夜行列車の想い出

現在ではサンライズ以外廃止になった定期夜行列車だけど過去の夜行列車・想い出乗車レポートと夜行列車に纏わる懐かしい夜行列車ブログです(1975年以降から)

🍴夜行列車の味・関東甲信越🍱

「夜行列車の味・関東甲信越」なんて安易なタイトルを付けてしまったが中央東線篠ノ井線高崎線上越線信越線あたりを中心にした夜行列車に関する想い出のグルメでございます。範囲で言えば新宿~松本・篠ノ井線高崎線・高崎~長野・高崎~新潟を範囲に考えているけど実際に文章を書いてみないと分からないというある意味適当で自分で実際エリアの範疇が押さえられないというふざけている(本人は至って真面目なのであるが)区分になってしまった事をお許しください。

 

2019年10月10日にまとめてUPした「夜行列車から見た好きな風景1~5」の様な意味不明な区分けになってしまったのは致し方ないが夜行列車の始発から終点までの線区で分けると地域で分けるのはどうしても無理が生じてこのような形になってしまう。同じ信越線でも長岡~直江津間と直江津~長野間は北陸部門に入れて次回は「北陸・中部」として本件の記事をまとめるしかなさそう。

 

中央東線上諏訪駅は新宿発長野行きの普通夜行441Mが48~49分間停車していたがホーム立ち食いそばの開店準備しに来た人に言えば開店前に上諏訪駅の駅弁「杣人弁当 」を441Mの発車直前に持ってきてくれて特別に買えた時があったので朝が早いけど鯉の甘露煮やクルミ味噌の付いた御幣餅が入った地域食豊かな駅弁を夜行列車の車内で味わえたのは幸せでした。441Mが松本止まりや上諏訪止まりになって夜行列車で買う機会は減ってしまったのが残念。松本駅は早朝に到着する急行「アルプス」や急行「ちくま」が早朝4~5時に到着する時間を狙って駅弁販売をするのだが自分が利用したのは441Mで8時台に13分停車でもホームの駅弁屋は特急や急行以外は相手にしなくてワゴンも無人だったのである。

 

かなり昔だが自分は大学のサークルで仁科三湖(長野県大町市)へのキャンプ場で合宿へ行く祭、165系の定期夜行急行「アルプス」南小谷行きに乗って松本駅の5分停車で仲間と買って大糸線に入ってから幕の内弁当を開いたが弁当の味まで覚えていないのが残念である。更に松本駅といえば駅ホームの立ち食い蕎麦スタンドの味が美味いのには驚いた。流石に信州蕎麦であるが番線や構内場所によって業者が一部違って味の相違が旅の楽しみであったが今の松本駅なら0番線・1番線ホームか6番線ホームの蕎麦が好みだけど441Mは松本駅で13分停車したのでホーム立ち食い蕎麦屋で蕎麦を啜ったものです。

 

高崎線高崎線といえば上越方面や信越方面の夜行列車で世話になった深夜でも買えたホームのビール自動販売機だろう。自分は苦味ばしったビールが好きなのでキリンのラガーやサントリーのモルツをよく購入したが何度もお世話になった駅でもある。しかし2000年くらいから深夜から早朝にかけて未成年飲酒問題で深夜のホームや駅前で缶ビールを買うのは難しくなってしまった。【信越本線】高崎~長野間が対象で長野~直江津と長岡~直江津は北陸・中部エリアに編入して別の機会に譲る(多分来月かな?)。

 

信越線の駅内で弁当を購入した事は無かったけど1980年12月末に乗った上り夜行急行「越前」(1980年12月末乗車)に乗った際に雪害遅延で4時間30分遅れて国鉄側が乗客に準備した駅弁が海苔に巻かれた小ぶりなおにぎり5個が入った横川駅・おぎのや「峠のおむすび」だった。自分で購入した物ではないけど美味しくて夜行列車の味に入れておきたいと思ったのであるが、因みに列車の遅れで国鉄側から供食が提供されたのは始めての経験である。

 

篠ノ井線】まだ長野駅から篠ノ井線と中央線経由で新宿駅行きの鈍行夜行442Mが走っていた時代に長野駅で442Mに乗る前に長野駅のホーム立ち食い蕎麦スタンドで食べたり今は消えてしまったナカジマ会館という駅弁メーカー(2007年くらいに駅弁製造から消滅)が作る「山菜栗おこわ弁当」という醤油味のおこわに栗、ワラビ、竹の子、他が炊き込まれて竹の皮に包まれた駅弁である。ホームの駅立ち食い蕎麦は松本駅みたいに業者が一部違って各自の好みの店を探したりもした。442Mの発車時刻は18:28で発車20分前くらいには入線していたのでお世話になった。

 

更に上野駅を0:30過ぎに発車した臨時急行「信州」に乗った時も長野駅に5時半くらいに到着してホームのそば屋が開くのを待って急いで流し込んで飯山線などに流れたものである。【上越線】最後は上越線だが、信越線以上に夜行列車の本数が多く、「北陸」「能登」「鳥海」「天の川」「佐渡」「733M」や後の「ムーンライト」「鳥海」「出羽」に489系の「能登」など多くの夜行列車が発着したが一番世話になったのが長岡駅だ。米原駅から長岡駅まで旧客鈍行の523列車に乗って長岡から夜行急行「佐渡8号」を待つ時に購入したのが「かにすし弁当」でした。

 

更に3~4年前に大阪から青森まで急行「きたぐに」に乗った時も長岡駅で10分停車した時は長岡駅では朝から闘牛牛めし弁当を購入。急行「きたぐに」の乗車レポートは2019年10月31日にアップしているので参考にして頂ければと思う。確か急行「鳥海」でも長岡駅で弁当を購入しているはずだけど何を購入したのかは思い出せない。次に新津駅だが急行「きたぐに」が停車して9分停車なのをいい事に1番線に面したキオスク売店で大正5年から新津駅売りの名物してして売られている「三色だんご」を購入している。ごま餡、こし餡、白餡の三種類があって北海道の大沼だんごみたいに爪楊枝で刺して食べる。

 

ラストは新潟駅になるけど上り急行「きたぐに」では新潟駅で寝台車を連結するため、まとまった停車時間があり、夕飯の調達ように。更に下り急行「きたぐに」でも遅い朝食時間としても利用可能だし、荒波三色寿し・小鯛寿司・萬代押し寿司などの押し寿司系は缶ビールとの相性もよくて好んで食べました。朝は流石に押し寿司は食べずに鮭の焼き漬け弁当とかを好んで食べていたようです。

 

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

寝台特急 はくつる(B寝台)

1996年1月26日(金曜日)、 青森市内の出張を終えて雪降る青森駅のホームに佇んでいた。仕事自体は17時前で終わったので急げば1026M⇒58B(はつかり26号⇒やまびこ58号)乗り継ぎでも間に合ったけど翌日は土曜日で休みのため、最終新幹線で帰るにも疲れるため帰路は寝台特急はくつる」を選んでタクシーで青森駅に到着早々みどりの窓口寝台特急券だけ購入して帆立三昧(刺身、貝焼き、フライ)の定食が楽しめる店で軽く飲みながら北の幸を楽しんだ。 

 

家族へのリンゴを使ったお菓子を土産に求めてホームに入り、7号車乗車位置で寝台特急はくつる」の入線を待っていると発車時刻15分前の20:15にDE10に牽かれて「はくつる」の回送列車が3番線へ入線。扉が開き早速7号車(オハネフ25-121)に乗り込み、12番下段に荷物を置いて牽引機を見に行くといい具合に雪が付着した田端運転所のEF81-100号機であった。売店で缶ビールと帆立貝柱の燻製を買って車内に戻ると「はくつる」は20:30に静かに発車して上野駅へ向かう。昼間は小康状態だった雪も横殴りの雪へと変わって本格的に降り始め列車は上野駅を目指す。

 

すぐに車掌が回ってきて乗車券と寝台特急券を呈示すると八戸~盛岡間の除雪に手間取っており、多少の遅延が発生するかも知れないとの事だったが上野着が6:08と早すぎるので30分くらいの遅れなら寧ろ歓迎だと言葉に出さなかったけどそう思った。帆立の貝柱燻製マスタード風味をつまみに缶ビールを飲んで客車寝台夜行列車の独特な雰囲気に酔いながら流れゆく雪国の真っ暗な車窓を眺めていると寝台列車っていいな~とつくづく思う。特に雪国の夜行列車や寝台列車に旅情を感じてしまうのは私だけだろうか?。個室ばかりの「北斗星」みたいな観光列車もいいが「はくつる」は演歌が似合いそう。

 

青森駅を出発して34分で野辺地駅(21:04-04)に到着、野辺地といえば翌年の春には運転休止(廃止ではないが事実上の廃止と変わらない)の噂が流れている南部縦貫鉄道レールバス(キハ10系)が見れるのもあと1年と数ヶ月である。外は降り止まぬ雪だが寝台特急はくつる」は今のところ定時運転を確保しているのはありがたい事だ。列車は三沢駅(21:29-30)に到着すると隣のホームに青森駅を20:05に発車した542列車が停車して「はくつる」に道を譲ってくれた。明日の上野着は早朝6:08なので今夜はこれで早めに寝ようと思う。

 

就寝中の所定停車駅時刻は八戸(21:47-49)・三戸(22:05)・二戸(22:19)・一戸(22:25)・盛岡(23:17-19)・宇都宮(4:43-44)。昨夜は寝台のリネンをセットして早々に寝てしまったので大宮駅到着時刻に目が冷めて窓のカーテンを開いてみればまだ宇都宮駅に停車しており、約1時間の遅延である。だったらあと1時間は寝れると寝台にもぐったのだが6時過ぎに車掌のおはよう放送が流れて遅延の詳細と遅れのお詫びであったが終点上野駅到着は1時間くらい遅れそうであるとの放送であった。どうせ遅れるなら2時間くらい遅れて寝坊して、特急料金全額払い戻しなら美味しいのに。

 

ちょうど東大宮~蓮田あたりで外は明るくなって車窓が確認出来るようになったが1時間遅れの6:42に大宮駅へ滑り込んだ。ここまでは1時間遅れで済んだけど土曜日なので朝の通勤電車は通常よりやや少ないけど大宮を出ると中距離電車を抜ける駅はないため、「はくつる」の遅延は中距離電車を遅らせ、更に中距離電車の遅れは「はくつる」の遅れになり、双方の遅れに繋がっていくから遅延は膨らんでしまう。浦和駅赤羽駅でも更に遅れが増してノロノロ運転に輪をかけて尾久駅構内で63分遅れで通過した。途中「あけぼの」の推進回送とすれ違っているから「あけぼの」は所定運転のようだ。

 

しかし上野駅地平ホームが空いてないらしく、暫く停車して数分したらホームが空いたようで寝台特急はくつる」は所定時間より68分遅れて15番線ホームに入線した。除雪に間に合わなくての遅延なので先頭の牽引機はさぞ雪まみれになっているのだろうかと想像したけど下車して15番線ホームを前に見えたEF81-100にはスノープロウと台車足回りに気持ち程度雪が付着していただけで期待した以上にガッカリだったけど25形上り「はくつる」は始めての乗車だったけど楽しむ事ができた。

 

          ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

 

 

 

 

大垣夜行 372M(グリーン車)

1996年1月14日(日曜日)、大垣駅5番線ホームの4号車東京寄りの乗車口で上り大垣夜行372Mの入線を親子で待っていた。冬の大垣駅5番線ホームは待合室がなくて吹きさらしの上、風通しが良く、厳冬期にこのホームで何時間も待つのは地獄なのだが自分はともかく、小学生3年生の子供に風邪をひかしては元も子もないので貴重品等は外して着替えや時刻表のみ入換えた仮に盗まれてもダメージの少ないリュックを3人目と4人目としてホームに並ばせて自分達は南口を出て中華料理の夕飯を済ませて駅へ戻ると列は伸びて発車1時間前にホームへ入る。

 

本来なら帰路の372Mは普通車乗車で計画していたけど思ったほど予算が掛からなかった(贅沢と言えば美濃太田駅で駅弁のまつたけ釜めし@900円を買ったくらい)のと自分1人なら相席のBOXシートでも問題ないが子供が知らない人と同じBOX席の直角シートで過ごすのも大変だろうかと帰路もグリーン車を利用する事になった。仮に臨時急行「銀河82号」に乗ったと仮定しても急行指定券で大人1740円かかるのだから大差ない。寒さも限界だと感じた発車10分前の22:30に372Mとなる回送電車が入線したので早速乗車すると4号車はサロ165-112であった。

 

往復グリーン車乗車の大垣夜行というのも実は初めてであり、最後の餞としていい記念になりそうだが気軽にいつでも乗れる東海道本線の鈍行(一部区間は快速だけど)座席夜行が消えるのが残念であり寂しく感じる。4号車のやや5号車寄りの座席をキープして発車まで残り時間僅かなのでホームの自販機でソフトドリンクだけ購入して車内に戻るとグリーン車は8割近くの席が埋まっているのは三連休の影響か?。22:40に大垣駅を定時発車した372Mは穂積(22:46)・西岐阜(22:49)・岐阜(22:52-52)・木曽川(22:59)と停車して岐阜県から愛知県へと入った。

 

その後も各駅に停車して名古屋駅(23:19-22)に到着すると下車数以上に乗車があって4号車のグリーン車は全ての席が埋まり、隣の3号車を通路から少し眺めたらそこそこの乗車率があって親子2人で1ボックス占領は到底無理だと思えたが帰路もグリーン車を選んで正解だった。今日は日曜日のためか勤め人の帰宅利用は少なく、長距離の旅行客が中心でホームライナー代わりに大垣夜行を利用する乗客は皆無であったがグリーン車は名古屋を発車して車内灯は減光されているので暗い車内だと眠くなってきそうである。

 

大垣夜行といえばクモハやモハがモーターの唸り音と走行音で騒がしいイメージがあるけどグリーン車は静かで対照的にこのまま気持ちよく寝れそうだ。大府の手前くらいまで記憶があったけどリクライニングを深く倒して気持ちよくそのまま寝てしまったらしい・・・就寝中の停車駅時刻は下記の通り(普通区間は抜粋)。大府(23:43-43)・三河安城(23:55)・岡崎(0:05)・蒲郡(0:19)・豊橋(0:35-36)・浜松(1:02-03)・静岡(1:58-2:00)・富士(2:25-27)・沼津(2:46-56)・熱海(3:12-14)・小田原(3:31-32)・大船(4:01-02)。

 

昨夜は早く寝た影響か、戸塚(4:05通過)の先で目が覚めてしまったが多分清水谷戸隧道走行中の騒音で起きたのだと思う。横浜(4:15-16)を発車すると名古屋くらいから爆睡モードだった子供も起きたので昨夜大垣駅で買って飲まなかった缶コーヒーを飲んでいると川崎(4:24)に到着。僕が学生時代だった頃は上り大垣夜行の344Mは川崎通過(朝の上り東海道線・普通電車も川崎は通過だった)なので横浜駅で降りて動き出したばかりの京浜東北線北行電車で実家最寄り駅のある川崎駅まで移動したのが懐かしい。

 

下車準備を終えて減光から全光に戻った明るい車内照明の中で下車準備をしていると品川(4:33-33)を発車して左手の車窓からライトアップされた東京のシンボルでもある東京タワーが見えて来ると終着駅も近い。今回乗った372Mでは約5時間20分も寝れたので上り大垣夜行が東京駅に近づく時に体感する眠さと気だるさがないのが実にいい。いつも上り大垣夜行なら豊橋くらいまで起きてるし、下り大垣夜行でも熱海や三島くらいまで起きて更に静岡駅で深夜に駅弁が買えた時代は明らかに睡眠不足に陥るのである。

 

まだ眠っている新橋(4:38)駅前のオフィスビル街や有楽町のオフィスビル街を見ながら上り大垣夜行は港区から千代田区へ入り、東京駅へ4:42、定刻どおりに入線した。もう何十回乗ったか数え切れないほど乗った大垣夜行。全区間乗車も途中までの乗車もあって更に大垣夜行折り返し(東京⇒沼津のち東京⇒富士)なんて荒業も青春18きっぷで3~4回経験している。これが最後の大垣夜行フル乗車になった訳だけどひとつの時代が終ったような気がした。

 

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大垣夜行 375M(グリーン車)

1996年1月13日(土曜日)、45年近くも愛用して乗って来た通称「大垣夜行」が同年3月16日ダイヤ改正で全車指定席の快速「ムーンライトながら」に変更されて車両も特急用の373系へと変わり、青春18きっぷ利用期間中だと思い立った時には乗れないので利便性は均しく悪くなる。年末年始・春休み・夏休み期間中には多分臨時大垣夜行(救済臨)が設定されると予測するが定期列車時期に空いてる時期を見計らって少し早めの1月3連休前夜に予定を絞るが数日前に子供も行くと言い出して土曜日出発で1日ずらした。

 

青春18きっぷが使えない時期でも3連休中なので混雑しない訳がないので自分だけ早めに東京駅9番線ホームに5号車の4号車寄りの乗車位置に発車時刻の3時間前へ行くと1番乗りだったが4号車には既に1名先着してて驚く。大垣夜行=並ぶが鉄則なので苦にはならないけど小学3年生の息子には苦行だと思うので10時頃に嫁が連れて来る筈である。出発してる人は金曜日の夜から出てるので土曜日発は空いてそうな気がするけど発車2時間前になると少しずつ並ぶ人が増えて来た。そうこうする内に嫁が子供を連れてきたので大垣夜行の自由席グリーン券(1860円)を渡す。

 

子供のグリーン車利用は贅沢だけど父親と同一行程なら問題はなかろうと思うがグリーン車は大人の証なのでマナーが必要だから乗る前にレクチャーするが本人は興奮して上の空っぽい。今回は都区内発の名古屋・岐阜ミニ周遊券(17510円「子供半額」)なので東海道線:大高~岐阜、関西線:名古屋~四日市、中央線:名古屋~中津川、高山線:名古屋~美濃太田太多線:美濃太田~多治見なので翌日夜の375Mまではそのエリアを徘徊する事になりそうだ。入線直前になると行列も伸びたけど5号車は全員座れる範囲内の混雑程度なので入線直前でも殺伐としないのがいい。

 

22:33に回送電車が入線すると5号車のサロ165-125に乗り込んで5号車のやや4号車寄りの進行方向右側の窓が大きい方の席をキープしてから売店で缶入り水割りウィスキーとツマミを買って車内に戻る。23:40に東京駅を発車すると5号車の空席が4~5席ほどあったが新橋(23:43)で全て埋まり、東京のオフィスビル街の夜景を眺めながら缶入り水割りウィスキーを飲みながら大垣夜行グリーン車に乗るのはこれが最後かと感傷に耽っていたら車掌が現れたので親子でグリーン券と名古屋・岐阜ミニ周遊券を呈示して岐阜~大垣間のはみ出し乗車券を作ってもらった。

 

旧東京機関区の横を通ると一番倉にロイヤルエンジンこと、EF5861が休んでいる姿を確認できて安心。本日や明日の成田臨運用に入れば田端運転所で休んでる筈なので今日か明日はEF5889充当となるようである。品川(23:49)を発車すると土曜日だけあって仕事帰りの乗客は少ないけど6号車の普通車はそこそこの乗車率で通路やデッキに立っている乗客が10名以上いるのは三連休の影響か?。近年は大垣夜行と言えば青春18きっぷの時期しか乗らないので通常の乗客流動率が分からないけど川崎(23:58)を発車してすぐに日付が変わると横浜(0:06-07)を発車してグリーン車は減光される。

 

子供は早々寝ちゃったし、お酒も全て飲んだので流れる車窓を眺めながら初めて乗った347Mや344M・大垣夜行の想い出に浸りながら当時の想い出を懐かしく回想しながら今回で最後になるであろう下り大垣夜行フル乗車を楽しんでいると戸塚(0:17)・大船(0:22-23)と停車しながら藤沢市に入った。前回の375Mフル乗車は1995年8月のお盆時期で子供と京都市内にある梅小路機関車館(現京都鉄道博物館)へ行くのに乗車しているが実は1996年は1月3日に品川から富士駅まで青春18きっぷの消化で由比~興津へEF65ユーロ色の12系臨客と上りブルートレイン撮影で臨時大垣夜行・9375Mへ乗車した。

 

「1995年・夜行列車の列車別ランキング」では大垣夜行が2位だったけど1997年からは確実に3位以下転落が予想される。かつては"夜行列車の列車別ランキング"で「八甲田」や「津軽」が絶えず1位争いをしていたが1996年は乗車回数0では掠りもせず、「大垣夜行」もきっと同じ様に消えてゆく運命の列車なのだろう?・・・なんて考えていたら早々と寝てしまったようだ(実は12日の夜は品川駅と大船駅583系シュプール上越の長時間露光撮影をして帰宅は深夜1時過ぎで帰宅、13日(土曜日)は早朝から強風で2時間遅延の「鳥海」を北本~桶川まで撮影に行って寝不足だったのである。

 

就寝中の停車駅時刻(一部抜粋)・・・小田原(1:01-05)・熱海(1:22-24)・三島(1:35-36)・沼津(1:42-47)・富士(2:02-03)・静岡(2:33-40)・浜松(3:39-4:15)・豊橋(4:49-52)・蒲郡(5:09-09)・岡崎(5:23)・三河安城(5:34)・大府(5:46)。昨夜は辻堂までは覚えていたけど茅ヶ崎相模川を渡ったのに全く気が付かないまま寝てしまったようだ。深夜窓際に座ってる子供がトイレか何処かに行くため、僕の足を蹴飛ばして行ったのは覚えてるけど目が覚めたら笠寺で名古屋到着の車内放送が天井から聞こえていた。

 

普段なら小田原や熱海くらいまで起きているのだがやはり金曜日の深夜1時帰宅と早朝5時から遅延「鳥海」撮影で寝不足だったようだが375Mは定刻で名古屋(6:08-14)へ到着。青春18きっぷ期間でないから名古屋から下り新幹線(「ひかり59号」や「ひかり61号」)へ乗り換える乗客が多く、5号車も名古屋で半数以上が下車。これが青春18きっぷ期間だと7~8割が大垣まで乗り続けるのだが青春18きっぷ適用外期だと客層も違うようである。名古屋での6分停車で朝の缶コーヒーと息子用のジュースを買って朝のまったり時間を過ごしながら西へ向かう。

 

稲沢駅くらいでJR愛知機関区横を通るとつい停まっているDD51EF64を眺めていると木曽川橋梁を渡り、列車は岐阜(6:43-43)に到着した。岐阜を発車すると13分で終着大垣駅なので降りる支度をして待っていると西岐阜と穂積に停車しながら375Mは定刻6:56に大垣駅1番線ホームへ入線した。大垣始発7:11発の新快速5122Mで名古屋駅に戻り、朝食がまだなので名古屋名物モーニング(コーヒーなど飲み物を注文するとサービスでトーストとゆで卵(店によってはサラダも)サービスされる喫茶店で朝食を食べに行く。

 

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

 

 

 

 

🍴夜行列車の味・東北編2🍱

こちらの案件も暫く放置気味で3月1日以来、約2ヶ月振りとなるのだが前回の「夜行列車の味・東北編1」では東北線常磐線だったので、「夜行列車の味・東北編2」では残りの羽越線奥羽線を特集してみたいと思うが羽越線は余りにもネタが少ないので少し困り果てている(苦笑)。他に東北エリアで夜行列車が走った線区は陸羽西線仙山線白新線くらいしかないのだが夜行列車で駅弁を買えた駅はないので困りもの。

 

羽越線秋田駅奥羽線で紹介するので除くとしてまずは「羽後本荘駅」から。1979年の春に青森駅から大阪駅まで乗った夜行急行「きたぐに」で早めの夕飯の駅弁を買おうと羽後本荘駅で買ったのが「すきやき弁当」。羽後本荘市(現由利本荘市)は畜産業で有名との事で牛肉でなくて豚肉のすき焼きに騙された思いで落胆したのだが豚肉だと冷えても硬くならずに美味しく頂けた弁当だけど2000年~2005年くらいに駅弁業者(森川弁当部)が撤退してしまったのが残念・・・鳥海山のフキやワラビも美味かったなぁ。

 

次に紹介するのが「酒田駅」、1984年にまだA寝台を2両連結していた急行「天の川」に乗った際に2分停車で駅弁の立売りがホームに出ていたので購入している。庄内米ササニシ弁当と鳥海釜めしの2種類があったけど買ったのは幕の内弁当風の前者で作りたてなのかご飯がホカホカでこれほど美味しい銘柄米を使った弁当を食べたのは初めてであった。僕の好物であるエビフライ、肉団子、蒲鉾、昆布佃煮も入っているがご飯だけでも充分満足が出来る駅弁であった。製造・発売していた酒田弁当部も2003年頃に駅弁売りから撤退したのが何とも残念である。この先、鶴岡駅や新津駅でも駅弁購入しているが夜行列車ではないので割愛。

 

奥羽線奥羽線も北から紹介する・・・先ずは弘前駅、夜行列車絡みで弘前駅の駅弁を買ったのは後にも先にもこの1回だけである。1980年代前半に弘前駅始発の上野行き、臨時急行「津軽52号」(「津軽54号」だったかも知れない)に乗車するために雪が降るホームの立ち食い蕎麦スタンドへ行くと名称は覚えてないけど和風弁当とか、幕の内弁当で発売元が伯養軒・弘前支店と書いてあったのは覚えている。作ったばかりなのか、保温していたのかまだほんのり温くてガラ空きだった12系座席車の中で発車前から食べたら美味しい事。1月3日だったので五能線内では全く食料が手に入らずに空腹だったのだ。

 

大館駅は「津軽」「あけぼの」「日本海1号」「鳥海」で利用した駅弁購入駅で数え切れないほど大館名物である比内地鶏を使った「鶏めし」が余りにも有名で私も大ファンなのだが始めて食べたのは1970年代後半の急行「津軽1号」か「津軽2号」だったかと思うけど貧しい学生なのに清水の舞台から飛び降りて買ったら樽型容器に入った「鶏樽めし」だった。その後は「鶏めし」だったけど停車時間が少ない時や時間的に立売りを終えてる時間帯の祭は事前に電話で予約して乗車列車と乗車号車を伝えて乗車口まで届けてもらう事も少なくなかった。深夜にブログをPCで作成中だけど思い出しただけで食べたくなる花善の鶏めし。

 

続いて秋田駅、この駅も夕飯や朝食代わりの駅弁購入でお世話になった駅である。旧客や12系・14系の上り急行「津軽」でも駅弁が買えたので非常に重宝した駅だが朝と夜は幕の内弁当系列の「秋田小町弁当」と「牛めし」しか買えなかったが1986年までは東洋軒という駅弁業者も入っており、到着が遅い急行「津軽2号」(1978.10.2から「津軽3号」だと秋田で15分停車(8:53-9:08)するため、改札を出て駅弁売場でとんかつ弁当(カツ丼みたいな玉子とじのかつ煮と別コーナーに生野菜とポテトフライにスパゲティーが盛り付けられてた)を買ったのだが下のご飯まで味が染みてて美味かったけど1987年くらいに駅弁会社としては廃業。しかしホーム販売では関根屋が一手に仕切っていた訳であるが・・・。

 

大曲駅は夜行列車に向けた弁当をホームでは発売してないのだが1991年から1993年の毎週日曜日の昼にNTVで放映していた「みのもんたの世渡りジョーズ!!」というTV番組の駅弁特集で2時間前なら21時までに駅弁1個でもホームへ届けるという話だったので試した事がある。確か秋田駅かその手前くらいから485系急行「津軽」に乗った時で、秋田駅の駅弁に飽きていたので2時間半前にTELして大曲駅に到着すると指定号車の乗車口には弁当をレジ袋に入れた主人が立っていた。暁月堂謹製の「仙北おばこめし」はまだ暖かく、白いご飯に魚フライ、卵焼き、高野豆腐、ちくわ、竹の子煮つけ、昆布佃煮、さつま揚げに蒲鉾、きゅうり漬物(キューちゃん?)と多彩で美味しかった。

 

横手駅で駅弁を買ったのは1982年の12月末に乗った季節列車・急行「おが」で横手駅に到着するとホーム立売りしてたので平源謹製「かまくら弁当」を買ってみた。経木の仕切りがかまくら型になっており、そこに横手のニシキ米を詰め込んで確かにかまくらの形にはなっている。副菜は真鱈のフライに厚焼き卵、高野豆腐、蒲鉾、ひじき煮物、山菜漬けなどおかずが豊富でラベル(掛け紙)が素朴で素敵。とても美味しくて価格も安めなのに1997年には駅弁から撤退してしまったのが残念。そういえば1989年12月29日に運転された臨時夜行快速「エレガンスこまち」に乗った時も「かまくら弁当」の美味さに舌鼓を打ったものである。

 

ここに取り上げた羽後本庄駅酒田駅弘前駅秋田駅(東洋軒のみ)、大曲駅、横手駅の駅弁業者が廃業したり、他社に吸収されて通年発売の駅で売る駅弁から撤退した企業が多いのが残念である。これも時の流れなのかなと思ったりしながら当時を懐かしんでいるが次回は6月以降を計画いており、上越線信越線・中央線・他をに落ち着きそうだ。

 

           ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

 

 

 

ブルートレイン・14系

前回の「ブルートレイン・20系」から2ヶ月以上の月日が経過してしまったがこの手のブログ記事は一部のコアなファン以外は好まれないと思い、時間を空けてしまった感があるけどブルートレインや20系の経緯や歴史などは2021年2月15日のブログ記事を読んでもらうとして今日は続きとしての14系に付いて書いて行きたい。お断りするが14系は14系寝台車の固定編成のみとし、個室改造や食堂車改造に500番台改造のその後まで追ったらえらい事になりそうなので20系の時みたいに第一次ブルートレインブームが始まったゴーサントオくらいまで追いかける事にしたい。

 

【14系特急形寝台客車】従来の電源車を連結した集中電源方式の20系に代わり、第2世代のパイオニア・12系座席客車の技術を生かして基本・付属編成の各両端の緩急車4両の床下にディーゼルエンジン発電装置を搭載した分散電源方式をとり、オハネフ13の後を受け14系特急形寝台客車と名乗って1971年9月に新潟鐵工・富士重工日本車両による量産先行10両が誕生、全車品川客車区へ配置された。

 

14系寝台車では3段寝台ながら移住性向上のため、寝台の幅を52⇒70㎝へと広く改良、電動式の自動寝台設廃(昇降機)装置の採用、各内部の変更のほか、外観も大きく変わり、20系の非貫通流線形の丸い顔が貫通式・ホロ付きの折妻流線形になり、冷房ユニットが各車端屋根家上を削った位置にまとめられた。またニューブルートレインを表象する明るいブルーは従来の20系や一般車両にも使用中の「あさかぜブルー」(青15号)から0系新幹線ブルーの青20号になり、白線は従来の20系の飾り帯や黄色味の濃いクリーム1号から殆ど白に近い「0系アイボリーホワイト」(クリーム10号)へ変えられた。

 

この配色は12系座席車以降の新系列PCの標準となっており3本から2本に減った飾り帯は上幅80㎜幅、下幅60㎜幅で側面と折妻全体に回されている(20系にあった雨どい下の白線は14系から消えた)。20系増備の途中から分割併合の列車(さくら・みずほ・あかつき)が増え、付属編成を運用して2方面に分かれるにはもう1両の電源車(マヤ20等)が必要になった事などから14系では分散電源方式がとられた。その後1972年11月6日未明に北陸トンネル内を走行中の下り急行「きたぐに」(501レ)のオシ17-2018から火災が発生して鉄道火災では未曾有の被害が出てから分散電源方式は危険との事で14系14形の製造は一旦中止になった。

 

1971年9月には14系寝台車が10両品川客車区へ、最終的に1972年9月までに94両まで増産されますがその後は品川から一部が向日町・早岐・青森・尾久へ転属となる。14系14形寝台車の初運用は1971年9月30日の急行「瀬戸」でオロネ10やスロ54にオシ17とスハ・スハフの旧型客車との併結で13両編成の内、3~6号車がスハネフ14とオハネ14であった。これは飽くまで6ヶ月間の試用だったけど「瀬戸」は定期列車なので特別に紹介したが分割併合が特徴の14系14形寝台車にこんな使い方は無駄だと思わざるえない。

 

2番目は1972年3月10日から運用に入った「さくら」「みずほ」「あさかぜ2号」でさくらとみずほに限れば非常に適切な使い方だと思うがなぜ下り「あさかぜ2号」上り「あさかぜ1号」に14系寝台車を投入したのか頭を傾げてしまいたくなるけど1~8号車の基本編成が博多まで、9~14号車の付属編成は下関止まりなのに14系を使うのかよって感じである。ちなみにこの「あさかぜ」は「さくら」「みずほ」と共通運用で同一編成で組成してあるのが特筆される。3番目の14系寝台車投入は1972年夏に14系座席車装備した車両と品川から向日町へ転属した14系を使った「あかつき」(下り3号/上り2号・下り2号/上り3号・下り4号/上り1号)で1972年10月2日からである。

 

続いて4番目に14系寝台車を投入は1975年3月10日からの「いなば」「紀伊」、実は下り「あさかぜ2号」上り「あさかぜ1号」で使っていた車両が20系に戻ったため、いなば/紀伊の運用に入れて同列車の14系化が叶い、東京発着ブルートレイン14系はメンツが揃った。更に同じく、4番目に14系寝台車が投入されたのは「明星」「日本海」である。何と一往復は早岐客貨車区の運用で早岐から長崎へ回送された「あかつき」は大阪駅に到着すると、「日本海」の運用をこなして青森まで行き、大阪へ帰って来ると今度は「あかつき」として長崎まで戻り5日後に早岐へ入区というロングランな運用を組んでいた。

 

更に1973年10月1日からは下り「あかつき5号」と上り「あかつき2号」と併結していた下り「彗星2号」と上り「彗星2号」の一部(9~14号車)にも14系寝台車が使われており、1972年10月2日からの「あかつき」はオロネ14とオシ14も連結されて一部の「あかつき」は食堂車の営業もしていた。さて5番目に14系寝台車を投入したのは1978年10月2日から運用に入ったのは東北・北陸勢の寝台特急ゆうづる」「北星」「北陸」である。14系寝台車が投入された関西発着九州方面ブルートレインに24系24形、24系25形、そして1978年10月2日には14系15形の投入で余剰になった14系14形が東北・北陸方面の列車が回り、本州と九州の寝台特急に新系列客車が広がった。

 

本来なら15形は別の機会を設けようかと思ったが、それも手間なので序に入れてしまおう。急行「きたぐに」の火災で14系寝台車の製造は一旦中止になっているけど分割併合が可能な分散電源方式の特急用寝台客車の気運が高まり、1978年分割併合を行う列車についても2段式寝台を投入するため、電源分散方式の更なる防火安全対策を強化済み・ハロン式自動消火装置を積み、A-A基準に準拠の14系15形を1978年に全車モノクラスで客室内は25形-100番台と同様である。1978年7月~9月に富士重工と新潟鐵工(現新潟トランシス)が担当してスハネフ15を21両、オハネ15を42両、合計63両を全て早岐へ集中配置。

 

1978年10月2日ゴーサントオ白紙ダイヤ改正で「あかつき」2往復分に全て投入するが暫く15形は「あかつき」専用の早岐のみが運用できる新型ブルートレインであったが25形に慣れた乗客からすれば15形は25形と大差なく、14系時代にはあったA寝台や食堂車もなくて不評だったと聞く。

 

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快速 ムーンライト(指定席)

1996年1月5日(金曜日)、2日前に大垣夜行・375Mで静岡県まで行ったばかりだけどその2日後である1月5日に羽越線583系9両(盛アオ車)の団体臨時運用を撮影するためにN君から購入した青春18きっぷの残り1枚を使って青春18きっぷで快速「ムーンライト」で行くために新宿駅5番線で入線を待っていると同じ会社に勤めるN君がやってきたが磐越西線・非電化区間DD51+50系客レが廃止になって快速「ムーンライト」に乗る機会も少なくなってきた。

 

新宿駅でN君と快速「ムーンライト」の回送を待っていると中野方面から22:50に回送が入線したので早速5号車となる上沼垂運転区のモハ164-853に乗り込み、指定された席に荷物を置いて編成(TC165-195+M'164-853+MC165-130)を確認し、階段上がったコンコース売店で缶ビールとツマミを購入して車内に戻った。車内は年末年始明けの金曜日で学生にとっても翌週から学校が始まるので車内は空いているかと予想したが青春18きっぷ最後の週末前夜なので意外と18きっぷ利用客らしき乗客が多くて驚きであるが快速「ムーンライト」は新宿駅を定刻23:03に発車したのでN君と乾杯した。

 

深夜の新宿副都心の夜景を眺めながら列車は池袋(23:11)、赤羽(23:26)と停車しながら山手貨物線埼京線)から東北貨物線へ入り、東京都から埼玉県に入ると大宮(23:40-43)に到着。今夜乗ってる「M'164-853」は1969年6月に東急車輛で新製され、津田沼電車区へ配属後に1972年7月に今度は幕張電車区へ転属。房総半島を走る急行電車の運用に就いたり、臨時で急行「アルプス」「かわぐち」「かいじ」「こまがね」等の運用に入る。1982年11月に新潟運転所へ転配すると急行「佐渡」「よねやま」の運用へ回され、1986年11月・新潟運転所から上沼垂運転所へ移転すると急行「赤倉」・快速「ムーンライト」で使用されるようになる。

 

大宮駅を発車すると快速「ムーンライト」は高崎線へと入るが今宵は3両編成なのと車掌がテキパキと切符チェックを進めて6号車の検札が終ると号車別にデッキの配電盤を開けて減光にしたので我々が乗ってる5号車も吹上駅の手前で減光になった。要領の悪い車掌だと全部終ってから一斉に減光するけど人それぞれにやり方が違う様である。N君と明日はどこで撮影しようか相談するが日本海沿いの冬は鉛色の空で雪晴れは希薄なので今川~越後寒川や今川~桑川の俯瞰で海を入れて撮るのは諦めて天気次第で村上~間島の海バックか天気が悪い時は三面川橋梁に狙いをつける。

 

いつもなら磐越西線の客レ撮影だと4:49着の新津駅で降りるため、早寝するけど今回は終点の村上駅まで行くのでいつもよりは遅くまで起きていると快速「ムーンライト」は高崎駅(0:55-1:09)に停車したため、N君と顔を見合わせながらホームの自販機で缶ビールの350ml缶を購入して乾杯してからリクライニングを倒して寝ることにした。以降は就寝中に停車した駅の時刻・・・長岡駅(4:05-15)・見付駅(4:26)・東三条駅(4:36-37)・加茂駅(4:44)・新津(4:59-59)・新潟(5:12-19)・豊栄(5:32)新発田(5:44-44)・中条(5:55)。目が覚めたら既に列車は逆方向に向いて走っており、白新線から羽越線に入っていた。

 

目が覚めたのは中条~坂町だったので急いで下車準備をしいたら快速「ムーンライト」は定刻6:12に終着村上駅に到着した。どうせ583系の回送電車は2時間後なので現地の天気を調べると曇り時々雪の予報で日本海側方面には鉛色の空なので海バックは無駄だと確認して村上~間島の三面川橋梁に確定である。撮影地までは徒歩30分かかるが年末年始は2人とも不摂生な生活が続いたのでトレーニングを兼ねたいい運動である。9時少し前に通過する583系×9連の回送を撮影して村上駅へ戻り普通電車や快速電車を乗り継いで東京向かった。

 

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★