81を2パンタにする停車だと思ったが両パンタ上昇で主回路を完全なる直流回路に固定(正確には復位)するためだとM君が得意の解説をしていたが・・・。

 

中条(20:11)、そして羽越線白新線、赤谷線(赤谷線は1984年4月1日で廃止)のジャンクション駅でもある新発田(20:26-27)に停車しながら羽越線から白新線へシフトして阿賀野川橋梁を渡って、東新潟機関区と新潟ターミナルの横を通過すると上沼垂の三角デルタ線を通過して新潟(20:54-21:23)へ定時で入線した。新潟駅では進行方向が変わるのと7~11号車となる寝台車(オロネ10・オハネフ12等)を連結して更に牽引機も酒田機関区のEF81-127から富山第二機関区のEF81-13へ変わり、乗客も新潟駅で大きく入換えわって乗車客はそこそこ多かったけどそれ以上に下車客も多かった様である。

 

新潟駅での29分停車で缶に入った新発田の地酒「菊水ふなぐち一番絞り」と新潟銘菓でもある浪速屋の元祖柿の種を買って日本酒は秋田に限るが口癖のM君は秋田駅で購入した秋田銘酒「新政」カップを買っていたので新潟発車前から乾杯する。新潟駅を発車すると上沼垂信号所へ入り、進路を信越本線へ進むと新潟運転所上沼垂支所(のちの上沼垂運転区)の横を通過すると出区まじかである寝台特急「つるぎ」(24系25形)の姿を見る事が出来た。車内は1BOXに1人か2人くらいの乗車率でこの分だと終着大阪駅まで2人で楽に過ごせてゆけそうだ。

 

鉄道の街としても知られる新津(21:37-40)を発車すると東三条(22:04-06)・見附(22:17)と停車しながら長岡(22:29-37)に到着したが日本酒ワンカップ2本ですっかり眠くなったM君と自分は前席に足を伸ばして寝る事にする・・・就寝中の停車駅と時刻は以下の通り。柏崎 (23:14-15)・柿崎 (23:34)・直江津 (23:52-0:02)・糸魚川 (0:37-38)・魚津 (1:24-25)・富山 (1:48-2:00)・高岡 (2:17-19)・金沢 (2:55-3:13)・小松 (3:38-38)・福井 (4:18-27)・武生 (4:46)・敦賀 (5:22-26)・長浜(6:06)・田村(6:14)。富山県に入ってすぐトイレで起きたけど金沢駅停車中に2回目の下り「きたぐに」交換も爆睡してたらしい。

 

更にEF70の機関車交換やDE10機関車交換も覚えていない有様で朝起きたのが米原(6:23-36)停車中で急いで先頭まで移動すると米原機関区のEF58-111が連結されており、田村駅構内のデットセクションをDE10が牽いた機関車も何処かに消えていたがM君は金沢駅での下り「きたぐに」は目撃したそうだがEF70やDE10に関しては寝ていたそうだ。青森を昨日の昼過ぎに出た上り急行「きたぐに」は米原まで到着して13分停車した後に原型小窓EF58に牽引されて東海道線を終着駅目指して快走する。我々は昨日酒田駅で購入した鳥海釜めしを朝食代わりに食べたけど思ってた以上に美味しかった。

 

列車は彦根(6:43)・大津(7:33)と停車して石山駅の手前で一瞬琵琶湖が望めたが大津の先で湖西線と合流すると山科駅を一瞬に通過した。東山隧道を出て鴨川橋梁を渡ると京都(7:45-47)に通過して向日町運転所の脇を通過して神足(現長岡京)~山崎~高槻の有名撮影地を眺めながら大阪府へ入る。大阪市の中心地に近付くと新大阪(8:20-21)に停車するといよいよ上り急行「きたぐに」の終着駅でもある大阪駅へ定刻8:27にすべり込んだ。長かったけど決して飽きる事がない夜行列車旅で世話になったオハ12-256は楽しい我家みたいな感じがして想い出に残る座席夜行の旅であった。

 

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

急行 十和田1号(14系座席車)

yahooブログからHatenaブログへ移行した際に引越し失敗してyahooブログから継続できなかった昔の"想い出夜行列車レポート"を新たに書き下ろしてUPする企画です。フル乗車した上り急行「きたぐに」とそれに乗るために利用した急行「十和田1号」と東京方面へ戻るために乗車した急行「銀河」(20系)を3週連続UPします。ただ当時の時刻表が既に無かったり、あってもボロボロで不鮮明な箇所も多く、停車駅と時刻は乗車に近い年度の時刻表を使うため、実際とは相違がある可能性も多いので違ってたら申し訳ありません。乗車日の詳細が不明だったり牽引機・着発番線も記憶違いがある可能性がある事をお含みください。

 

1979年4月29日(日曜日)、 上野駅19番線ホームで季節夜行急行「十和田1号」の入線を待っていた。「十和田1号」は北オク車の14系座席車12両編成で1号車から4号車が指定席で5号車から12号車が自由席なので11号車だったかで発車1時間前から自由席・乗車位置で並んでいたが明日(4/30)から3日間は平日なので自由席の列に並んでいる人は皆無で19番線に停車中の寝台特急ゆうづる1号」が発車すると入替わりに「十和田1号」の回送が推進運転(推進回送6201レ)で入線。ドア扱いが始まるとオハ14-134に乗車して1ボックス確保して牽引機を見に行くと田端機関区のEF80-39であった。

 

季節臨・夜行急行「十和田1号」の14系座席車は北オク持ちと盛アオ持ちの時があってスハフ14とオハフ15の位置が微妙に変わるけど季節臨なので曖昧な点は致し方なしと納得していたら相棒のM君(同じ高校のクラスメイトで鉄道趣味友達)が悪いと言いながら遅れてやってきた。もう来ない物だと諦めていたけど実家の用事で遅れたそうだが本人は12号車希望だったけど12号車は発電機を回すディーゼルエンジンが煩いスハフ14だったので納得した様だ(1977年8月26日の「十和田1号」12号車はオハフ15だった)。早速、飲み物等を購入して車内に戻ると「十和田1号」発車10分前に「ゆうづる3号」が北へ向けて飛び立った。

 

11号車は空席多数の中、上野駅を20:10に発車してゆうづるの姉妹としては3番目に上野駅を発車して、青森駅行きの夜行列車グループの中では5番目(八甲田 19:10・津軽1号 19:27・ゆうづる1号 19:50・ゆうづる3号 20:00・十和田1号 20:10)として北を目指して羽ばたいた。ちょうど帰宅ラッシュで混雑している常磐線中距離電車と取手までの快速電車が足枷になって速度が出ないけど前を走ってる寝台特急の5013Mや13Mも同じ事。車内で遅めの夕飯(僕は川崎駅で買ってきた崎陽軒シウマイ弁当、M君は上野駅で買ってきたとんかつ弁当)を食べながらビールで乾杯する。

 

上野駅を発車して約1時間で土浦駅(21:06-07)を発車すると急行「十和田1号」の速度も増して40分で水戸駅(21:47-56)に到着したので機関車交換を見に行くとED75-83(多分長町機関区)が接近するところだったが、M型中期と呼ばれる51~100号機の窓にツララ切りのヒサシが付いてる機関車であった。ED75も数多くあるがM型中期とP型前期が一番恰好いいとM君がしみじみと語っている姿に自分も共感していたのが今考えると滑稽でおかしい。2人とも1979年は大学3年生で車内では就職の事を考えて相談しあっていたがM君も僕も文系で同じ様な就職への不安を車内で話していた。

 

日立駅(22:15)を発車すると寝不足だとせっかくフル乗車する上り急行「きたぐに」車内で昼間から寝たくないので今夜はお互いに足を向けて1ボックス使って寝る事にする。就寝中の停車駅と時刻・・・平*(23:18-20)・原ノ町(0:31-34)・仙台(1:59-2:04)・一ノ関(3:21-23)・北上(3:55-56)・花巻(4:08-08)・盛岡(4:37-58)・北福岡(6:01-01)・八戸(6:30-35)。目が覚めたのは八戸発車直前だったので5分停車で買物もできなかったけど自分が寝ていた盛岡駅では「ゆうづる5号(15M)」と「はくつる(5M)」に抜かれたシーンを目撃したとはM君の弁であるが盛岡駅の21分停車は後続寝台特急退避とは驚き。

 

三沢(6:55-55)を発車すると車窓右側に姉沼が見えてくると今度は小川原湖が見えてくるが当時は車窓から湖沼まで意外と近く見えたけどバブル景気で周囲にいろんな物が出来て車窓から湖沼まで遠く感じるようになったのが残念でならない。そして鉄道防雪林が近付いて野辺地(7:19-21) に到着した。2分停車を生かして自販機で飲み物を購入していたら野辺地駅弁の"とりめし"を立売りしてたが買いたい心を抑えて車内に戻る。春休みにバイトしてお金はあるのだが他にも食べたい弁当はあるし、帰路は20系「銀河」なので節約である。

 

車窓右手に陸奥湾が見えて来ると浅虫「現浅虫温泉」(7:52)に停車して朝の陸奥湾を見ながらタバコを吸っていると青森到着と乗り換えの車内放送が聞こえてくると定刻8:14に青森駅に到着した。乗り継ぐ急行「きたぐに」大阪行きの発車まで約4時間あるので青函連絡船桟橋乗り換え跨線橋青函連絡船7便「摩周丸」に貨物を押し込むシーンを眺めたり、桟橋送迎タラップから青函連絡船を見送ったりして急行「きたぐに」入線30分前まで時間を潰したが内心はこのまま青函連絡船に乗って北へ行きたい心境であった。

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

 

臨時快速 9375M(臨時大垣夜行)

1996年8月9日(金曜日)、 品川駅9番線ホームの11号車乗車口で臨時大垣夜行9375Mの入線を待っていた。8月10日から5日間、愛知県の鉄道写真友達が名古屋市内のフォトサロンで鉄道写真展(主に紀勢線・非電化区間高山本線)が行われるために関東からも軍団を組んで見物しに行くため、快速「ムーンライトながら」は指定券1ヶ月前発売早々から空席が無かったので気軽な自由席が中心となる臨時大垣夜行9375Mに狙いを付けた訳である。

 

8月9日の9375Mは田町車の167系8B+三鷹車の169系3Bの合計11両編成なので一番人気がないと言うか大垣から431Fへ乗り継ぐ人は最後尾なんて乗らないから品川駅9番線ホームの11号車乗車口を待ち合わせに決めて当日を迎えた。一般的な企業は8月10日(土)からお盆休みや夏休みのところが多い様なので前夜は確実に混雑しそうで入線2時間前に品川駅9番線ホームの11号車乗車口へ行くと誰の手配か分からないけど大学3年生の2名が入線4時間以上前から先頭を確保してたので自分の荷物を置いてホーム売店で買ったビールを若い2人に渡して謝意を労して乾杯してたらK君とN君がやってきた。

 

メンバーが集まりながら雑談していると行列が長く伸びてやはり「MLながら」を全車指定にした弊害なのだろうが、臨時大垣夜行が乗りずらい列車になっているのは事実のようだ。列車接近予告の案内放送が聞こえてくるとホームに敷いた新聞紙やゴミを捨てたりしているとハイビームの167系×4Bユニット×2+169系3Bユニットの混編成が入線したが我が11号車はクハ169-16で扉が開くと一気になだれ込む。結局我々グループは隣同士2BOXは確保してややトイレ側に同じ仲間のグループがキープしてた。それにしても169系に乗るなんて本当に久々で夜行列車では定期急行「妙高」以来だと思うが東海道線の夜行に横軽協調運転用の169系が臨時大垣夜行に連結されてるのは特異に見えてしまう。

 

我々のBOXはK、N、Yの各氏と自分が座り、隣のBOXにも撮り鉄仲間でかなり前から知ってるメンバーばかりだがそもそもは鉄道写真撮影趣味の情報交換団体(アルファベット4文字のバリなクラブ)で普段は自家用車で撮影地まで向かう人達で夜行列車移動はしない人ばかりである。かくいう自分も関東・甲信越南東北中部地方はマイカーでの移動がメインであるが年に1回あるかないかの遠征には青春18きっぷを分け合って座席夜行を軍団で乗るのも悪くは無い。空席は瞬時に埋まり、デッキや車内通路にも立ち客が増えて来る頃に9375Mは品川駅を23:55に発車した。

 

品川駅発車と同時に缶ビールで乾杯するが、9375M発車10分前に品川駅8番線に長野総合車両所EF64-41号機が「浪漫」(長野支社 14系ロ・ロフ 和式客車)牽引して登場したのが驚きで暫くこのネタで話が続いた。浪漫自体は1995年11月の登場なので自分も中央線や信越線などで撮影しているけど、デビューして8ヶ月しか経過してないため、珍しいのである。臨時大垣夜行9375Mは蒲田駅付近で日付が変わり、多摩川を渡って神奈川県に入ると川崎(0:06)・横浜(0:14-15)と停車するが、仲間たちはまだ浪漫ネタで盛り上っているけど戸塚(0:25)・大船(0:30-30)と停車すると話疲れたのか大人しくなる。

 

しかし平坦区間が多い東海道線に抑速ブレーキに横軽協調運転対応用を持ち、クハ169にはEF63と繋ぐKE70ジャンパ連結器栓を所有している車両なので東海道線には不釣合いのように思えてならない。大船駅を発車すると小田原駅までは各駅停車(藤沢0:35・辻堂0:39・茅ヶ崎0:43・平塚0:48-48・大磯0:52・二ノ宮0:57・国府津1:01-01・鴨宮1:06・小田原1:09-10)だが小田原から大垣までは快速運転に移行。品川を発車して1時間15分、いい加減に話疲れた感もするけど30歳台後半(今で言うところのアラフォー)我々はボックスで寝れる時には寝たいのでお互いに足を出し合って寝る事にした。

 

自分は玉川橋梁を走行してたのは知ってたけど白糸川橋梁は既に寝ていたようで記憶が飛んでいた。以降は就寝中の停車駅と時刻・・・熱海(1:29-30)・三島(1:43-43)・沼津(1:50-56)・富士(2:12-13)・静岡(2:43-59)・浜松(3:58-4:09)・豊橋(4:39-52)・三川三谷(5:05)・蒲郡(5:08)・岡崎(5:20-20)・安城(5:27)・苅谷(5:35)・大府(5:40-40)。豊橋停車中に目が覚めたら隣のホームに快速「ムーンライトながら(375M)」が停車してて臨時大垣夜行が先に発車したのは覚えていたけど目が覚めたのは大府駅付近だった。甲種8864レとすれ違いを確認するため、沼津くらいまで起きていたN君が20代が多く集まるBOXでは熱海まで飲んでいたらしい。

 

共和(5:44)・金山(5:58)と停車して名古屋駅(6:03-08)へ停車すると5分停車を利用してカップコーヒーを購入して頭をすっきりさせる。目的地は名古屋だけどこんな時間に到着しても時間を持て余すから終着駅大垣駅まで乗る事にする・・・稲沢(6:16)・尾張一宮(6:21)・岐阜(6:29-30)・穂積(6:35)の駅へ停車して終着駅の大垣駅1番線に定刻・6:41到着。全員で4番線に移動して美濃赤坂始発の6:55発/532F浜松行きに乗車して名古屋に乗車、名古屋へ到着後は名古屋名物モーニングを喫茶店で楽しんでから(大勢で押しかけて貸切みたいになってしまったけど皆が朝と昼兼用で沢山食べたので逆にお店から感謝された。

 

メインの写真展は紀勢線・非電化区間高山線DD51牽引貨物や臨客牽引の俯瞰撮影や風景写真が中心でRM(レイルマガジン)誌のグラフ撮影を何回も担当しているだけあって見応えのある富士クローム・ダイレクトプリント・四つ切写真を堪能する事が出来た。帰路は青春18きっぷなので東海道線を東に乗り継いで「1146M」⇒「944M」⇒「788M」⇒「366M」経由で22:40東京駅へ無事到着。8月のお盆休みは18日(日曜日)まで休みだけど旧盆で混む時期なので列車移動はせずに栃木県が朝から晴天の日はマイカー移動でED75が24系4両とワキ9両を牽引する上り「カートレイン北海道」を交流区間の黒磯~黒田原で撮影、序に上り「エルム」も撮影した。

 

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★