夜行列車の想い出

現在ではサンライズ以外廃止になった定期夜行列車だけど過去の夜行列車・想い出乗車レポートと夜行列車に纏わる懐かしい夜行列車ブログです(1975年以降から)

🍴夜行列車の味・中部~関西🍱

5月31日に『夜行列車の味・関東甲信越』をUPしたのでそろそろ時期的にいいかなと思い、このシリーズをリリースしたいと思う。今回の『夜行列車の味・中部~関西』では前回残ってた直江津と新規に北陸線とその関連・東海道線米原~大阪)・関西本線紀勢線阪和線山陰本線(京都~福知山)までとして太平洋側は大阪府日本海側は京都府までを境とし、兵庫県以西は別の機会に忘れた頃、紹介したいと思う。

 

信越線】前回紹介出来なかった長野~直江津~柏崎~長岡間の直江津駅、1978年に直江津発の上野行き・普通2344列車(長野⇒上野は夜行急行「妙高5号(302列車)」に駅で買ったホテルハイマートのかに寿し(600円)。かなり酢が効いていたけど人生初のかに寿し駅弁でした。【北陸関連】1980年代前半に北陸ワイド周遊券で宿代わりに富山~敦賀を夜行急行「立山3号(506M)」と敦賀糸魚川駅を夜行急行「立山3号(505M)」で折り返し乗車した時に朝7時過ぎに糸魚川駅で食べた駅の立ち食い蕎麦が美味かった事。冬だったので寒さに震えて食べた駅そばの美味しかった事。

 

1980年9月に名古屋駅から乗ったディーゼル夜行急行「のりくら9号」が能登半島の穴水から宇出津へ臨時延長した際に6分停車の穴水駅で朝食代わりに買った「朝市弁当」。ばい貝、いいだこ、甘エビ、ふぐの粕漬焼きなど海の物が沢山詰まった弁当で輪島名物の朝市からネーミングを取った海鮮幕の内弁当である。当時は国鉄七尾線が津幡から穴水を経由して輪島駅まで走り、国鉄能登線が穴水から蛸島まで結んでいたけど今では七尾線和倉温泉までで、その先はのと鉄道が穴水まで走っているけどその先は全て廃線(穴水~輪島と穴水~蛸島は廃止)になっている。

 

関西本線】1979年に紀州夜行の921列車(新宮からB寝台が連結されるので「はやたま」という愛称が付く)にフル区間乗車した際に亀山駅で21分停車するので当時から予約販売だった「志ぐれ茶漬け弁当」を予約せずに駅前の製造元で入手して921レの車内でゆっくりと別売りのお茶をかけてから食べると時雨はまぐりの香りと刻み乗りに醬油味のタレを塗ったごはんのエキスがミックスされて実に美味かった。【紀勢線新宮駅天王寺から乗った鈍行夜行「はやたま」が翌朝新宮駅へ到着すると寝台車を切り離して牽引機関車もEF58からDD51に変わるために40分以上停車する。

 

924列車は新宮で事実上の朝を迎えるため、1番線ホームの立ち食いそば・うどんスタンドから湯気が上がり、発車待ちの時間にうどんをお腹を膨らしたり、スタンドで売られる名物の秋刀魚寿司やめはり寿司などを購入して924レの車内で食べたり出来る恰好の朝食を入手出来る。自分は秋刀魚寿司のファンで当時400円で買えたのでお財布にも優しくて美味しい駅弁でした。【阪和線】1978年から1980年くらいの天王寺駅阪和線ホームは行き止まり式になっているが夜になると4番線と5番線の行き止まりの先に屋台のうどん屋が店を出して営業していた事があった。

 

店自体は21時過ぎくらいに店仕舞いするのだが「はやたま」や新宮行きのDC急行「きのくに」へ乗る時はそこで腹の足しにした事が1~2回ある。【山陰線】京都から出雲市まで走っていた鈍行夜行の「山陰」へ乗ると深夜の福知山駅で20分間の停車があり、ホームにはリアカーを引いた駅弁屋が待機して「山陰」や夜行急行「だいせん」も停車するので恰好の夜食調達駅であった。この時は一番安かった栗めしを購入してるが丹波名物の栗ご飯が中心になった弁当は本当に想い出に残る美味さであった。

 

東海道米原駅、東京駅から京都行きの臨時急行「銀河52号」(1978年10月2日以降は臨時急行「銀河53号」)に乗ると米原駅の発着時刻が8:14-22で8分停車するのでこれまた恰好の朝めし駅弁調達タイムで当時はまだ安かった鱒寿しを朝食にしたり、ホームの立ち食いスタンドでそばやうどんを食べて小腹を満たす人も少なくなかった。但し滋賀県米原駅は関西圏になるため、関西風の味付けになり、狭い日本だが歴史に於ける国土と文化の違いと味付けを勉強させられた。

 

最後は同じく東海道線大阪駅大阪駅新大阪駅からこれまでに数え切れないほど夜行列車に乗ってるけど「だいせん」「きたぐに」「鷲羽」「銀河」などに乗車した祭は発車時刻が遅くて駅弁の世話になってはないけど1985年4月27日に大阪から乗車した「日本海1号」と1994年6月8日に、同じく大阪駅から乗車した「トワイライトエクスプレス」に乗車した時はお気に入りの駅弁として「八角弁当」を買ってる。八角弁当は大阪駅新大阪駅を代表する駅弁で上質な幕の内弁当として夜行列車に限らず大阪出張の帰りに新幹線車内で食べる駅弁を買っていたが大阪水了軒の倒産でもう食べられないのが残念。

 

『夜行列車の味』残りは兵庫県からの山陽線・山陰線と四国に九州で完結になる予定。

 

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

寝台特急 あけぼの(B1)

1996年2月11日(日曜日)、奥羽線での急行「はまなす」の延長運転など2日間の撮影を終えて大館駅上野駅の上り寝台特急「あけぼの」の入線を待っていた。19:16に南秋田運転所のED75-726に牽引されて入線すると早速扉が開くと同時に9号車のオハネ24-553へ乗り込んで指定された狭いソロ個室(9号車7番)へ落ち着く。「あけぼの」の個室は何回乗っても狭くて慣れないのだがそもそも「あけぼの」の定員28室は詰め過ぎではないかと思う。北斗星1・2号のオールソロは17部屋、富士やはやぶさのソロが18室、北陸のオールソロでさえ、20室なのにやはり「あけぼの」ソロの28室は納得いかない。

 

大館を19:17に発車するとすぐに車掌が来たので特急寝台個室券と株主優待で購入した乗車券を見せて夕飯にする。夕飯は大館駅前の花善が閉店する直前に買った「鶏めし」弁当とホームで購入した500mlの缶ビールで済ませるが何せ狭いあけぼの・ソロはビール飲みながら弁当食べるのも大変である。あけぼの・ソロに乗るのは1995年10月27日以来約3ヶ月振りだけど1階がいいのか2階がいいのか、いまだにハッキリよく判っていない。総合的には2階の方が好評みたいだけど酒飲みにとってよくトイレに行くから2階ソロだと寝台ベッドを畳んで下の扉まで歩いて行くのが面倒である。

 

2階の方が眺めはいいけど走行時間中が殆ど日没時間中なのでその点は気にしていないが列車は鷹ノ巣(19:35-35)・東能代(20:00-01)に停車して大館駅の鶏めしを美味しく食べ終わり、ビールも飲み終わると八郎潟(20:27-27)に到着した。こんなに狭い個室なら普通のB寝台開放にして帰路の寝台特急券も株主優待割引(個室は株主優待割引対象外)で安く乗った方がよかったかなと後悔してると秋田駅(20:52-54)に到着。そうえいば上り「あけぼの」・秋田駅停車時間も年々短くなりなり、4~5分が3分になって遂に2分停車のみになってしまった。

 

ホームの自販機で缶コーヒーのショート缶を買って個室に戻ると「あけぼの」は秋田駅を定発して自分も浴衣姿に着替えてベッドを作り、背もたれに寄りかかりながら本日の撮影データーを手帳に書き写してから寝具を敷いて横になりながら今日一日の出来事を回想していた。一番印象に残ったのは大館駅で上り「あけぼの」の入線を待っていた時に先頭のED75が雪ダルマ状態になって正面に大量の雪を付けて入線した時の事。青森県から秋田県の県境であり、峠もあって雪が深い碇ヶ関津軽湯の沢陣場~白沢の区間を走行中に付着したのであろう。

 

スノープロウからヘッドマーク部分まで雪がべったり付着してスノープロウは雪の塊になっていたのは凄かった。そういうシーンに憧れて寒いのは嫌いなのに撮影に向かうのは冬の鉄路の浪漫なのだと思う。昔は機関車の屋根から噴出す暖房用の蒸気や客車から漏れてる暖房用蒸気を見ながらこれこそ冬の鉄道浪漫を感じていたが走行写真でそれらを描くのは難しくて雪国の鉄路へ憧れる様になったのである。寝台特急「あけぼの」は大曲(21:38-39)・横手(21:57-58)と停車するが昨夜はK君のデリカ車中泊で朝6時には撮影で活動したし、今日も雪中行軍で多いに疲れたので早寝としよう。

 

狭い個室も寝てしまえば同じで2階個室に比べて1階個室は揺れないのでいいかもしれない・・・以下は就寝中の停車駅と発時刻。十文字(22:08-08)・湯沢(22:16-16)・新庄(23:14-26)・宇都宮(4:53-54)。0時前にトイレで起きたけど1号車まで歩けば陸羽東線のDE10重連・機次(次ソ)ナンバーくらい確認出来たけど9号車から1号車まで行ってまた戻るのも面倒なので用を済ませて個室に戻っている。朝目覚めたのが5時半頃で7時間以上寝たのですこぶる気分がいいので1号車まで機関車確認へ行くと田端運転所のEF81-78が健気に横揺れしながら現車12・換算44.5を速度種別:特通客C3で牽引している。

 

まだ夜明け前の大宮(6:04-05)に到着すると自分も下車準備に取り掛かり、荒川を渡った頃から空が少し明るくなってきたけど関東圏独特の冬らしい天気で今日も1日晴天になりそうな予感がする。尾久客車区と田端運転所の脇を通過すると回送12列車(はくつるの推進回送)とすれ違い、地平ホームへ降りる坂道を下っていくと6:30、時刻通りに上野駅15番線ホームに寝台特急「あけぼの」は滑り込んだ。先頭まで歩くとEF81-78の正面に雪の付着はなく、台車部分が少しだけ白くなっていただった。

 

          ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

 

 

 

 

寝台特急 鳥海(B寝台)

1996年2月9日(金曜日)、 2月の三連休初日前夜に自分は上野駅14番線ホームで青森行きの寝台特急「鳥海」の1号車乗車位置目標でゴム長と大きめのフードが付いた防寒ブルゾン姿の雪国装備にて2021列車「鳥海」の入線を待っていた。実は札幌発基準で2/5から2/12の夜行急行「はまなす」の一部編成が秋田まで臨時延長(「9602レ」9:30秋田着、「9601レ」18:55秋田発)で撮影は朝方が中心の9602レになるけど奥羽線に入るED75牽引の夜行もなくなり、寝台車+14系ハザの4両と編成は短いけどED75-700が定期列車のヘッドマークを掲載して単線が多い奥羽線を走る姿を拝めるのは何とも嬉しい話。

 

本来なら毎週金曜日は定時退勤日なのだが2月頭早々に年度末多忙に入っており、19時まで残業したので家で夕飯を食べる時間はなく、この時間帯上野駅では好みの弁当は売り切れているため、職場から帰宅する時にチキン弁当を購入して帰宅後上野駅まで持参してきた。21:08に14番線へ「鳥海」の回送になる回2021列車が入線すると早速1号車に乗車すると青森運転所のオハネフ24-25で、荷物を置いてから先頭へ移動すると長岡運転所のEF81-138であった。ブルートレインを牽引する機関車は貫通扉があるEF64やEF65PFが似合うと思う。

 

どうも非貫通の機関車(EF58・EF65-500除く)は個人的に萌えないのだがそれでも今宵の81-139はツララ切りのヒサシがついてるからいいけど残雪のある鳥海山を模した丸いヘッドマークが格好良い。山男ロコEF64牽引ならもっとほれぼれしく見れるのに寝台特急「鳥海」も1993年11月29日から、上野~青森間が長岡運転所のEF81通し運用になってしまい、EF64-1000の上野~新津区間は廃止されてしまったのが残念。発車9分前になったのでホーム売店経由で缶ビールを購入して最後尾の1号車へ戻ると1号車は10人も乗ってない状況だが同じく禁煙車の4号車は6割くらいは乗っているのはマルスが3号車から売って2号車と1号車が最後になるマルスの盲点だ。

 

 上野駅を定時の21:43に発車した寝台特急「鳥海」だが、1号車は車掌室がある車両なので車掌がすぐに来たため、切符類を見せて自宅へ帰宅する時に買ったチキン弁当(750円)と缶ビールで遅めの夕飯を楽しんでいると東北自動車道のSAで休憩しているk君から携帯電話が着信して明日の下車駅の打ち合わせを行う。携帯電話の導入で本当に便利になったけど当時は通話料がまだ高く、メールやショートメールの類は無かったので電話通話のみしかなかったのである。飲食を終えて最後尾となる1号車の展望スペースで後方へ流れゆく夜景を眺めていると大宮駅(21:49-49)に停車となる。

 

2月から年度末多忙で残業で睡眠不足気味なので今夜も早く就寝するためベッドに入って前回寝台特急「鳥海」に乗ったのは2年前の今頃(1994年2月)だったなと2年前を振り返ったらいつの間にか寝てしまった様である・・・就寝中の停車駅時刻(<>は運転停車は下記のとおり。高崎(22:50-53)・水上<23:42-44>・長岡<1:04-06>・新津<1:43-45>・村上(2:48-48)・あつみ温泉(3:37-37)・鶴岡(4:06-09)・余目(4:23-23)・酒田(4:35-37)・遊佐(4:49-49)・象潟(5:14-14)・仁賀(5:24-24)・羽後本荘(5:38-38)。

 

7時間は完全熟睡したようで念の為に設定した携帯電話のアラームが鳴る前に起きたので洗面などを終らして下車準備を済ましていると秋田駅(6:15-18)へ到着した。この時間でも6:00発の特急「たざわ2号」の盛岡行きがホームで弁当を売ってるから寝台特急「鳥海」のホームでも弁当売り人がいるのは判っているけど扉が開くのと同時にホームへ出ると駅弁販売員を見つけてこの時間帯は「あきたこまち弁当」(850円)しか売らないそうだが早速「あきたこまち弁当」と温かい緑茶を購入して車内に戻る。秋田からはヒルネになるけど人が少ない内にまだ暖かい弁当を頂こうではないか。

 

列車は八郎潟(6:42-43)・森岳(6:58-59)・東能代(7:11-14)と停車するとようやく朝らしくなったけど1号車は相変わらず空いており、ヒルネの利用客も乗って来ない。車窓は相変わらずの雪景色で雪の量も多そうだがこんなに雪があるならスノーシューも持ってくればよかったかも知れない。東能代発車後にK君から次の二ツ井で下車確認の電話が来たので下車準備を済ませて今までズボンの内側に隠しておいたゴム長靴のマチを閉じて定時到着 (7:29-29)した二ツ井駅で下車して改札を抜けるとK君が待っていたので早速車に同乗させてもらう。

 

 急行「はまなす」(9602レ)は二ツ井駅で9分停車するので二ツ井~前山へ行くがここの撮影地は朝の下り列車が順光だが二ツ井の9分停車を生かして手前で何とか1コマ撮影したく移動して定番でない場所へ行くと影が出ない、明るい曇のような天気なので急行「はまなす」を撮影したら南秋田運転所のED75-757が「はまなす」のヘッドマークを付けてゆっくり通過した。すぐに追いかけて 鯉川八郎潟へ行くがスケールが大きい巨大水田エリアでED75牽引のハネ2B+ハザ2Bでは編成が短すぎるけど短いレンズで近付いてヘッドマークを付けたED75をクローズアップして撮影してみた。

 

急いで花輪線に戻り、雪晴れのキハ52を撮影して日没後は秋田駅へ移動して札幌行き急行「はまなす」を秋田駅ホームで長時間露光撮影して翌日は「鳥海」と急行「はまなす(9602レ)撮影後に花輪線キハ52を撮影して過ごして岐路は「あけぼの」で帰る。

 

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

急行 銀河(B寝台)

1996年1月31日(水曜日)、1月の末日だが東京駅9番線ホームの5号車乗車口付近で大阪行きの夜行急行「銀河」の入線を待っていた。例によって21時過ぎまで残業していたので新大阪駅まで行ける最終新幹線303A(のぞみ303号)には間に合わないので職場の近くでで23時(22:30 LO)まで営業している店で飲みながら夕飯を済ませて東京駅丸の内入口まで移動して「銀河」のB寝台急行券を購入して本文冒頭に戻る。この日は風が強くて寒いので入線直前にホーム売店KIOSKでいつもの様に缶ビールにバターピーを買っていたら22:54に「銀河」の回送が9番線に入線した。

 

早速5号車のオハネフ25-43に乗車して荷物を購入した物を下段寝台の上に置いてからホームの先頭に行くと牽引機は田端運転所のEF65-1118である。EF651118と言えばSuper Express Rainbowの専用機として有名だけど当時は通常塗装の一般PFで1998年から2代目指定牽引機として専用色へ変わっている。オハネフ25-43は「日本海」「銀河」「臨時つるぎ」で運用していますが、1975年12月から1976年2月までに製造されて宮原客車区へ新製配置された車両で1976年2月20日に「つるぎ」と「日本海」(下り1号・上り2号)へ投入された中の1両である。

 

機関車を確認して5号車に戻れば既に東京駅を発車して、気の早い車掌が指定券の確認に来たので今回は神戸出張なので京阪神ミニ周遊券と指定券を車掌に提示してからスーツ&コート姿から浴衣に着替えて身軽になってから缶ビールで乾杯するが車内の暖房がやや過剰なので冷えた缶ビールが途轍もなく美味く感じる。青い寝台列車から見る都会の夜景が非日常すぎて余計にそう感じるのかも知れないが有楽町~新橋~浜松町界隈のオフィスビルの明かりを見つめながら東京駅での喧騒を思い出しながら列車は品川(23:08)に到着。

 

品川駅を発車して帳の降りた港区、品川区、大田区を列車は高速運転で都会を離れると六郷川橋梁を越えて神奈川県に入ると川崎駅を一瞬に通過して次の停車駅でもある横浜駅(23:25-26)に到着。「銀河」は種別・急行なのにそして停車駅が多いのに速度を出しているように思えるが電源車込み10両編成なのでEF65PFにとっては"通客C2"は余裕なのだろう。少し早いけど横浜駅を発車したのでベッドに入ってブルートレイン独特の空間とサウンドが作りなす世界に身を預けていたらいつの間にか寝てしまったようで就寝中の停車駅と発車時刻は以下略。

 

大船(23:41-42)・小田原(0:14-15)・熱海(0:36-37)・静岡(1:48-55)・岐阜(5:01-02)・米原(5:45-47)・大津(6:33)。昨夜は大船駅の到着前に寝てしまったのでそのまま起きないで気が付いたら京都(6:43-44)入線の数分前に目が冷めたが車内放送で起きたのか周囲がざわついて起きたのは定かではない。取りあえず急いで着替えて洗面に歯磨きなどを終らせてから寝台に戻って下車準備を進める。神足(現長岡京)~山崎の天王山バックや山崎~高槻の定番撮影地を通り過ぎながら新大阪駅(7:13-14)に到着すると淀川橋梁を渡って大阪駅3番線ホームへ定時7:19に到着した。

 

大阪駅5番線ホームへ移動して711M、播州赤穂行きに乗り換えて神戸駅まで移動したけど帰路は新神戸駅から「ひかり」を利用したが京阪神ミニ周遊券をフルに使えて1140円ばかりお得に使えてラッキーでした(岐路の新幹線で食べた神戸牛肉弁当代として消えちゃいましたけど満足)。

 

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

ブルートレイン・24系

前回の「ブルートレイン・14系」をUPした4月26日から約1ヶ月強が経過したが本日は24系24形と24系25形の両方をまとめてみたいと思うがゴーサントオくらいまで追いたいと思う。「走るホテル」と呼ばれた20系特急形寝台客車の登場後10年が経過し、1971年より分割・併合に備えて分散電源方式とした14系特急形寝台客車が新製されていた。しかし、寝台車としての性格上、スハネフ14形床下に取付けられた電源装置の騒音は旅客には不評であり、さらに1972年11月6日に北陸トンネルで発生した夜行急行列車「きたぐに」の列車火災事故により、国鉄では車両の防火対策を見直す必要が生じた。

(ちなみに急行「きたぐに」の火災原因は配線ショート、食堂車の火不始末、喫煙所でのタバコの火とも言われ、火災原因の断定が出来ていない)

 

そこで再び電源装置を旅客用車両から離した集中電源方式を採用することになった。こうした背景から誕生したのが24系特急形寝台客車である。24系寝台客車は14系寝台客車を分散電源方式の騒音・保守問題のから再び集中電源方式に戻して、防災対策を施して昭和48年から5系式115両が製造されました。24系寝台車は1973年から新潟鉄工所(現新潟トランシス)、富士重工日本車輌の3メーカーで製作。1973年に向日町運転所に全車新製投入されると関西~九州間の寝台特急に使われ、1975年9月末には全車品川客車区へ転属して東京口ブルートレインで活躍。

 

その後、青森へ転属して上野発着ブルートレイン・他にも24系が使われるようになる。1973年度から製造された24系24形の118両(オハネフ24×27、オハネ24×67、オロネ24×9、オシ24×5、マヤ24×10)が全車向日町運転所へ新製配備されると「あかつき」と「彗星」に投入されたが1974年3月から製造された24系25形0番台とカニ24、合計91両が全車向日町運転所へ新製配備されると1973年に申請配置された24系24形の一部を除き、品川客車区に戻って1975年3月10日から「はやぶさ」「富士」「出雲」で使用する。

 

その後はやぶさ」「富士」「出雲」にニューブルートレインの新型25形と呼ばれた24系25形100番台(一部非100番台)が投入されると余った24系24形は青森運転所へ移管して「ゆうづる」(下り4・5・6・7号と上り1・2・3・4号)に投入。更に1978年10月2日から青森運転所持ちの「日本海3号・2号」(4003レ・4002レ)でも使用。関西発着の寝台特急の殆どが25形や15形に統一されて余剰になった24系24形が、秋田運転区へ転属となって1980年10月1日に「あけぼの1・4・3・2号」へ配車されて24系24形の新製・転属・転廃はこれで終了。

 

24系24形は14系と同様に3段寝台であり、かつての寝台車に比べて寝台幅・長さは拡大されたものの、居住性の面で時代遅れの間は否めなくなった。そこで1974年より2段寝台のB寝台車としてオハネ25、オハネフ25が新製された。また、電源車は本格的な荷物室を設けた荷物車カニ24形が新製されることになった。これらは従来の24形と区別して25形と呼ばれている。車体は24形を基本としているが、2段寝台化による定員減を補うため便所の配置の変更などがなされ、オハネ25形ではオハネ24形の乗務員室・更衣室を廃止、オハネフ25形ではオハネフ24形の業務用室・車掌室の寸法縮小などが行われている。

 

塗装は24形では青20号にクリーム10号の帯であったが、区別のため青20号にステンレス帯となった。25形は寝台側の窓が大きくて上段の自動昇降機が付いた0番台に寝台側の窓が小さくなった100番台と200番台になり、特にオハネフ25の100番台は切妻形で幌は外吊り式の簡易型設計で車掌室の窓(2ヶ所)も小型になって、東北向き一方方向固定になってる。更にオハネフ25の200番台は再び折妻になったが切妻形をミックスした曲切妻形、下のステンレス帯が短くなって方向転換可能になっている。

 

それでは24系25形の詳細(新製後の配置と運用)へ移ろう・・・1974年3月に新製配置で登場した24系25形-0番台91両(オハネフ25×56、オハネ25×27、カニ24×8)が全車向日町運転所へ配備されて1974年4月25日から「あかつき」(下り3号と6号、上り1号と2号)と「彗星」(下り5号と上り1号)で使用開始スタート。1975年3月10日からは「明星」(下り2号・上り2号と下り5号と上り4号)。1975年12月から1976年2月までに製造されて宮原客車区へ新製配置された25形0番台・60両(オハネフ25 28~46・オハネ25 57~91・カニ24 9~14)を1976年2月20日に「つるぎ」と「日本海」(下り1号・上り2号)へ投入。

 

そしてここから25形100番台(オロネやオシにカニは除く)の登場である。しかし24系24形からの改造(オシ24-100番台)や電源車が25形0番台で登場したカニ24も含まれるため完全な100番台ではない。1976年7月から9月にかけて新製された25形99両(オハネフ25×29、オハネ25×52、オロネ25×10、カニ24×8)とオシ24やオシ14から改造したオシ24-100に24形で使っていたカニ24に向日町運転所から転属したカニ24などを1976年から「はやぶさ」「富士」「出雲」(浜田出雲)に運用開始され、これで東京駅発着ブルートレインも"ニューブルートレイン"の仲間入りが出来た。

 

更に1976年8月7日から8月21日(上りは22日)まで品川区25形モノクラス編成のみで「臨時あさかぜ51号(8011レ・8012レ)」を担当しているが臨時列車なので割愛するべきなのだろうが東京発着ブルトレ初の25形運用という事で特別に紹介。新車投入の最終ステージは25形-100番台後期と200番台の登場で以降は従来車両からの改造ばかりなのであとは新車投入と運用の紹介へ移動する。まずは1977年7月から9月にかけて新製された25形-100番台(一部200番台)のオハネフ25(130~157)、オハネ25(153~207)、カニ24(101~108)の計62両が基本編成として下関運転所へ配置。

 

更に同じく1977年8月から9月にかけて新製された25形-100番台(一部200番台)のオハネフ25(136~153)、オハネ25(162~200)の計29両が基本編成として広島運転所へ配置。下関持ちの25形基本編成と広島持ちの予備編成を集約して以下の寝台特急の編成を構築した(但し「安芸」に付いては全車下関車のみで運用)。なお今回の1977年度債務で新製したカニ24-100は25形-100番台後期から200番台に合わせた初の貫通型電源車でオハネフ25-100番台とほぼ同一の面構えになっており、帯はステンレス2本の切妻形で従来の24系電源車とは違うフォルムである。

 

最初に1977年9月1日付で「安芸」投入されるが、20系から25形-100に変わった「安芸」だけど乗車率が思わしくなく、約1年後の1978年10月2日大改正で廃止となる。次に運用に就いたのは1977年9月25日から運用に入った「あさかぜ」(下りあさかぜ2号・上りあさかぜ1号「13レ・14レ」)で下関あさかぜと呼ばれた。更に翌日の1977年9月26日には「あさかぜ」(下りあさかぜ2号・上りあさかぜ1号「13レ・14レ」)と共通運用になった「瀬戸」の運用も始まり、増備車ラストの最終ステージを迎える。1977年12月から1978年1月にかけて製造された25形-100番台(200番台含む)とオロネ25の増備車他が品川客車区へ配置される。

 

品川区へ配属になったのはオハネフ25(201-210)、オハネ25(208~226)、オロネ25(11~12)、カニ24(109~112)の合計35両が1978年2月1日から「博多あさかぜ(9レ・10レ)」(下りあさかぜ1号・上りあさかぜ2号)へ投入された車両だが上の方に書いたとおり、1976年7月から9月にかけて新製された25形99両(オハネフ25×29、オハネ25×52、オロネ25×10、カニ24×8)とオシ24やオシ14から改造したオシ24-100に24形で使っていたカニ24に向日町運転所から転属したカニ24などを1976年から「はやぶさ」「富士」「出雲」(浜田出雲)に運用開始した車両を全て集中集約して「はやぶさ」「富士」「出雲」「あさかぜ」(博多あさかぜ)を区別なしに運用して「はやぶさ」「富士」「あさかぜ」は共通運用とした。

 

この後は15形の「あかつき」投入で完全余剰になった25形や「明星」の一往復整理や「彗星」の2往復583系化などで25形0番台が余剰になって1980年10月1日付けで「ゆうづる11・13・2・6号」が25形化。1982年11月15日付けでは「あけぼの3・4号」が25形化、同日付けで「日本海1・2・3・4号」日本海全てが25形化で全車宮原客車区担当へ。さらに1984年2月1日付けでは「なは」が25形化されて定期「なは」の583系運用を終えたのである。日本国有鉄道ならではの全国ネットワークで車両を運用構築する術は流石だと感服した国鉄末期であった。

 

この先も続けたら今後の資料として使えそうだが国鉄分割民営化されてJR化されると更に複雑な運用や改造での意味不明な改番など厄介な事や摩訶不思議な事が発生(24形と25形を混ぜて編成組みしたり、そもそもは25形だった車両を15形でサンドイッチしてオハネ15-1000番台にしちゃってもう最悪。摩訶不思議といえばオハ25-551が2両存在した事・・・1両は札幌運転所の北斗星全車ロビーカー、もう1両は宮原客車区のトワイライト・ラウンジカー。国鉄時代には同じ系式番号の車両が2両存在するなんてありえなかったけどJRになるとルーズになっしまうのに失笑してしまう。

 

今回の中でデーターの相違やミスがあったらぜひコメント欄で指摘していただければ幸いと思うし、僕の公式LINEやコミュにツイッターDMなどでもOKですので是非よろしくです。このあたりで「ブルートレイン・24系」を終らせてもらう。

 

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🍴夜行列車の味・関東甲信越🍱

「夜行列車の味・関東甲信越」なんて安易なタイトルを付けてしまったが中央東線篠ノ井線高崎線上越線信越線あたりを中心にした夜行列車に関する想い出のグルメでございます。範囲で言えば新宿~松本・篠ノ井線高崎線・高崎~長野・高崎~新潟を範囲に考えているけど実際に文章を書いてみないと分からないというある意味適当で自分で実際エリアの範疇が押さえられないというふざけている(本人は至って真面目なのであるが)区分になってしまった事をお許しください。

 

2019年10月10日にまとめてUPした「夜行列車から見た好きな風景1~5」の様な意味不明な区分けになってしまったのは致し方ないが夜行列車の始発から終点までの線区で分けると地域で分けるのはどうしても無理が生じてこのような形になってしまう。同じ信越線でも長岡~直江津間と直江津~長野間は北陸部門に入れて次回は「北陸・中部」として本件の記事をまとめるしかなさそう。

 

中央東線上諏訪駅は新宿発長野行きの普通夜行441Mが48~49分間停車していたがホーム立ち食いそばの開店準備しに来た人に言えば開店前に上諏訪駅の駅弁「杣人弁当 」を441Mの発車直前に持ってきてくれて特別に買えた時があったので朝が早いけど鯉の甘露煮やクルミ味噌の付いた御幣餅が入った地域食豊かな駅弁を夜行列車の車内で味わえたのは幸せでした。441Mが松本止まりや上諏訪止まりになって夜行列車で買う機会は減ってしまったのが残念。松本駅は早朝に到着する急行「アルプス」や急行「ちくま」が早朝4~5時に到着する時間を狙って駅弁販売をするのだが自分が利用したのは441Mで8時台に13分停車でもホームの駅弁屋は特急や急行以外は相手にしなくてワゴンも無人だったのである。

 

かなり昔だが自分は大学のサークルで仁科三湖(長野県大町市)へのキャンプ場で合宿へ行く祭、165系の定期夜行急行「アルプス」南小谷行きに乗って松本駅の5分停車で仲間と買って大糸線に入ってから幕の内弁当を開いたが弁当の味まで覚えていないのが残念である。更に松本駅といえば駅ホームの立ち食い蕎麦スタンドの味が美味いのには驚いた。流石に信州蕎麦であるが番線や構内場所によって業者が一部違って味の相違が旅の楽しみであったが今の松本駅なら0番線・1番線ホームか6番線ホームの蕎麦が好みだけど441Mは松本駅で13分停車したのでホーム立ち食い蕎麦屋で蕎麦を啜ったものです。

 

高崎線高崎線といえば上越方面や信越方面の夜行列車で世話になった深夜でも買えたホームのビール自動販売機だろう。自分は苦味ばしったビールが好きなのでキリンのラガーやサントリーのモルツをよく購入したが何度もお世話になった駅でもある。しかし2000年くらいから深夜から早朝にかけて未成年飲酒問題で深夜のホームや駅前で缶ビールを買うのは難しくなってしまった。【信越本線】高崎~長野間が対象で長野~直江津と長岡~直江津は北陸・中部エリアに編入して別の機会に譲る(多分来月かな?)。

 

信越線の駅内で弁当を購入した事は無かったけど1980年12月末に乗った上り夜行急行「越前」(1980年12月末乗車)に乗った際に雪害遅延で4時間30分遅れて国鉄側が乗客に準備した駅弁が海苔に巻かれた小ぶりなおにぎり5個が入った横川駅・おぎのや「峠のおむすび」だった。自分で購入した物ではないけど美味しくて夜行列車の味に入れておきたいと思ったのであるが、因みに列車の遅れで国鉄側から供食が提供されたのは始めての経験である。

 

篠ノ井線】まだ長野駅から篠ノ井線と中央線経由で新宿駅行きの鈍行夜行442Mが走っていた時代に長野駅で442Mに乗る前に長野駅のホーム立ち食い蕎麦スタンドで食べたり今は消えてしまったナカジマ会館という駅弁メーカー(2007年くらいに駅弁製造から消滅)が作る「山菜栗おこわ弁当」という醤油味のおこわに栗、ワラビ、竹の子、他が炊き込まれて竹の皮に包まれた駅弁である。ホームの駅立ち食い蕎麦は松本駅みたいに業者が一部違って各自の好みの店を探したりもした。442Mの発車時刻は18:28で発車20分前くらいには入線していたのでお世話になった。

 

更に上野駅を0:30過ぎに発車した臨時急行「信州」に乗った時も長野駅に5時半くらいに到着してホームのそば屋が開くのを待って急いで流し込んで飯山線などに流れたものである。【上越線】最後は上越線だが、信越線以上に夜行列車の本数が多く、「北陸」「能登」「鳥海」「天の川」「佐渡」「733M」や後の「ムーンライト」「鳥海」「出羽」に489系の「能登」など多くの夜行列車が発着したが一番世話になったのが長岡駅だ。米原駅から長岡駅まで旧客鈍行の523列車に乗って長岡から夜行急行「佐渡8号」を待つ時に購入したのが「かにすし弁当」でした。

 

更に3~4年前に大阪から青森まで急行「きたぐに」に乗った時も長岡駅で10分停車した時は長岡駅では朝から闘牛牛めし弁当を購入。急行「きたぐに」の乗車レポートは2019年10月31日にアップしているので参考にして頂ければと思う。確か急行「鳥海」でも長岡駅で弁当を購入しているはずだけど何を購入したのかは思い出せない。次に新津駅だが急行「きたぐに」が停車して9分停車なのをいい事に1番線に面したキオスク売店で大正5年から新津駅売りの名物してして売られている「三色だんご」を購入している。ごま餡、こし餡、白餡の三種類があって北海道の大沼だんごみたいに爪楊枝で刺して食べる。

 

ラストは新潟駅になるけど上り急行「きたぐに」では新潟駅で寝台車を連結するため、まとまった停車時間があり、夕飯の調達ように。更に下り急行「きたぐに」でも遅い朝食時間としても利用可能だし、荒波三色寿し・小鯛寿司・萬代押し寿司などの押し寿司系は缶ビールとの相性もよくて好んで食べました。朝は流石に押し寿司は食べずに鮭の焼き漬け弁当とかを好んで食べていたようです。

 

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

寝台特急 はくつる(B寝台)

1996年1月26日(金曜日)、 青森市内の出張を終えて雪降る青森駅のホームに佇んでいた。仕事自体は17時前で終わったので急げば1026M⇒58B(はつかり26号⇒やまびこ58号)乗り継ぎでも間に合ったけど翌日は土曜日で休みのため、最終新幹線で帰るにも疲れるため帰路は寝台特急はくつる」を選んでタクシーで青森駅に到着早々みどりの窓口寝台特急券だけ購入して帆立三昧(刺身、貝焼き、フライ)の定食が楽しめる店で軽く飲みながら北の幸を楽しんだ。 

 

家族へのリンゴを使ったお菓子を土産に求めてホームに入り、7号車乗車位置で寝台特急はくつる」の入線を待っていると発車時刻15分前の20:15にDE10に牽かれて「はくつる」の回送列車が3番線へ入線。扉が開き早速7号車(オハネフ25-121)に乗り込み、12番下段に荷物を置いて牽引機を見に行くといい具合に雪が付着した田端運転所のEF81-100号機であった。売店で缶ビールと帆立貝柱の燻製を買って車内に戻ると「はくつる」は20:30に静かに発車して上野駅へ向かう。昼間は小康状態だった雪も横殴りの雪へと変わって本格的に降り始め列車は上野駅を目指す。

 

すぐに車掌が回ってきて乗車券と寝台特急券を呈示すると八戸~盛岡間の除雪に手間取っており、多少の遅延が発生するかも知れないとの事だったが上野着が6:08と早すぎるので30分くらいの遅れなら寧ろ歓迎だと言葉に出さなかったけどそう思った。帆立の貝柱燻製マスタード風味をつまみに缶ビールを飲んで客車寝台夜行列車の独特な雰囲気に酔いながら流れゆく雪国の真っ暗な車窓を眺めていると寝台列車っていいな~とつくづく思う。特に雪国の夜行列車や寝台列車に旅情を感じてしまうのは私だけだろうか?。個室ばかりの「北斗星」みたいな観光列車もいいが「はくつる」は演歌が似合いそう。

 

青森駅を出発して34分で野辺地駅(21:04-04)に到着、野辺地といえば翌年の春には運転休止(廃止ではないが事実上の廃止と変わらない)の噂が流れている南部縦貫鉄道レールバス(キハ10系)が見れるのもあと1年と数ヶ月である。外は降り止まぬ雪だが寝台特急はくつる」は今のところ定時運転を確保しているのはありがたい事だ。列車は三沢駅(21:29-30)に到着すると隣のホームに青森駅を20:05に発車した542列車が停車して「はくつる」に道を譲ってくれた。明日の上野着は早朝6:08なので今夜はこれで早めに寝ようと思う。

 

就寝中の所定停車駅時刻は八戸(21:47-49)・三戸(22:05)・二戸(22:19)・一戸(22:25)・盛岡(23:17-19)・宇都宮(4:43-44)。昨夜は寝台のリネンをセットして早々に寝てしまったので大宮駅到着時刻に目が冷めて窓のカーテンを開いてみればまだ宇都宮駅に停車しており、約1時間の遅延である。だったらあと1時間は寝れると寝台にもぐったのだが6時過ぎに車掌のおはよう放送が流れて遅延の詳細と遅れのお詫びであったが終点上野駅到着は1時間くらい遅れそうであるとの放送であった。どうせ遅れるなら2時間くらい遅れて寝坊して、特急料金全額払い戻しなら美味しいのに。

 

ちょうど東大宮~蓮田あたりで外は明るくなって車窓が確認出来るようになったが1時間遅れの6:42に大宮駅へ滑り込んだ。ここまでは1時間遅れで済んだけど土曜日なので朝の通勤電車は通常よりやや少ないけど大宮を出ると中距離電車を抜ける駅はないため、「はくつる」の遅延は中距離電車を遅らせ、更に中距離電車の遅れは「はくつる」の遅れになり、双方の遅れに繋がっていくから遅延は膨らんでしまう。浦和駅赤羽駅でも更に遅れが増してノロノロ運転に輪をかけて尾久駅構内で63分遅れで通過した。途中「あけぼの」の推進回送とすれ違っているから「あけぼの」は所定運転のようだ。

 

しかし上野駅地平ホームが空いてないらしく、暫く停車して数分したらホームが空いたようで寝台特急はくつる」は所定時間より68分遅れて15番線ホームに入線した。除雪に間に合わなくての遅延なので先頭の牽引機はさぞ雪まみれになっているのだろうかと想像したけど下車して15番線ホームを前に見えたEF81-100にはスノープロウと台車足回りに気持ち程度雪が付着していただけで期待した以上にガッカリだったけど25形上り「はくつる」は始めての乗車だったけど楽しむ事ができた。

 

          ★★★★★Memories of the night train★★★★★