夜行列車の想い出

現在ではサンライズ以外廃止になった定期夜行列車だけど過去の夜行列車・想い出乗車レポートと夜行列車に纏わる懐かしい夜行列車ブログです(1975年以降から)

大垣夜行 372M(グリーン車)

1996年1月14日(日曜日)、大垣駅5番線ホームの4号車東京寄りの乗車口で上り大垣夜行372Mの入線を親子で待っていた。冬の大垣駅5番線ホームは待合室がなくて吹きさらしの上、風通しが良く、厳冬期にこのホームで何時間も待つのは地獄なのだが自分はともかく、小学生3年生の子供に風邪をひかしては元も子もないので貴重品等は外して着替えや時刻表のみ入換えた仮に盗まれてもダメージの少ないリュックを3人目と4人目としてホームに並ばせて自分達は南口を出て中華料理の夕飯を済ませて駅へ戻ると列は伸びて発車1時間前にホームへ入る。

 

本来なら帰路の372Mは普通車乗車で計画していたけど思ったほど予算が掛からなかった(贅沢と言えば美濃太田駅で駅弁のまつたけ釜めし@900円を買ったくらい)のと自分1人なら相席のBOXシートでも問題ないが子供が知らない人と同じBOX席の直角シートで過ごすのも大変だろうかと帰路もグリーン車を利用する事になった。仮に臨時急行「銀河82号」に乗ったと仮定しても急行指定券で大人1740円かかるのだから大差ない。寒さも限界だと感じた発車10分前の22:30に372Mとなる回送電車が入線したので早速乗車すると4号車はサロ165-112であった。

 

往復グリーン車乗車の大垣夜行というのも実は初めてであり、最後の餞としていい記念になりそうだが気軽にいつでも乗れる東海道本線の鈍行(一部区間は快速だけど)座席夜行が消えるのが残念であり寂しく感じる。4号車のやや5号車寄りの座席をキープして発車まで残り時間僅かなのでホームの自販機でソフトドリンクだけ購入して車内に戻るとグリーン車は8割近くの席が埋まっているのは三連休の影響か?。22:40に大垣駅を定時発車した372Mは穂積(22:46)・西岐阜(22:49)・岐阜(22:52-52)・木曽川(22:59)と停車して岐阜県から愛知県へと入った。

 

その後も各駅に停車して名古屋駅(23:19-22)に到着すると下車数以上に乗車があって4号車のグリーン車は全ての席が埋まり、隣の3号車を通路から少し眺めたらそこそこの乗車率があって親子2人で1ボックス占領は到底無理だと思えたが帰路もグリーン車を選んで正解だった。今日は日曜日のためか勤め人の帰宅利用は少なく、長距離の旅行客が中心でホームライナー代わりに大垣夜行を利用する乗客は皆無であったがグリーン車は名古屋を発車して車内灯は減光されているので暗い車内だと眠くなってきそうである。

 

大垣夜行といえばクモハやモハがモーターの唸り音と走行音で騒がしいイメージがあるけどグリーン車は静かで対照的にこのまま気持ちよく寝れそうだ。大府の手前くらいまで記憶があったけどリクライニングを深く倒して気持ちよくそのまま寝てしまったらしい・・・就寝中の停車駅時刻は下記の通り(普通区間は抜粋)。大府(23:43-43)・三河安城(23:55)・岡崎(0:05)・蒲郡(0:19)・豊橋(0:35-36)・浜松(1:02-03)・静岡(1:58-2:00)・富士(2:25-27)・沼津(2:46-56)・熱海(3:12-14)・小田原(3:31-32)・大船(4:01-02)。

 

昨夜は早く寝た影響か、戸塚(4:05通過)の先で目が覚めてしまったが多分清水谷戸隧道走行中の騒音で起きたのだと思う。横浜(4:15-16)を発車すると名古屋くらいから爆睡モードだった子供も起きたので昨夜大垣駅で買って飲まなかった缶コーヒーを飲んでいると川崎(4:24)に到着。僕が学生時代だった頃は上り大垣夜行の344Mは川崎通過(朝の上り東海道線・普通電車も川崎は通過だった)なので横浜駅で降りて動き出したばかりの京浜東北線北行電車で実家最寄り駅のある川崎駅まで移動したのが懐かしい。

 

下車準備を終えて減光から全光に戻った明るい車内照明の中で下車準備をしていると品川(4:33-33)を発車して左手の車窓からライトアップされた東京のシンボルでもある東京タワーが見えて来ると終着駅も近い。今回乗った372Mでは約5時間20分も寝れたので上り大垣夜行が東京駅に近づく時に体感する眠さと気だるさがないのが実にいい。いつも上り大垣夜行なら豊橋くらいまで起きてるし、下り大垣夜行でも熱海や三島くらいまで起きて更に静岡駅で深夜に駅弁が買えた時代は明らかに睡眠不足に陥るのである。

 

まだ眠っている新橋(4:38)駅前のオフィスビル街や有楽町のオフィスビル街を見ながら上り大垣夜行は港区から千代田区へ入り、東京駅へ4:42、定刻どおりに入線した。もう何十回乗ったか数え切れないほど乗った大垣夜行。全区間乗車も途中までの乗車もあって更に大垣夜行折り返し(東京⇒沼津のち東京⇒富士)なんて荒業も青春18きっぷで3~4回経験している。これが最後の大垣夜行フル乗車になった訳だけどひとつの時代が終ったような気がした。

 

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大垣夜行 375M(グリーン車)

1996年1月13日(土曜日)、45年近くも愛用して乗って来た通称「大垣夜行」が同年3月16日ダイヤ改正で全車指定席の快速「ムーンライトながら」に変更されて車両も特急用の373系へと変わり、青春18きっぷ利用期間中だと思い立った時には乗れないので利便性は均しく悪くなる。年末年始・春休み・夏休み期間中には多分臨時大垣夜行(救済臨)が設定されると予測するが定期列車時期に空いてる時期を見計らって少し早めの1月3連休前夜に予定を絞るが数日前に子供も行くと言い出して土曜日出発で1日ずらした。

 

青春18きっぷが使えない時期でも3連休中なので混雑しない訳がないので自分だけ早めに東京駅9番線ホームに5号車の4号車寄りの乗車位置に発車時刻の3時間前へ行くと1番乗りだったが4号車には既に1名先着してて驚く。大垣夜行=並ぶが鉄則なので苦にはならないけど小学3年生の息子には苦行だと思うので10時頃に嫁が連れて来る筈である。出発してる人は金曜日の夜から出てるので土曜日発は空いてそうな気がするけど発車2時間前になると少しずつ並ぶ人が増えて来た。そうこうする内に嫁が子供を連れてきたので大垣夜行の自由席グリーン券(1860円)を渡す。

 

子供のグリーン車利用は贅沢だけど父親と同一行程なら問題はなかろうと思うがグリーン車は大人の証なのでマナーが必要だから乗る前にレクチャーするが本人は興奮して上の空っぽい。今回は都区内発の名古屋・岐阜ミニ周遊券(17510円「子供半額」)なので東海道線:大高~岐阜、関西線:名古屋~四日市、中央線:名古屋~中津川、高山線:名古屋~美濃太田太多線:美濃太田~多治見なので翌日夜の375Mまではそのエリアを徘徊する事になりそうだ。入線直前になると行列も伸びたけど5号車は全員座れる範囲内の混雑程度なので入線直前でも殺伐としないのがいい。

 

22:33に回送電車が入線すると5号車のサロ165-125に乗り込んで5号車のやや4号車寄りの進行方向右側の窓が大きい方の席をキープしてから売店で缶入り水割りウィスキーとツマミを買って車内に戻る。23:40に東京駅を発車すると5号車の空席が4~5席ほどあったが新橋(23:43)で全て埋まり、東京のオフィスビル街の夜景を眺めながら缶入り水割りウィスキーを飲みながら大垣夜行グリーン車に乗るのはこれが最後かと感傷に耽っていたら車掌が現れたので親子でグリーン券と名古屋・岐阜ミニ周遊券を呈示して岐阜~大垣間のはみ出し乗車券を作ってもらった。

 

旧東京機関区の横を通ると一番倉にロイヤルエンジンこと、EF5861が休んでいる姿を確認できて安心。本日や明日の成田臨運用に入れば田端運転所で休んでる筈なので今日か明日はEF5889充当となるようである。品川(23:49)を発車すると土曜日だけあって仕事帰りの乗客は少ないけど6号車の普通車はそこそこの乗車率で通路やデッキに立っている乗客が10名以上いるのは三連休の影響か?。近年は大垣夜行と言えば青春18きっぷの時期しか乗らないので通常の乗客流動率が分からないけど川崎(23:58)を発車してすぐに日付が変わると横浜(0:06-07)を発車してグリーン車は減光される。

 

子供は早々寝ちゃったし、お酒も全て飲んだので流れる車窓を眺めながら初めて乗った347Mや344M・大垣夜行の想い出に浸りながら当時の想い出を懐かしく回想しながら今回で最後になるであろう下り大垣夜行フル乗車を楽しんでいると戸塚(0:17)・大船(0:22-23)と停車しながら藤沢市に入った。前回の375Mフル乗車は1995年8月のお盆時期で子供と京都市内にある梅小路機関車館(現京都鉄道博物館)へ行くのに乗車しているが実は1996年は1月3日に品川から富士駅まで青春18きっぷの消化で由比~興津へEF65ユーロ色の12系臨客と上りブルートレイン撮影で臨時大垣夜行・9375Mへ乗車した。

 

「1995年・夜行列車の列車別ランキング」では大垣夜行が2位だったけど1997年からは確実に3位以下転落が予想される。かつては"夜行列車の列車別ランキング"で「八甲田」や「津軽」が絶えず1位争いをしていたが1996年は乗車回数0では掠りもせず、「大垣夜行」もきっと同じ様に消えてゆく運命の列車なのだろう?・・・なんて考えていたら早々と寝てしまったようだ(実は12日の夜は品川駅と大船駅583系シュプール上越の長時間露光撮影をして帰宅は深夜1時過ぎで帰宅、13日(土曜日)は早朝から強風で2時間遅延の「鳥海」を北本~桶川まで撮影に行って寝不足だったのである。

 

就寝中の停車駅時刻(一部抜粋)・・・小田原(1:01-05)・熱海(1:22-24)・三島(1:35-36)・沼津(1:42-47)・富士(2:02-03)・静岡(2:33-40)・浜松(3:39-4:15)・豊橋(4:49-52)・蒲郡(5:09-09)・岡崎(5:23)・三河安城(5:34)・大府(5:46)。昨夜は辻堂までは覚えていたけど茅ヶ崎相模川を渡ったのに全く気が付かないまま寝てしまったようだ。深夜窓際に座ってる子供がトイレか何処かに行くため、僕の足を蹴飛ばして行ったのは覚えてるけど目が覚めたら笠寺で名古屋到着の車内放送が天井から聞こえていた。

 

普段なら小田原や熱海くらいまで起きているのだがやはり金曜日の深夜1時帰宅と早朝5時から遅延「鳥海」撮影で寝不足だったようだが375Mは定刻で名古屋(6:08-14)へ到着。青春18きっぷ期間でないから名古屋から下り新幹線(「ひかり59号」や「ひかり61号」)へ乗り換える乗客が多く、5号車も名古屋で半数以上が下車。これが青春18きっぷ期間だと7~8割が大垣まで乗り続けるのだが青春18きっぷ適用外期だと客層も違うようである。名古屋での6分停車で朝の缶コーヒーと息子用のジュースを買って朝のまったり時間を過ごしながら西へ向かう。

 

稲沢駅くらいでJR愛知機関区横を通るとつい停まっているDD51EF64を眺めていると木曽川橋梁を渡り、列車は岐阜(6:43-43)に到着した。岐阜を発車すると13分で終着大垣駅なので降りる支度をして待っていると西岐阜と穂積に停車しながら375Mは定刻6:56に大垣駅1番線ホームへ入線した。大垣始発7:11発の新快速5122Mで名古屋駅に戻り、朝食がまだなので名古屋名物モーニング(コーヒーなど飲み物を注文するとサービスでトーストとゆで卵(店によってはサラダも)サービスされる喫茶店で朝食を食べに行く。

 

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

 

 

 

 

🍴夜行列車の味・東北編2🍱

こちらの案件も暫く放置気味で3月1日以来、約2ヶ月振りとなるのだが前回の「夜行列車の味・東北編1」では東北線常磐線だったので、「夜行列車の味・東北編2」では残りの羽越線奥羽線を特集してみたいと思うが羽越線は余りにもネタが少ないので少し困り果てている(苦笑)。他に東北エリアで夜行列車が走った線区は陸羽西線仙山線白新線くらいしかないのだが夜行列車で駅弁を買えた駅はないので困りもの。

 

羽越線秋田駅奥羽線で紹介するので除くとしてまずは「羽後本荘駅」から。1979年の春に青森駅から大阪駅まで乗った夜行急行「きたぐに」で早めの夕飯の駅弁を買おうと羽後本荘駅で買ったのが「すきやき弁当」。羽後本荘市(現由利本荘市)は畜産業で有名との事で牛肉でなくて豚肉のすき焼きに騙された思いで落胆したのだが豚肉だと冷えても硬くならずに美味しく頂けた弁当だけど2000年~2005年くらいに駅弁業者(森川弁当部)が撤退してしまったのが残念・・・鳥海山のフキやワラビも美味かったなぁ。

 

次に紹介するのが「酒田駅」、1984年にまだA寝台を2両連結していた急行「天の川」に乗った際に2分停車で駅弁の立売りがホームに出ていたので購入している。庄内米ササニシ弁当と鳥海釜めしの2種類があったけど買ったのは幕の内弁当風の前者で作りたてなのかご飯がホカホカでこれほど美味しい銘柄米を使った弁当を食べたのは初めてであった。僕の好物であるエビフライ、肉団子、蒲鉾、昆布佃煮も入っているがご飯だけでも充分満足が出来る駅弁であった。製造・発売していた酒田弁当部も2003年頃に駅弁売りから撤退したのが何とも残念である。この先、鶴岡駅や新津駅でも駅弁購入しているが夜行列車ではないので割愛。

 

奥羽線奥羽線も北から紹介する・・・先ずは弘前駅、夜行列車絡みで弘前駅の駅弁を買ったのは後にも先にもこの1回だけである。1980年代前半に弘前駅始発の上野行き、臨時急行「津軽52号」(「津軽54号」だったかも知れない)に乗車するために雪が降るホームの立ち食い蕎麦スタンドへ行くと名称は覚えてないけど和風弁当とか、幕の内弁当で発売元が伯養軒・弘前支店と書いてあったのは覚えている。作ったばかりなのか、保温していたのかまだほんのり温くてガラ空きだった12系座席車の中で発車前から食べたら美味しい事。1月3日だったので五能線内では全く食料が手に入らずに空腹だったのだ。

 

大館駅は「津軽」「あけぼの」「日本海1号」「鳥海」で利用した駅弁購入駅で数え切れないほど大館名物である比内地鶏を使った「鶏めし」が余りにも有名で私も大ファンなのだが始めて食べたのは1970年代後半の急行「津軽1号」か「津軽2号」だったかと思うけど貧しい学生なのに清水の舞台から飛び降りて買ったら樽型容器に入った「鶏樽めし」だった。その後は「鶏めし」だったけど停車時間が少ない時や時間的に立売りを終えてる時間帯の祭は事前に電話で予約して乗車列車と乗車号車を伝えて乗車口まで届けてもらう事も少なくなかった。深夜にブログをPCで作成中だけど思い出しただけで食べたくなる花善の鶏めし。

 

続いて秋田駅、この駅も夕飯や朝食代わりの駅弁購入でお世話になった駅である。旧客や12系・14系の上り急行「津軽」でも駅弁が買えたので非常に重宝した駅だが朝と夜は幕の内弁当系列の「秋田小町弁当」と「牛めし」しか買えなかったが1986年までは東洋軒という駅弁業者も入っており、到着が遅い急行「津軽2号」(1978.10.2から「津軽3号」だと秋田で15分停車(8:53-9:08)するため、改札を出て駅弁売場でとんかつ弁当(カツ丼みたいな玉子とじのかつ煮と別コーナーに生野菜とポテトフライにスパゲティーが盛り付けられてた)を買ったのだが下のご飯まで味が染みてて美味かったけど1987年くらいに駅弁会社としては廃業。しかしホーム販売では関根屋が一手に仕切っていた訳であるが・・・。

 

大曲駅は夜行列車に向けた弁当をホームでは発売してないのだが1991年から1993年の毎週日曜日の昼にNTVで放映していた「みのもんたの世渡りジョーズ!!」というTV番組の駅弁特集で2時間前なら21時までに駅弁1個でもホームへ届けるという話だったので試した事がある。確か秋田駅かその手前くらいから485系急行「津軽」に乗った時で、秋田駅の駅弁に飽きていたので2時間半前にTELして大曲駅に到着すると指定号車の乗車口には弁当をレジ袋に入れた主人が立っていた。暁月堂謹製の「仙北おばこめし」はまだ暖かく、白いご飯に魚フライ、卵焼き、高野豆腐、ちくわ、竹の子煮つけ、昆布佃煮、さつま揚げに蒲鉾、きゅうり漬物(キューちゃん?)と多彩で美味しかった。

 

横手駅で駅弁を買ったのは1982年の12月末に乗った季節列車・急行「おが」で横手駅に到着するとホーム立売りしてたので平源謹製「かまくら弁当」を買ってみた。経木の仕切りがかまくら型になっており、そこに横手のニシキ米を詰め込んで確かにかまくらの形にはなっている。副菜は真鱈のフライに厚焼き卵、高野豆腐、蒲鉾、ひじき煮物、山菜漬けなどおかずが豊富でラベル(掛け紙)が素朴で素敵。とても美味しくて価格も安めなのに1997年には駅弁から撤退してしまったのが残念。そういえば1989年12月29日に運転された臨時夜行快速「エレガンスこまち」に乗った時も「かまくら弁当」の美味さに舌鼓を打ったものである。

 

ここに取り上げた羽後本庄駅酒田駅弘前駅秋田駅(東洋軒のみ)、大曲駅、横手駅の駅弁業者が廃業したり、他社に吸収されて通年発売の駅で売る駅弁から撤退した企業が多いのが残念である。これも時の流れなのかなと思ったりしながら当時を懐かしんでいるが次回は6月以降を計画いており、上越線信越線・中央線・他をに落ち着きそうだ。

 

           ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

 

 

 

 

ブルートレイン・14系

前回の「ブルートレイン・20系」から2ヶ月以上の月日が経過してしまったがこの手のブログ記事は一部のコアなファン以外は好まれないと思い、時間を空けてしまった感があるけどブルートレインや20系の経緯や歴史などは2021年2月15日のブログ記事を読んでもらうとして今日は続きとしての14系に付いて書いて行きたい。お断りするが14系は14系寝台車の固定編成のみとし、個室改造や食堂車改造に500番台改造のその後まで追ったらえらい事になりそうなので20系の時みたいに第一次ブルートレインブームが始まったゴーサントオくらいまで追いかける事にしたい。

 

【14系特急形寝台客車】従来の電源車を連結した集中電源方式の20系に代わり、第2世代のパイオニア・12系座席客車の技術を生かして基本・付属編成の各両端の緩急車4両の床下にディーゼルエンジン発電装置を搭載した分散電源方式をとり、オハネフ13の後を受け14系特急形寝台客車と名乗って1971年9月に新潟鐵工・富士重工日本車両による量産先行10両が誕生、全車品川客車区へ配置された。

 

14系寝台車では3段寝台ながら移住性向上のため、寝台の幅を52⇒70㎝へと広く改良、電動式の自動寝台設廃(昇降機)装置の採用、各内部の変更のほか、外観も大きく変わり、20系の非貫通流線形の丸い顔が貫通式・ホロ付きの折妻流線形になり、冷房ユニットが各車端屋根家上を削った位置にまとめられた。またニューブルートレインを表象する明るいブルーは従来の20系や一般車両にも使用中の「あさかぜブルー」(青15号)から0系新幹線ブルーの青20号になり、白線は従来の20系の飾り帯や黄色味の濃いクリーム1号から殆ど白に近い「0系アイボリーホワイト」(クリーム10号)へ変えられた。

 

この配色は12系座席車以降の新系列PCの標準となっており3本から2本に減った飾り帯は上幅80㎜幅、下幅60㎜幅で側面と折妻全体に回されている(20系にあった雨どい下の白線は14系から消えた)。20系増備の途中から分割併合の列車(さくら・みずほ・あかつき)が増え、付属編成を運用して2方面に分かれるにはもう1両の電源車(マヤ20等)が必要になった事などから14系では分散電源方式がとられた。その後1972年11月6日未明に北陸トンネル内を走行中の下り急行「きたぐに」(501レ)のオシ17-2018から火災が発生して鉄道火災では未曾有の被害が出てから分散電源方式は危険との事で14系14形の製造は一旦中止になった。

 

1971年9月には14系寝台車が10両品川客車区へ、最終的に1972年9月までに94両まで増産されますがその後は品川から一部が向日町・早岐・青森・尾久へ転属となる。14系14形寝台車の初運用は1971年9月30日の急行「瀬戸」でオロネ10やスロ54にオシ17とスハ・スハフの旧型客車との併結で13両編成の内、3~6号車がスハネフ14とオハネ14であった。これは飽くまで6ヶ月間の試用だったけど「瀬戸」は定期列車なので特別に紹介したが分割併合が特徴の14系14形寝台車にこんな使い方は無駄だと思わざるえない。

 

2番目は1972年3月10日から運用に入った「さくら」「みずほ」「あさかぜ2号」でさくらとみずほに限れば非常に適切な使い方だと思うがなぜ下り「あさかぜ2号」上り「あさかぜ1号」に14系寝台車を投入したのか頭を傾げてしまいたくなるけど1~8号車の基本編成が博多まで、9~14号車の付属編成は下関止まりなのに14系を使うのかよって感じである。ちなみにこの「あさかぜ」は「さくら」「みずほ」と共通運用で同一編成で組成してあるのが特筆される。3番目の14系寝台車投入は1972年夏に14系座席車装備した車両と品川から向日町へ転属した14系を使った「あかつき」(下り3号/上り2号・下り2号/上り3号・下り4号/上り1号)で1972年10月2日からである。

 

続いて4番目に14系寝台車を投入は1975年3月10日からの「いなば」「紀伊」、実は下り「あさかぜ2号」上り「あさかぜ1号」で使っていた車両が20系に戻ったため、いなば/紀伊の運用に入れて同列車の14系化が叶い、東京発着ブルートレイン14系はメンツが揃った。更に同じく、4番目に14系寝台車が投入されたのは「明星」「日本海」である。何と一往復は早岐客貨車区の運用で早岐から長崎へ回送された「あかつき」は大阪駅に到着すると、「日本海」の運用をこなして青森まで行き、大阪へ帰って来ると今度は「あかつき」として長崎まで戻り5日後に早岐へ入区というロングランな運用を組んでいた。

 

更に1973年10月1日からは下り「あかつき5号」と上り「あかつき2号」と併結していた下り「彗星2号」と上り「彗星2号」の一部(9~14号車)にも14系寝台車が使われており、1972年10月2日からの「あかつき」はオロネ14とオシ14も連結されて一部の「あかつき」は食堂車の営業もしていた。さて5番目に14系寝台車を投入したのは1978年10月2日から運用に入ったのは東北・北陸勢の寝台特急ゆうづる」「北星」「北陸」である。14系寝台車が投入された関西発着九州方面ブルートレインに24系24形、24系25形、そして1978年10月2日には14系15形の投入で余剰になった14系14形が東北・北陸方面の列車が回り、本州と九州の寝台特急に新系列客車が広がった。

 

本来なら15形は別の機会を設けようかと思ったが、それも手間なので序に入れてしまおう。急行「きたぐに」の火災で14系寝台車の製造は一旦中止になっているけど分割併合が可能な分散電源方式の特急用寝台客車の気運が高まり、1978年分割併合を行う列車についても2段式寝台を投入するため、電源分散方式の更なる防火安全対策を強化済み・ハロン式自動消火装置を積み、A-A基準に準拠の14系15形を1978年に全車モノクラスで客室内は25形-100番台と同様である。1978年7月~9月に富士重工と新潟鐵工(現新潟トランシス)が担当してスハネフ15を21両、オハネ15を42両、合計63両を全て早岐へ集中配置。

 

1978年10月2日ゴーサントオ白紙ダイヤ改正で「あかつき」2往復分に全て投入するが暫く15形は「あかつき」専用の早岐のみが運用できる新型ブルートレインであったが25形に慣れた乗客からすれば15形は25形と大差なく、14系時代にはあったA寝台や食堂車もなくて不評だったと聞く。

 

        ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

快速 ムーンライト(指定席)

1996年1月5日(金曜日)、2日前に大垣夜行・375Mで静岡県まで行ったばかりだけどその2日後である1月5日に羽越線583系9両(盛アオ車)の団体臨時運用を撮影するためにN君から購入した青春18きっぷの残り1枚を使って青春18きっぷで快速「ムーンライト」で行くために新宿駅5番線で入線を待っていると同じ会社に勤めるN君がやってきたが磐越西線・非電化区間DD51+50系客レが廃止になって快速「ムーンライト」に乗る機会も少なくなってきた。

 

新宿駅でN君と快速「ムーンライト」の回送を待っていると中野方面から22:50に回送が入線したので早速5号車となる上沼垂運転区のモハ164-853に乗り込み、指定された席に荷物を置いて編成(TC165-195+M'164-853+MC165-130)を確認し、階段上がったコンコース売店で缶ビールとツマミを購入して車内に戻った。車内は年末年始明けの金曜日で学生にとっても翌週から学校が始まるので車内は空いているかと予想したが青春18きっぷ最後の週末前夜なので意外と18きっぷ利用客らしき乗客が多くて驚きであるが快速「ムーンライト」は新宿駅を定刻23:03に発車したのでN君と乾杯した。

 

深夜の新宿副都心の夜景を眺めながら列車は池袋(23:11)、赤羽(23:26)と停車しながら山手貨物線埼京線)から東北貨物線へ入り、東京都から埼玉県に入ると大宮(23:40-43)に到着。今夜乗ってる「M'164-853」は1969年6月に東急車輛で新製され、津田沼電車区へ配属後に1972年7月に今度は幕張電車区へ転属。房総半島を走る急行電車の運用に就いたり、臨時で急行「アルプス」「かわぐち」「かいじ」「こまがね」等の運用に入る。1982年11月に新潟運転所へ転配すると急行「佐渡」「よねやま」の運用へ回され、1986年11月・新潟運転所から上沼垂運転所へ移転すると急行「赤倉」・快速「ムーンライト」で使用されるようになる。

 

大宮駅を発車すると快速「ムーンライト」は高崎線へと入るが今宵は3両編成なのと車掌がテキパキと切符チェックを進めて6号車の検札が終ると号車別にデッキの配電盤を開けて減光にしたので我々が乗ってる5号車も吹上駅の手前で減光になった。要領の悪い車掌だと全部終ってから一斉に減光するけど人それぞれにやり方が違う様である。N君と明日はどこで撮影しようか相談するが日本海沿いの冬は鉛色の空で雪晴れは希薄なので今川~越後寒川や今川~桑川の俯瞰で海を入れて撮るのは諦めて天気次第で村上~間島の海バックか天気が悪い時は三面川橋梁に狙いをつける。

 

いつもなら磐越西線の客レ撮影だと4:49着の新津駅で降りるため、早寝するけど今回は終点の村上駅まで行くのでいつもよりは遅くまで起きていると快速「ムーンライト」は高崎駅(0:55-1:09)に停車したため、N君と顔を見合わせながらホームの自販機で缶ビールの350ml缶を購入して乾杯してからリクライニングを倒して寝ることにした。以降は就寝中に停車した駅の時刻・・・長岡駅(4:05-15)・見付駅(4:26)・東三条駅(4:36-37)・加茂駅(4:44)・新津(4:59-59)・新潟(5:12-19)・豊栄(5:32)新発田(5:44-44)・中条(5:55)。目が覚めたら既に列車は逆方向に向いて走っており、白新線から羽越線に入っていた。

 

目が覚めたのは中条~坂町だったので急いで下車準備をしいたら快速「ムーンライト」は定刻6:12に終着村上駅に到着した。どうせ583系の回送電車は2時間後なので現地の天気を調べると曇り時々雪の予報で日本海側方面には鉛色の空なので海バックは無駄だと確認して村上~間島の三面川橋梁に確定である。撮影地までは徒歩30分かかるが年末年始は2人とも不摂生な生活が続いたのでトレーニングを兼ねたいい運動である。9時少し前に通過する583系×9連の回送を撮影して村上駅へ戻り普通電車や快速電車を乗り継いで東京向かった。

 

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

寝台特急 瀬戸(B寝台)

この記事は生まれて初めて乗ったブルートレイン寝台特急「瀬戸」の想い出夜行列車レポートで2019年12月で消えてしまったyahooブログで書いていますが簡単な模写でデーターも不備が多く、一緒に旅をしたM君とお互いに大昔を思い出してスカイプ通話での構築と生前にこのブログの資料を送ってもらった弔いを兼ねて当時の資料を整理して新たに書きおろしてみた僕の人生では初の24系25形で初のブルートレイン乗車である。

 

1977年10月8日(土曜日)、岡山・倉敷ミニ周遊券と「瀬戸」の特急寝台券を手にした僕とM君は東京駅13番線ホームの南口階段付近で寝台特急「瀬戸」の入線を待ちわびていた。僕にとっては583系寝台特急乗車機会はあるものの、ブルートレインは初めてだし、2段ハネに乗るのも初めてで昨日の夜は嬉しくて寝れなかったくらいである。13番線には下関・広島行きの下り寝台特急「あさかぜ2号」(13列車)がまだ停車していたが「あさかぜ2号」が発車した6分後に東京機関区のEF65-529に牽かれた「瀬戸」の回送となる回送15列車が入線した。

 

折戸が開くのももどかしく、扉が開くと1号車のオハネフ25-141(下関運転所)に乗車するとまだピカピカ新車で1977年10月1日付け(実際は1977年9月26日が初運用)なので車内は新車独特の臭いが充満してて指定された席に荷物を置くと24系25形100番台は席に座っても頭上が高くて上段寝台も天井まで余裕があって思わず2人で顔を見合って感動してしまった。「瀬戸」と共通運用の下関「あさかぜ」は全車が25形100番台で電源車までカニ24-100番台が用意されてオール100番台なのである。まさに元祖オール100番台ブルートレインなのだ。

 

実車カニ24-100を見にホームへ行くと電源車なのに貫通ドアがある切妻形でオハネフ25-100番台とほぼ同一の面構えだ(カニ24-100には貫通扉付近に2ヶ所ある握り棒が新設)。「瀬戸」の編成から切り離し、一旦神田駅側に退避したEF65-529はホームがない11番線を回して13番線に停車中の「瀬戸」先頭車であるカニ24-105へ連結されるといよいよ発車準備OKなので我々も車内に戻る。指定券はM君が発車1週間前売り当日の午後に最寄り駅のみどりの窓口にて1号車・中ほどの下段を2枚押さえてくれた。「瀬戸」は東京駅を定刻時刻19:25に発車するといよいよブルートレイン始めての旅が始まった。

 

車掌のきっぷ拝見が終ると銘々が用意した弁当で夕食である。僕は川崎駅で買ってきた崎陽軒シウマイ弁当(500円)、M君は東京駅で買った日本食堂の大江戸弁当(500円)という幕の内弁当で夕飯にするが当時は2人とも大学1年生(19歳)ですが350ml缶ビールでささやかな乾杯をして初のブルートレイン乗車と初の2段ハネ乗車を祝った。初めて25形の車内から見た有楽町~新橋~浜松町のオフィスビルの明かりは普段乗ってる普通列車113系や153系とは別物でこれがブルートレインからの車窓なのかと非日常的な環境に酔いしれていると横浜駅(19:51-51)に到着。

 

世間は明日から連休(日曜日と体育の日)だが、「瀬戸」の1号車は大層空いており、これは座席車も寝台券も通常は3号車の3番(グリーン車・個室や団体枠に禁煙車などは別で例外)から席を売っていくマルス(Multi Access seat Reservation System)の特性で1号車や2号車は最後の方に発売する順番なので空いてても当たり前でこれを逆手にとってM君が敢えて1号車を指定したのである。列車は小田原駅を通過する際に汐留を19:50に出た急行荷物37列車がこの「瀬戸」を先行退避するシーンを目撃、先頭のEF58と荷物車のマニ等を確認する事が出来た。

 

小田原駅より先は人口も大幅に減って家の明かりも減って首都圏を抜けたのが分かるが小田原から先は右側にみかん山、左手に相模湾が見えるけど既に夜間なので外は真っ暗だけどトンネル区間も多く、根府川の鉄橋(白糸川橋梁)など名所も多い区間ゆえ、音でどの辺りを走っているのか分かってしまう自分が怖い。見えない海沿いを進みながら寝台特急「瀬戸」は熱海駅(20:55-56)へ入線。明日は早朝6:00に終着駅の宇野の到着なのでそろそろ寝た方がいいのだろうけど寝てしまうのが勿体なくて周囲に乗客が居ないのをいい事にベッドに横になったまま、M君と静岡駅の手前くらいまで雑談を楽しむ。

 

自分は静岡駅の到着前に寝てしまったようだが全車25形100番台になった車両に付いて説明しよう。「瀬戸」と下り「あさかぜ2号」・上り「あさかぜ1号」は基本編成(1~7号車)は下関運転所の25形(カニ24 101~108、オハネフ25 130~135・141~144・146~149・154~157、オハネ25 153~161・172~185・188~193・201~207)と予備編成(8~13号車は広島運転所の25形(オハネフ25 135~140・145・151~153、オハネ25 162~171・186~187・194~200)の車両で運用している。

 

上から18~19行目に・・・「瀬戸」と共通運用の下関「あさかぜ」は全車が25形100番台で電源車までカニ24-100番台が用意されてオール100番台なので元祖オール100番台なのであると書いてあるが実はこれは間違っており、鉄道ファン誌1978年6月号「ニューブルートレイン」を見て電源車を含むオール100番台は「瀬戸」「下関あさかぜ」より少しだけ早かった1977年9月1日付でオール100番台になった寝台特急「安芸」が先である事が判明。「安芸」なんてまだ20系だと思ったがオール100番台になった「安芸」は翌年の1978年10月2日ダイヤ改正で廃止になった。

 

「瀬戸」1往復と「下関あさかぜ」1往復の運用を担う24系25形100番台の運用番号(広101と広付101)の編成に於けるオハネフ25の切妻方向が全て一定に上り向き側に揃っているのが謎だ。当時の下関あさかぜは広島駅で広付101を切り離したり連結てたのでオハネフ25の切妻は向かい合ってた方が開放や連結するのが楽だと思うが広島運転所に下り向きに連結可能なオハネフ25-200番台の配置が無いのが理由である。車両の話が長く続いてしまったが寝台特急「瀬戸」のレポートへ戻る事にしよう。自分は静岡到着に前に寝てしまったが以下は就寝中の停車駅と時刻。

 

静岡(21:58-22:00)・名古屋(0:14-19)・姫路(0:04-04)・岡山(5:16-12)・・・初めての憧れのブルートレインという事もあって緊張してあまりよく寝れなかったようだがそれでも5時間くらいは熟睡したようで目が覚めて窓のブラインドを上げると岡山駅(5:16-12)へ停車中だった。やはり2段ハネは起きててもベッドで寝てても頭上が高く感じて素晴らしいB寝台車だと思ったくらいである。列車は岡山駅を発車すると山陽本線から宇野線に入るが自分は朝の歯磨きに洗顔を終らせてから寝台へ戻ると列車は茶屋町駅を通過したくらいにM君が起きて来た。

 

当時寝台特急「瀬戸」は日本一早起きのブルートレインと呼ばれて一番早い時間に終着駅へ到着した列車でもあるがあまりにも朝早いのは折角の寝台車なのにもったいない様な気がしてならないと思うのは私だけであろうか?。やがて列車は定刻6:00、終着駅の宇野駅へ到着した。宇高連絡船の5便・高松港行きに接続するが我々は四国へは渡らないので768.7kmを10時間35分で走ったEF65-529[東]の姿とヘッドマークを眺めて一旦改札を出てから吉備線赤穂線と片上鉄道・ 下津井電鉄に乗って宇野駅発・新大阪行きの夜行急行「鷲羽1号(602M)」で帰途に就いた。

 

帰路に乗った上り夜行急行「鷲羽1号」のレポートはこちら

https://hokutosei-95.hatenablog.com/entry/2019/11/01/040315

 

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寝台特急 富士(Bネ)

このブログも前々作、寝台特急はやぶさ」(前編・後編)に続いて前作、急行「日南4号」や急行「かいもん4号」に引き続き2019年12月で消えてしまったyahooブログで書いていますが簡単な模写でデーターも不備が多く、一緒に旅をしたM君が生前に纏めて送ってくれた文章を元に新規で書き下ろしたものです。

 

1978年8月1日(水)、西鹿児島駅で今夜の夜行列車でもある寝台特急「富士」の入線を待っていた・・・なんて書くと夕方か、夜のシーンかと思える内容だけど現在の時刻はまだ朝の9時を過ぎたばかり。流石に日本一距離が長くて時間を要す定期寝台特急の事だけあってこの時間帯に発車した寝台特急は多分「富士」以外にないのではないだろうか?。流石に走行キロ数 1595.9km、所要時刻 24時間29分で結ぶ日本最長距離を走る寝台特急であり、上り「富士」の入線時刻は朝の9時台なのである。まだ朝食を食べてないので駅弁売場で朝食を求めて富士の入線するホームに入ると既に客車の据付は完了していた。

 

基本編成のみなので1号車から6号車の編成をチェックして扉が開いたので6号車のオハネフ25-110に乗り込み荷物を窓際にまとめて置いて先頭に行くと宮崎機関区のDF50561のズルーザーエンジンが聞こえた。1979年9月25日改正で宮崎~西鹿児島間が電化されてED76が牽引するため、DF50先頭の「富士」に乗ったり見たりするのはこれが最初で最後になりそう。西鹿児島駅を定刻9:41に発車すると6分で鹿児島駅(9:47-48)に到着、ここから日豊本線へ入るが朝食がまだの自分達は西鹿児島(現鹿児島中央駅)駅で買ったとんこつ弁当(500円)で遅い朝食にする(ホテルで8時半まで寝坊したため)。

 

海越しの遠くに桜島が見えてきた竜ヶ水~富重あたりで車掌が来て「富士」フル乗車のB寝台・特急券を見ながら東京までですか?と尋ねてきたが今のところフル乗車する乗客は他には居ないけど偶にフル乗車の鉄道ファンを見かけるとの事である。この時間帯はキハ80系の特急「にちりん」の設定はないため、ヒルネ客の利用もいるけどヘヴィースモーカーが2人いる我々のコンパートメントには誰も来ない。鹿児島駅から重富駅までは車窓から錦江湾や対岸の桜島が見えていたけど海から離れると隼人駅(10:20-21)に停車してようやく終着東京駅まで24時間を切った事になる。

 

隼人駅を発車すると肥薩線と分かれ、通過駅の国分駅では国鉄大隅線と別れて霧島神宮駅(10:49)を発車すると遠くに霧島連山韓国岳など)が見えてくると列車は山間部に入って財部~五十一で鹿児島県から宮崎県へと入った。西都城駅(通過)の手前で志布志線と合流して更に吉都線と合流すると寝台特急「富士」は都城駅(11:26-28)に入線した。少し早いけど2分停車を利用してホームの売店で「牛めし」(500円)を購入したが宮崎駅でも9分停車するけど都城駅牛めし駅弁は安くて美味しいと人づてに聞いていたのである。安いと言っても当時煙草のセブンスターが150円だったので決して安くはない。

 

門石信号所~青井岳駅~楠ヶ丘信号所は山中を走り、青井岳の峠を越えて田野駅(何れも通過)から街の中へと入って景色が平凡になったので都城駅で購入した牛めし弁当と車内販売から購入した缶ビールと共に頂いた。南宮崎駅の手前で日南線の線路と混じると寝台特急「富士」は大淀川を渡って宮崎駅(12:25-36)へ到着すると、ヒルネの下車客が降りたが新規の乗客も乗って来た。11分停車なので窓際2人分の荷物を置いてホームに降りて先頭へ急ぐと宮崎機関区のDF50-561が外されると大分機関区のED76-77が連結されると発車準備OK。

 

車内に戻ると乗客の人数も増えており、本州方面の長距離客や大分方面のヒルネ客も増えてるが我々のBOXは誰も来ないのが幸いである。この時間帯の上り日豊本線特急列車は宮崎11:00発の「にちりん5号(5030M)」の後は宮崎14:08発の「にちりん6号(5032M)」まで無いので「富士」のヒルネは時間的にもちょうどよいようだ。宮崎駅を発車して高鍋駅手前から日向灘の海沿いを走ると東都農駅美々津駅ではリニアモーターカーML500の宮崎実験線の軌道が見えてきた。最高時速500km/hで走るML500の勇姿を見る事が出来なくて残念だが列車は日向市駅(13:39-39)に到着した。

 

日向市駅を発車すると少しだけ海沿いを走って高千穂線・乗換駅の延岡駅(14:00-03)を定発したら北川駅だったか、市棚駅だったか忘れたけど運転停車すると前夜東京駅を18:00に発車した下り寝台特急「富士」とすれ違った。更に日付が変わった深夜の兵庫県内でももう1回下り「富士」とすれ違うなんて走行時間が24時間を越える列車は凄いものだと我ながら思った次第である。市棚駅から先は急に山間部へ入り、大小のSカーブを進むと勾配区間も増してトンネルも増えてきた。宗太郎越えとも言う宗太郎峠を進み、宗太郎駅の手前で宮崎県から大分県の県境と分水嶺を越えると下り勾配へと変わったようである。

 

列車は宗太郎を越えても暫くS字カーブが続く山中の中を走っていたが直川駅の先くらいからやっと里の中を走り、上岡駅くらいから街中に入って佐伯駅(15:07-07)に到着。海崎駅を通過すると海に近付くが離れたり近付いたりと車窓の変化が激しくて楽しんでいると西鹿児島駅を発車してとっくに6時間経過した事に気付いたが「富士」の旅にも慣れて中だるみ状態(つまり少し飽きてきた)。煙草を吸いながらM君と雑談したり、今夜の食堂車で食べる夕飯は何にしようかと他愛のない話をしてたら列車は大きな街中に入り、大分駅(16:14-27)に入線しようとしていた。

 

13分停車の大分駅では6号車の前に付属編成の7号車から13号車まで連結するのだが我が6号車のヒルネ客の半分以上が下車して車内は閑散状態。なお大分駅では牽引機も変わってED76の29号機か30号機だったと思う。大分駅から13両編成(電源車を含めると14両編成)に変わり、西大分駅を通過すると東別府駅まで大分湾の海岸線沿いを走って温泉で名高い別府駅(16:39-40)に到着した。17時過ぎに食堂車からの営業案内放送が流れたのでM君と待ってましたとばかりに8号車へ移動してオシ24-2に乗り込んで関門定食を2人前予約してからハムサラダ・エビフライ・牛肉のたたき等を順に注文。

 

行きに乗った「はやぶさ」と帰りに乗ってる「富士」もキリンビール(現ラガービール)を置いてるのでM君と料理を肴にビールで喉を潤していると中津駅(17:47-48)に到着。中津駅発車して、すぐに山国川橋梁を渡ると大分県から九州最後の県でもある福岡県へと入った。南行橋駅行橋駅の間で田川線(現 平成筑豊鉄道田川線)の線路と交わり、城野駅の手前で日田彦山線と合流して西小倉駅小倉駅間では鹿児島本線と合流すると小倉駅(18:34-36)へ到着した。食堂車へ訪れる人も増えてオシ242の調理担当(3名)やウェイトレスも忙しそうである。

 

ビールでかなり酔っ払って鉄話で盛り上り、確か最後にグリルドチキンの単品を注文してナイフとフォークで小さく切ってM君とビールの肴にして最後に〆の関門定食を食べ終えたら列車は門司駅(18:43-48)に停車していた。大いに飲み、大いに食べて会計を終ったら割り勘でも飲食税がかかるくらいの料金で一気に財布の中身が軽くなり、財布の中身は1000円札が3枚と小銭くらしか残っておらず、かなり散財したけど全ての料理が美味しくて二重丸。6号車には向かわずに車内を歩いて先頭の13号車まで歩いてたら列車は関門海底トンネルを出て本州最初の駅でもある下関駅(18:56-19:00)へ到着した。

 

関門トンネル専用のEF30-21が切り離されると東京機関区のEF65-1116へバトンタッチされたのを確認して6号車へ戻るがホーム移動中に発車ベルが鳴ったので車内移動で6号車へ戻ると車内は3~4割程度の乗車率。下関駅を発車すると18分くらいで日没時刻だがやっと夜行列車らしくなってきたけど宇部駅(19:37-37)するとM君が突然西鹿児島駅を発車して「もう10時間が経過しちゃったのだよな・・・あと10時間で浜松駅の先を走っているんだよな」と寂しそうにボソリと呟いた。まだあと半分以上残っているのだからあと半分強楽しもうぜと声をかける。

 

山陽本線を走る寝台特急「富士」は防府駅(20:13)と柳井駅(21:05)にも停車すると我々も寝台にシーツを毛布を広げて枕をセットして寝れる準備をしてから寝具の上に横たわっていたらいつの間にか寝てしまったらしい。以降は就寝時間の停車駅時刻・・・広島(22:07-12)・福山(23:42-42)・岡山(0:25-29)・名古屋(5:08-13)。喉が渇いて目が覚めたら六甲のスラブ軌道(反響音で分かる)を走っており、冷水機の水を飲んで更に寝たのだが2回目に目が覚めたら名古屋駅到着数分前だったので5分停車の名古屋駅ホーム自販機で缶コーヒーを買って車内に戻り、寝台にもぐろうとしていたらM君が起きて来た。

 

2本買った缶コーヒーの1本をM君に渡してまだ寝ている客も多いのでデッキに出て缶コーヒーを飲みながら煙草を吸って朝の一服タイムに軽く雑談。M君は広島駅到着まで起きていたようだが乗車客が多く乗って周囲の寝台にもカーテンが引かれたが自分たちの上の寝台(6号車13番・14番の上段寝台)は空いたままだと説明を受ける。歯を磨いたり洗面を済まして着替えてから自席で一服後に8号車の食堂車(オシ24-2)に移動して朝食を食べに移動する。自分達が口開け客だったが昨夜は沢山飲み食いしたので顔を覚えてもらえて一番で迎えてもらえた。

 

2人で和朝食を注文したが内容はお料理盛り合わせ(揚げたての鮭、かまぼこ、玉子焼き、わさび漬け、香の物)とワカメたっぷり味噌汁、焼き海苔、ご飯で750円。朝は和書に限るなどいつもはパン党のM君まで喜んで最後に別注文のコーヒーをオーダーしたけど和朝食は確か750円だった。和食は限定50食らしいが注文する客の6割が和朝食をオーダーしてるから朝の人気メニューなのかも知れない。食べていると浜松駅(6:30-31)に停車して充分満足してから会計を済まして6号車の自席へ戻った。朝7時半でも上段の寝台は寝ている人が多いけどヒルネがないから寝坊できるものよいものだ。

 

三島~沼津間、狩野川水系の黄瀬川橋梁からや三島~函南の竹倉踏切からも確認したけど富士山は見えなかったが列車は丹那隧道を出ると来宮駅の横を通過して早いものでもう熱海駅(8:36-38)へ到着。2分停車を生かしてホームに降りて売店があったわさび漬を買う事に成功したが私の所為で熱海発車時刻が15秒遅れたとはM君の弁。熱海駅を発車すると湯河原駅の手間にある千歳川を渡ると神奈川県に入り、ここから早川駅までは通路側の窓から相模湾が見えるので暫し海を眺めると早いもので小田原駅を一瞬に通過したが浜松発・東京行きの330Mを退避させて抜いた。

 

小田原から東京まではすぐなので下車準備だけしてラストの上り「富士」を楽しむがこの辺りは並走する東海道貨物線を走るや貨物列車とのすれ違いや追い越しなどが楽しめる区間だが途中でEF65Fが牽引する専用貨物を追い抜いて相模川を渡り、大船駅では退避中の2830Mを抜き、横浜市に入ると大船観音が見えてきた。大船~東京間は東海道線横須賀線が同じレールの上を走るので列車密度が増えて清水谷戸隋道を出ると横浜駅到着の案内放送が聞こえて来た。横浜駅に近付くと昨日西鹿児島駅を発車してからちょうど24時間が経過する。

 

横浜駅(9:42-43)へ停車すると隣の小田原発⇒東京行きの872M(9:40-45)を退避させて我が寝台特急「富士」が先に発車すると次は終着駅の東京駅である。横浜線の72系や京浜東北線103系を見ながら走り、長くて短かった「はやぶさ」「日南」「かいもん」「富士」の九州旅行を振り返りながら川崎の矢向踏切近くのある僕の家を一瞬に通過すると川崎駅と六郷川多摩川)を渡って都内に入り、品川駅先にある田町電車区・品川客車区・東京機関区の一大現業機関を横目に見ていたら車内放送が東京駅到着と乗り継ぎ案内を始めて東京駅12番線に定刻10:10到着した。

 

機関車番号と列車の時刻はメモ帳への書き込みミスがあるかも知れないが大きな間違いはないと思う。前のyahooブログでは「はやぶさ」と「富士」のみ簡単な感想としてレポートはしているが2019年春にM君とSkype通話で今回の九州旅行と来週UPする1977年に乗った下り「瀬戸」のレポート構築してやっとマトモなレポートを発表できる事になったが2019年夏の交通事故で一番読んで欲しかった人が既にこの世に居ないのが何とも悲しく切ない。

 

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