夜行列車の想い出

現在ではサンライズ以外廃止になった定期夜行列車だけど過去の夜行列車・想い出乗車レポートと夜行列車に纏わる懐かしい夜行列車ブログです(1975年以降から)

寝台特急 瀬戸(B寝台)

この記事は生まれて初めて乗ったブルートレイン寝台特急「瀬戸」の想い出夜行列車レポートで2019年12月で消えてしまったyahooブログで書いていますが簡単な模写でデーターも不備が多く、一緒に旅をしたM君とお互いに大昔を思い出してスカイプ通話での構築と生前にこのブログの資料を送ってもらった弔いを兼ねて当時の資料を整理して新たに書きおろしてみた僕の人生では初の24系25形で初のブルートレイン乗車である。

 

1977年10月8日(土曜日)、岡山・倉敷ミニ周遊券と「瀬戸」の特急寝台券を手にした僕とM君は東京駅13番線ホームの南口階段付近で寝台特急「瀬戸」の入線を待ちわびていた。僕にとっては583系寝台特急乗車機会はあるものの、ブルートレインは初めてだし、2段ハネに乗るのも初めてで昨日の夜は嬉しくて寝れなかったくらいである。13番線には下関・広島行きの下り寝台特急「あさかぜ2号」(13列車)がまだ停車していたが「あさかぜ2号」が発車した6分後に東京機関区のEF65-529に牽かれた「瀬戸」の回送となる回送15列車が入線した。

 

折戸が開くのももどかしく、扉が開くと1号車のオハネフ25-141(下関運転所)に乗車するとまだピカピカ新車で1977年10月1日付け(実際は1977年9月26日が初運用)なので車内は新車独特の臭いが充満してて指定された席に荷物を置くと24系25形100番台は席に座っても頭上が高くて上段寝台も天井まで余裕があって思わず2人で顔を見合って感動してしまった。「瀬戸」と共通運用の下関「あさかぜ」は全車が25形100番台で電源車までカニ24-100番台が用意されてオール100番台なのである。まさに元祖オール100番台ブルートレインなのだ。

 

実車カニ24-100を見にホームへ行くと電源車なのに貫通ドアがある切妻形でオハネフ25-100番台とほぼ同一の面構えだ(カニ24-100には貫通扉付近に2ヶ所ある握り棒が新設)。「瀬戸」の編成から切り離し、一旦神田駅側に退避したEF65-529はホームがない11番線を回して13番線に停車中の「瀬戸」先頭車であるカニ24-105へ連結されるといよいよ発車準備OKなので我々も車内に戻る。指定券はM君が発車1週間前売り当日の午後に最寄り駅のみどりの窓口にて1号車・中ほどの下段を2枚押さえてくれた。「瀬戸」は東京駅を定刻時刻19:25に発車するといよいよブルートレイン始めての旅が始まった。

 

車掌のきっぷ拝見が終ると銘々が用意した弁当で夕食である。僕は川崎駅で買ってきた崎陽軒シウマイ弁当(500円)、M君は東京駅で買った日本食堂の大江戸弁当(500円)という幕の内弁当で夕飯にするが当時は2人とも大学1年生(19歳)ですが350ml缶ビールでささやかな乾杯をして初のブルートレイン乗車と初の2段ハネ乗車を祝った。初めて25形の車内から見た有楽町~新橋~浜松町のオフィスビルの明かりは普段乗ってる普通列車113系や153系とは別物でこれがブルートレインからの車窓なのかと非日常的な環境に酔いしれていると横浜駅(19:51-51)に到着。

 

世間は明日から連休(日曜日と体育の日)だが、「瀬戸」の1号車は大層空いており、これは座席車も寝台券も通常は3号車の3番(グリーン車・個室や団体枠に禁煙車などは別で例外)から席を売っていくマルス(Multi Access seat Reservation System)の特性で1号車や2号車は最後の方に発売する順番なので空いてても当たり前でこれを逆手にとってM君が敢えて1号車を指定したのである。列車は小田原駅を通過する際に汐留を19:50に出た急行荷物37列車がこの「瀬戸」を先行退避するシーンを目撃、先頭のEF58と荷物車のマニ等を確認する事が出来た。

 

小田原駅より先は人口も大幅に減って家の明かりも減って首都圏を抜けたのが分かるが小田原から先は右側にみかん山、左手に相模湾が見えるけど既に夜間なので外は真っ暗だけどトンネル区間も多く、根府川の鉄橋(白糸川橋梁)など名所も多い区間ゆえ、音でどの辺りを走っているのか分かってしまう自分が怖い。見えない海沿いを進みながら寝台特急「瀬戸」は熱海駅(20:55-56)へ入線。明日は早朝6:00に終着駅の宇野の到着なのでそろそろ寝た方がいいのだろうけど寝てしまうのが勿体なくて周囲に乗客が居ないのをいい事にベッドに横になったまま、M君と静岡駅の手前くらいまで雑談を楽しむ。

 

自分は静岡駅の到着前に寝てしまったようだが全車25形100番台になった車両に付いて説明しよう。「瀬戸」と下り「あさかぜ2号」・上り「あさかぜ1号」は基本編成(1~7号車)は下関運転所の25形(カニ24 101~108、オハネフ25 130~135・141~144・146~149・154~157、オハネ25 153~161・172~185・188~193・201~207)と予備編成(8~13号車は広島運転所の25形(オハネフ25 135~140・145・151~153、オハネ25 162~171・186~187・194~200)の車両で運用している。

 

上から18~19行目に・・・「瀬戸」と共通運用の下関「あさかぜ」は全車が25形100番台で電源車までカニ24-100番台が用意されてオール100番台なので元祖オール100番台なのであると書いてあるが実はこれは間違っており、鉄道ファン誌1978年6月号「ニューブルートレイン」を見て電源車を含むオール100番台は「瀬戸」「下関あさかぜ」より少しだけ早かった1977年9月1日付でオール100番台になった寝台特急「安芸」が先である事が判明。「安芸」なんてまだ20系だと思ったがオール100番台になった「安芸」は翌年の1978年10月2日ダイヤ改正で廃止になった。

 

「瀬戸」1往復と「下関あさかぜ」1往復の運用を担う24系25形100番台の運用番号(広101と広付101)の編成に於けるオハネフ25の切妻方向が全て一定に上り向き側に揃っているのが謎だ。当時の下関あさかぜは広島駅で広付101を切り離したり連結てたのでオハネフ25の切妻は向かい合ってた方が開放や連結するのが楽だと思うが広島運転所に下り向きに連結可能なオハネフ25-200番台の配置が無いのが理由である。車両の話が長く続いてしまったが寝台特急「瀬戸」のレポートへ戻る事にしよう。自分は静岡到着に前に寝てしまったが以下は就寝中の停車駅と時刻。

 

静岡(21:58-22:00)・名古屋(0:14-19)・姫路(0:04-04)・岡山(5:16-12)・・・初めての憧れのブルートレインという事もあって緊張してあまりよく寝れなかったようだがそれでも5時間くらいは熟睡したようで目が覚めて窓のブラインドを上げると岡山駅(5:16-12)へ停車中だった。やはり2段ハネは起きててもベッドで寝てても頭上が高く感じて素晴らしいB寝台車だと思ったくらいである。列車は岡山駅を発車すると山陽本線から宇野線に入るが自分は朝の歯磨きに洗顔を終らせてから寝台へ戻ると列車は茶屋町駅を通過したくらいにM君が起きて来た。

 

当時寝台特急「瀬戸」は日本一早起きのブルートレインと呼ばれて一番早い時間に終着駅へ到着した列車でもあるがあまりにも朝早いのは折角の寝台車なのにもったいない様な気がしてならないと思うのは私だけであろうか?。やがて列車は定刻6:00、終着駅の宇野駅へ到着した。宇高連絡船の5便・高松港行きに接続するが我々は四国へは渡らないので768.7kmを10時間35分で走ったEF65-529[東]の姿とヘッドマークを眺めて一旦改札を出てから吉備線赤穂線と片上鉄道・ 下津井電鉄に乗って宇野駅発・新大阪行きの夜行急行「鷲羽1号(602M)」で帰途に就いた。

 

帰路に乗った上り夜行急行「鷲羽1号」のレポートはこちら

https://hokutosei-95.hatenablog.com/entry/2019/11/01/040315

 

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寝台特急 富士(Bネ)

このブログも前々作、寝台特急はやぶさ」(前編・後編)に続いて前作、急行「日南4号」や急行「かいもん4号」に引き続き2019年12月で消えてしまったyahooブログで書いていますが簡単な模写でデーターも不備が多く、一緒に旅をしたM君が生前に纏めて送ってくれた文章を元に新規で書き下ろしたものです。

 

1978年8月1日(水)、西鹿児島駅で今夜の夜行列車でもある寝台特急「富士」の入線を待っていた・・・なんて書くと夕方か、夜のシーンかと思える内容だけど現在の時刻はまだ朝の9時を過ぎたばかり。流石に日本一距離が長くて時間を要す定期寝台特急の事だけあってこの時間帯に発車した寝台特急は多分「富士」以外にないのではないだろうか?。流石に走行キロ数 1595.9km、所要時刻 24時間29分で結ぶ日本最長距離を走る寝台特急であり、上り「富士」の入線時刻は朝の9時台なのである。まだ朝食を食べてないので駅弁売場で朝食を求めて富士の入線するホームに入ると既に客車の据付は完了していた。

 

基本編成のみなので1号車から6号車の編成をチェックして扉が開いたので6号車のオハネフ25-110に乗り込み荷物を窓際にまとめて置いて先頭に行くと宮崎機関区のDF50561のズルーザーエンジンが聞こえた。1979年9月25日改正で宮崎~西鹿児島間が電化されてED76が牽引するため、DF50先頭の「富士」に乗ったり見たりするのはこれが最初で最後になりそう。西鹿児島駅を定刻9:41に発車すると6分で鹿児島駅(9:47-48)に到着、ここから日豊本線へ入るが朝食がまだの自分達は西鹿児島(現鹿児島中央駅)駅で買ったとんこつ弁当(500円)で遅い朝食にする(ホテルで8時半まで寝坊したため)。

 

海越しの遠くに桜島が見えてきた竜ヶ水~富重あたりで車掌が来て「富士」フル乗車のB寝台・特急券を見ながら東京までですか?と尋ねてきたが今のところフル乗車する乗客は他には居ないけど偶にフル乗車の鉄道ファンを見かけるとの事である。この時間帯はキハ80系の特急「にちりん」の設定はないため、ヒルネ客の利用もいるけどヘヴィースモーカーが2人いる我々のコンパートメントには誰も来ない。鹿児島駅から重富駅までは車窓から錦江湾や対岸の桜島が見えていたけど海から離れると隼人駅(10:20-21)に停車してようやく終着東京駅まで24時間を切った事になる。

 

隼人駅を発車すると肥薩線と分かれ、通過駅の国分駅では国鉄大隅線と別れて霧島神宮駅(10:49)を発車すると遠くに霧島連山韓国岳など)が見えてくると列車は山間部に入って財部~五十一で鹿児島県から宮崎県へと入った。西都城駅(通過)の手前で志布志線と合流して更に吉都線と合流すると寝台特急「富士」は都城駅(11:26-28)に入線した。少し早いけど2分停車を利用してホームの売店で「牛めし」(500円)を購入したが宮崎駅でも9分停車するけど都城駅牛めし駅弁は安くて美味しいと人づてに聞いていたのである。安いと言っても当時煙草のセブンスターが150円だったので決して安くはない。

 

門石信号所~青井岳駅~楠ヶ丘信号所は山中を走り、青井岳の峠を越えて田野駅(何れも通過)から街の中へと入って景色が平凡になったので都城駅で購入した牛めし弁当と車内販売から購入した缶ビールと共に頂いた。南宮崎駅の手前で日南線の線路と混じると寝台特急「富士」は大淀川を渡って宮崎駅(12:25-36)へ到着すると、ヒルネの下車客が降りたが新規の乗客も乗って来た。11分停車なので窓際2人分の荷物を置いてホームに降りて先頭へ急ぐと宮崎機関区のDF50-561が外されると大分機関区のED76-77が連結されると発車準備OK。

 

車内に戻ると乗客の人数も増えており、本州方面の長距離客や大分方面のヒルネ客も増えてるが我々のBOXは誰も来ないのが幸いである。この時間帯の上り日豊本線特急列車は宮崎11:00発の「にちりん5号(5030M)」の後は宮崎14:08発の「にちりん6号(5032M)」まで無いので「富士」のヒルネは時間的にもちょうどよいようだ。宮崎駅を発車して高鍋駅手前から日向灘の海沿いを走ると東都農駅美々津駅ではリニアモーターカーML500の宮崎実験線の軌道が見えてきた。最高時速500km/hで走るML500の勇姿を見る事が出来なくて残念だが列車は日向市駅(13:39-39)に到着した。

 

日向市駅を発車すると少しだけ海沿いを走って高千穂線・乗換駅の延岡駅(14:00-03)を定発したら北川駅だったか、市棚駅だったか忘れたけど運転停車すると前夜東京駅を18:00に発車した下り寝台特急「富士」とすれ違った。更に日付が変わった深夜の兵庫県内でももう1回下り「富士」とすれ違うなんて走行時間が24時間を越える列車は凄いものだと我ながら思った次第である。市棚駅から先は急に山間部へ入り、大小のSカーブを進むと勾配区間も増してトンネルも増えてきた。宗太郎越えとも言う宗太郎峠を進み、宗太郎駅の手前で宮崎県から大分県の県境と分水嶺を越えると下り勾配へと変わったようである。

 

列車は宗太郎を越えても暫くS字カーブが続く山中の中を走っていたが直川駅の先くらいからやっと里の中を走り、上岡駅くらいから街中に入って佐伯駅(15:07-07)に到着。海崎駅を通過すると海に近付くが離れたり近付いたりと車窓の変化が激しくて楽しんでいると西鹿児島駅を発車してとっくに6時間経過した事に気付いたが「富士」の旅にも慣れて中だるみ状態(つまり少し飽きてきた)。煙草を吸いながらM君と雑談したり、今夜の食堂車で食べる夕飯は何にしようかと他愛のない話をしてたら列車は大きな街中に入り、大分駅(16:14-27)に入線しようとしていた。

 

13分停車の大分駅では6号車の前に付属編成の7号車から13号車まで連結するのだが我が6号車のヒルネ客の半分以上が下車して車内は閑散状態。なお大分駅では牽引機も変わってED76の29号機か30号機だったと思う。大分駅から13両編成(電源車を含めると14両編成)に変わり、西大分駅を通過すると東別府駅まで大分湾の海岸線沿いを走って温泉で名高い別府駅(16:39-40)に到着した。17時過ぎに食堂車からの営業案内放送が流れたのでM君と待ってましたとばかりに8号車へ移動してオシ24-2に乗り込んで関門定食を2人前予約してからハムサラダ・エビフライ・牛肉のたたき等を順に注文。

 

行きに乗った「はやぶさ」と帰りに乗ってる「富士」もキリンビール(現ラガービール)を置いてるのでM君と料理を肴にビールで喉を潤していると中津駅(17:47-48)に到着。中津駅発車して、すぐに山国川橋梁を渡ると大分県から九州最後の県でもある福岡県へと入った。南行橋駅行橋駅の間で田川線(現 平成筑豊鉄道田川線)の線路と交わり、城野駅の手前で日田彦山線と合流して西小倉駅小倉駅間では鹿児島本線と合流すると小倉駅(18:34-36)へ到着した。食堂車へ訪れる人も増えてオシ242の調理担当(3名)やウェイトレスも忙しそうである。

 

ビールでかなり酔っ払って鉄話で盛り上り、確か最後にグリルドチキンの単品を注文してナイフとフォークで小さく切ってM君とビールの肴にして最後に〆の関門定食を食べ終えたら列車は門司駅(18:43-48)に停車していた。大いに飲み、大いに食べて会計を終ったら割り勘でも飲食税がかかるくらいの料金で一気に財布の中身が軽くなり、財布の中身は1000円札が3枚と小銭くらしか残っておらず、かなり散財したけど全ての料理が美味しくて二重丸。6号車には向かわずに車内を歩いて先頭の13号車まで歩いてたら列車は関門海底トンネルを出て本州最初の駅でもある下関駅(18:56-19:00)へ到着した。

 

関門トンネル専用のEF30-21が切り離されると東京機関区のEF65-1116へバトンタッチされたのを確認して6号車へ戻るがホーム移動中に発車ベルが鳴ったので車内移動で6号車へ戻ると車内は3~4割程度の乗車率。下関駅を発車すると18分くらいで日没時刻だがやっと夜行列車らしくなってきたけど宇部駅(19:37-37)するとM君が突然西鹿児島駅を発車して「もう10時間が経過しちゃったのだよな・・・あと10時間で浜松駅の先を走っているんだよな」と寂しそうにボソリと呟いた。まだあと半分以上残っているのだからあと半分強楽しもうぜと声をかける。

 

山陽本線を走る寝台特急「富士」は防府駅(20:13)と柳井駅(21:05)にも停車すると我々も寝台にシーツを毛布を広げて枕をセットして寝れる準備をしてから寝具の上に横たわっていたらいつの間にか寝てしまったらしい。以降は就寝時間の停車駅時刻・・・広島(22:07-12)・福山(23:42-42)・岡山(0:25-29)・名古屋(5:08-13)。喉が渇いて目が覚めたら六甲のスラブ軌道(反響音で分かる)を走っており、冷水機の水を飲んで更に寝たのだが2回目に目が覚めたら名古屋駅到着数分前だったので5分停車の名古屋駅ホーム自販機で缶コーヒーを買って車内に戻り、寝台にもぐろうとしていたらM君が起きて来た。

 

2本買った缶コーヒーの1本をM君に渡してまだ寝ている客も多いのでデッキに出て缶コーヒーを飲みながら煙草を吸って朝の一服タイムに軽く雑談。M君は広島駅到着まで起きていたようだが乗車客が多く乗って周囲の寝台にもカーテンが引かれたが自分たちの上の寝台(6号車13番・14番の上段寝台)は空いたままだと説明を受ける。歯を磨いたり洗面を済まして着替えてから自席で一服後に8号車の食堂車(オシ24-2)に移動して朝食を食べに移動する。自分達が口開け客だったが昨夜は沢山飲み食いしたので顔を覚えてもらえて一番で迎えてもらえた。

 

2人で和朝食を注文したが内容はお料理盛り合わせ(揚げたての鮭、かまぼこ、玉子焼き、わさび漬け、香の物)とワカメたっぷり味噌汁、焼き海苔、ご飯で750円。朝は和書に限るなどいつもはパン党のM君まで喜んで最後に別注文のコーヒーをオーダーしたけど和朝食は確か750円だった。和食は限定50食らしいが注文する客の6割が和朝食をオーダーしてるから朝の人気メニューなのかも知れない。食べていると浜松駅(6:30-31)に停車して充分満足してから会計を済まして6号車の自席へ戻った。朝7時半でも上段の寝台は寝ている人が多いけどヒルネがないから寝坊できるものよいものだ。

 

三島~沼津間、狩野川水系の黄瀬川橋梁からや三島~函南の竹倉踏切からも確認したけど富士山は見えなかったが列車は丹那隧道を出ると来宮駅の横を通過して早いものでもう熱海駅(8:36-38)へ到着。2分停車を生かしてホームに降りて売店があったわさび漬を買う事に成功したが私の所為で熱海発車時刻が15秒遅れたとはM君の弁。熱海駅を発車すると湯河原駅の手間にある千歳川を渡ると神奈川県に入り、ここから早川駅までは通路側の窓から相模湾が見えるので暫し海を眺めると早いもので小田原駅を一瞬に通過したが浜松発・東京行きの330Mを退避させて抜いた。

 

小田原から東京まではすぐなので下車準備だけしてラストの上り「富士」を楽しむがこの辺りは並走する東海道貨物線を走るや貨物列車とのすれ違いや追い越しなどが楽しめる区間だが途中でEF65Fが牽引する専用貨物を追い抜いて相模川を渡り、大船駅では退避中の2830Mを抜き、横浜市に入ると大船観音が見えてきた。大船~東京間は東海道線横須賀線が同じレールの上を走るので列車密度が増えて清水谷戸隋道を出ると横浜駅到着の案内放送が聞こえて来た。横浜駅に近付くと昨日西鹿児島駅を発車してからちょうど24時間が経過する。

 

横浜駅(9:42-43)へ停車すると隣の小田原発⇒東京行きの872M(9:40-45)を退避させて我が寝台特急「富士」が先に発車すると次は終着駅の東京駅である。横浜線の72系や京浜東北線103系を見ながら走り、長くて短かった「はやぶさ」「日南」「かいもん」「富士」の九州旅行を振り返りながら川崎の矢向踏切近くのある僕の家を一瞬に通過すると川崎駅と六郷川多摩川)を渡って都内に入り、品川駅先にある田町電車区・品川客車区・東京機関区の一大現業機関を横目に見ていたら車内放送が東京駅到着と乗り継ぎ案内を始めて東京駅12番線に定刻10:10到着した。

 

機関車番号と列車の時刻はメモ帳への書き込みミスがあるかも知れないが大きな間違いはないと思う。前のyahooブログでは「はやぶさ」と「富士」のみ簡単な感想としてレポートはしているが2019年春にM君とSkype通話で今回の九州旅行と来週UPする1977年に乗った下り「瀬戸」のレポート構築してやっとマトモなレポートを発表できる事になったが2019年夏の交通事故で一番読んで欲しかった人が既にこの世に居ないのが何とも悲しく切ない。

 

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急行 かいもん4号(自由席)

このブログも前々作、寝台特急はやぶさ」(前編・後編)に続いて前作、急行「日南4号」に引き続き2019年12月で消えてしまったyahooブログで書いていますが簡単な模写でデーターも不備が多く、一緒に旅をしたM君が生前に纏めて送ってくれた文章を元に新規で書き下ろしたものです。

 

1978年7月30日(月曜日)、普通2522列車~急行「日南4号」で門司港駅に到着した僕とM君は長崎本線佐世保線松浦線筑肥線他などを廻り、夜の門司港駅5番線で下り夜行急行「かいもん4号」の入線を待っていた。日曜日の上り夜行列車と違って、平日の下り夜行列車はサラリーマンの遅い帰宅の足として博多くらいまでは混雑しそうであるが今回は編成真ん中の自由席は混みそうなので敢えて外して先頭車の1号車乗車口に並んでいると機関車が後押しする推進運転(これを推進運転と言うのかは不明?)で急行「かいもん4号」の客車が入線した。

 

編成は先頭からスユ16+マニ50+①スハフ12(自由席)+②オハ12(自由席)+③オハ12(自由席)+④オハフ13(自由席)+⑤スハフ12(指定席)+⑥ナハネ20 1000(B寝台)+⑦ナハネフ22 1000(B寝台)の7両編成に郵便車と荷物車が1両ずつ連結。少し待たされて扉が開いたので自分達は1号車のスハフ12-67に乗車して車掌室側はディーゼル発電機の音が気になるのでやや2号車よりのBOXを陣取ってから牽引機を見に行くと鹿児島機関区のED76-54を確認。今夜の「かいもん」指定券の売上げ状態を確認しに行ったM君の報告によればB寝台も指定席も多数余っているとの情報である。

 

門司港駅からの乗車は思った以上に少なく、21:39に発車するとすぐに山陽本線と合流して門司駅(21:46-57)に到着すると早くも乗車があるけど、17分停車なので自分達は缶ビールを購入して乾杯の続きをしながら今夜も楽しむ。12系客車のテーブルに缶ビールが4本に煙草が2~3箱散乱していると一般乗客は近寄らない事は過去の夜行列車旅で覚えた事なのである意味気が楽だ。門司駅を発車すると6分で北九州市の中心駅でもある小倉駅(22:03-22)に到着すると下車する乗客も乗車する乗客も居たけど下車した乗客がやや多そうに思える。

 

小倉駅を発車すると戸畑(22:29)・八幡(22:36)・黒崎(22:41)・折尾(22:47-49)と停車していくと九州最大の駅でもある博多駅(23:29-0:11)に到着すると車内の乗客は殆ど博多駅で降りてしまった。繁忙期になると臨時夜行急行「かいもん51号」(博多23:23⇒5:42西鹿児島)や臨時特急「有明51号」(博多0:22⇒5:48西鹿児島)の設定もあるようだが今夜は運転がないようである。博多では42分停車だったが車内は空席も多く夏休み期間中でも月曜日は人手が少ないようだ。自分達も1BOX占領して前の席に脚を伸ばして早寝の準備をして安む。

 

既に車内は減光されているが夜行3連泊中なので疲れていたためかすぐに寝てしまった様である。睡眠中の停車駅並びに時刻は以下の通り・・・鳥栖(0:36-41)・久留米(0:48-56)・大牟田(1:18-19)・熊本(2:00-11)・八代(2:47-3:15)・水俣(4:05-08)・出水(4:25-28)・阿久津(4:51)・川内(5:21-25)・串木野(5:39)。目が覚めるとやや遠いけど海沿いを走っているようで日置郡(現日置市)の東市来駅を通過する頃には目と頭もシャキッとしてきた。伊集院駅(5:58)くらいでM君も起きて2人で煙草を吸って、紫煙を上げると今日も頑張るぞとヤル気が漲って来た。

 

そして下り急行 「かいもん4号」は指宿枕崎線と合流して6:16、西鹿児島駅へ到着したのである。今日は指宿枕崎線大隅線、日南線を走破して西鹿児島駅から徒歩数分でアクセスできる破格値だった「ステーションホテル琥珀」(シングル・オール込み2700円 鹿児島市西田2-27)というビジネスホテルにM君と泊まった・・・因みに当時の西鹿児島駅前にあった鹿児島東急INがシングル5500円だったから2700円の価値がお分かり頂けるだろう。翌日は寝台特急「富士」で帰る。

 

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★

 

 

急行 日南4号(自由席)

このブログも前作寝台特急はやぶさ」(前編・後編)に続いて2019年12月で消えてしまったyahooブログで書いていますが簡単な模写でデーターも不備が多く、一緒に旅をしたM君が生前に纏めて送ってくれた文章を元に新規で書き下ろしたものです。

 

1978年7月29日(日曜日)、「はやぶさ」で西鹿児島駅に到着した僕とM君は周囲のローカル線を乗り歩いて夕飯をすまし、西鹿児島駅のホームで今宵の上り夜行急行「日南4号号」を待っていた。改めお断りしておくが急行「日南4号(502列車)」になるのは宮崎から門司港西鹿児島から宮崎までは普通2522列車として運転される。夜行急行「日南」は1978年3月16日(上りは17日)より10系寝台車+旧客座席車から20系1000番台2両+12系客車5両に変わっているので対面が楽しみである。

 

18:35くらいに宮崎から急行「日南4号」となる普通2522列車が入線すると早速2号車となるオハ12-59(鹿カコ)へ乗車すると車内の冷房が気持ちいい。真ん中くらいの進行方向右手のBOXを陣取り、先頭へ行くと宮崎まで牽引する宮崎機関区のDF50-533が連結されて独特のズルーザーエンジン音を奏でていたが、実はDF50を実際に生で見たのは今回の旅が始めてだった。九州旅2回目のM君情報によれば足を伸ばして寝れるのは急行列車になる宮崎からとの事でそれまでは各駅停車の普通列車ゆえ、乗降りが多いとの事。あまり混雑しない中、1BOXに1名くらいの乗車率で普通2522列車は西鹿児島駅を定刻19:13に発車。

 

編成は前から⑦ナハネフ22 ⑥ナハネ20 ⑤スハフ12 ④オハフ13 ③オハ12 ②オハ12 ①スハフ12 最後尾には郵便車と荷物車の合造車スユニ61が連結されてる。なお7・6号車はB寝台車で5号車は指定席、4~1号車は自由席である。ナハネ20とスハフ12の連結部はホームから見ると屋根の高さに相違があるため、段差が何とも愉快で笑ってしまう。鹿児島(19:19-24)・隼人(20:04-09)「普通2522レの小さな駅は割愛します」などに停車しながら乗客が乗降りするけど本日は日曜日なので仕事帰りの乗車がほぼ皆無で西鹿児島へ買物や食事しに行ったファミリーの帰りが目立つ程度だ。

 

財部~五十市で鹿児島県から宮崎県に入り、宮崎県に入って3個目の停車駅となる都城駅(21:21-25)に到着すると多くの乗客が乗り込んできた。都城駅日豊本線以外に吉都線志布志線の始発駅や基点であり、交通の要所なのである。4分停車を終らした普通2522列車は次第に街を抜けて山之口駅から山間部に入り、大きなSカーブを走っているのが何となく分かるけど日豊本線の難所でもある青井岳で蒸気機関車時代は苦労したらしい。峠を降りると少しずつ街の灯りが見えて田野駅清武駅南宮崎駅などに停車して大淀川を渡ると宮崎駅(22:43-59)に到着すると9割近くの乗客が下車した。

 

宮崎駅では16分も停車するのでやっておきたい事は多数ある。DF50からED76への牽引機交代、そして飲み物の購入だ。先ほどの4分停車だった都城駅ではビールが買えなかったので宮崎駅では何としても補充したいものだ。取り合えず先頭に行くとDF50-533は外され、代わって大分運転所のED76-64に連結されるシーンをカメラに収めて冷えた缶ビールを求めて駅前を彷徨うとキリンビールの自販機を見つけて500mlのロング缶を購入(当時は煙草でも酒類でも自動販売機で深夜に買う事が出来た)。流石に南国宮崎は夜間でも暑くてビール探しだけで大汗をかく始末だったけど12系の冷房が有り難い。

 

宮崎駅からの乗車客もあったけど1BOXに1名程度で翌日は月曜日だから利用者は少ないようで22:59に普通2522列車から急行「日南4号」に変身して宮崎駅を発車した。西鹿児島駅から宮崎駅の各駅停車の旅、3時間30分で飽きてしまい、明日の朝も早いからもう寝ようかとM君と話して宮崎駅で買った缶ビールを飲み干して煙草を一服吸ってから就寝準備に入った。お互いに足を出し合って寝るだけなのだが車内は減光されたので2人で休む。列車は宮崎駅を出ると宮崎神宮(23:06)・砂土原(23:13)・高鍋(12:32)の順に停車するがいつの間に寝てしまったようである。

 

就寝中の停車駅と時刻・・・日向市(0:08)・南延岡(0:32)・延岡(0:36-44)・佐伯(1:54-59)・津久見(2:21)・白臼(2:32)・坂野市(2:58)・大分(3:13-4:09)・別府(4:20-21)・豊後豊川(4:34)・日出(4:46)・宇佐(5:18)・柳浦(5:26)・中津(5:46)・宇島(5:56)・行橋(6:13-14)。深夜にトイレで起きたら津久見駅で下り急行「日南4号」とすれ違うシーンが目撃出来たが昨夜は爆睡してたようで朝気が付いたら小倉駅の手前で車内がそこそこ混雑していたのは知っていたけど小倉(6:37-39)でも寝たフリをして惚けていた。流石に門司駅(6:46-58)まで来ると限界でM君と朝から派手に煙草の煙を上げる。

 

通路にいたオバサンが早朝から煙草吸うなと言いたそうな顔をしてるけど当時は急行列車は煙草を吸えて当たり前だったのに言いたくても言えない奴を逆手に取って遊んでいた。門司を発車すると約8分で終着駅の門司港に到着するが急行「日南4号」の車両が今夜の下り夜行急行「かいもん4号」に変わるらしい。定刻7:06に行き止まり式ホームの門司港駅に入線した・・・普通2522列車を含めると476.9km、11時間50分の旅でした。

 

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寝台特急 はやぶさ(後編)

3月8日にUPした寝台特急 はやぶさ(編)の続きとなります。

 

埴生駅長府駅の間では待望の瀬戸内海が見えたけど新下関駅幡生駅のちょうど中間で京都から来た山陰本線の線路と合流して幡生駅構内に国鉄幡生工場(現下関総合車両所)が見えてくるといよいよ本州最西端の下関駅(7:54-58)に到着した。ヒルネ乗客が乗って来る可能性もあるので窓際席に荷物を置いて番をさせ、M君と先頭を目指すと東京駅から遥々1096.5㎞もの長丁場を牽引してきた東京機関区のEF65-1108が外れて門司機関区のステンレスコルゲートが美しいEF81-301を連結したけどHMが付いてないため、盛り上がりに欠けるようだ。

 

自分自身北海道は4回、東北も3回旅してるのに西は岡山から先は処女地であり、EF81の300番台も初めて見たのである。自販機で缶飲料を購入してから6号車のBOXに戻ると誰もいなくて一安心、やがて「はやぶさ」は関門海底トンネルで関門海峡を越えてトンネルを出てすぐのデットセクションにてAC20kV・60Hzへ切替えて九州初めての駅もある門司駅(8:06-11)に到着。この駅でも先頭に移動してEF81-301が外されると変わりに赤いボディの交流機ED76-52(鹿児島機関区)が連結されるといよいよ発車なので車内を歩いて6号車へ戻ると車窓から海が見える。

 

北九州市の中核部である小倉駅を通過すると周囲に工場や大きな煙突が見えて北九州の工業地帯を走ると山手線の秋葉原駅みたいに1階と2階のホームがクロスした状態とそっくりな折尾駅鹿児島本線若松線筑豊本線)を一瞬に通過。車内販売が来たのでホットコーヒーを購入して飲みながらM君と車窓を眺めるが夜は上段寝台への梯子となる畳んだアルミの棒がやはり邪魔である。遠賀川を渡ると市街地を抜けて山間部から田園地帯を走ると今度は福間駅くらいから住宅地が広がってきた。香椎線と合流すると松本清張推理小説"点と線"の舞台となった国鉄香椎駅を通過して吉塚駅では篠栗線と勝田線と合流。

 

そして山陽新幹線の高架が近付くと博多駅(9:10-15)に入線、多くのヒルネ客が乗る可能性もあるので窓際に荷物を置いて5分停車の博多駅ホームを歩いて売店で辛子明太子を土産に求める。車内に戻るとヒルネ客は増えていたけど博多から熊本方面の優等列車は宮崎行きの特急「おおよど」(8:25発)と熊本行きの急行「ぎんなん1号」(8:58発)以来なのと前を走ってる「さくら」は鳥栖から長崎本線に入ってしまうため、「はやぶさ」のヒルネは需要がありそうだが我々のBOX(コンパートメント)はテーブルに煙草にライターが散乱してて煙草臭く、誰も寄り付かない。

 

博多を発車すると竹下客車区と竹下気動車区が見えて南福岡駅では門ミフこと、南福岡電車区の横を通り、581系583系485系や475系・457系などが停車しているのを発見。更に原田駅の手前で筑豊本線と合流して原田~基山間で福岡県から佐賀県へ入り、基山駅の先で甘木線と分かれると「はやぶさ」は鳥栖駅を通過して長崎本線を分かれ、筑後川を渡って久留米駅(9:47-48)へ入線した。終着・西鹿児島駅まで残り5時間弱であるが始めての九州は自分にとって印象的でもあり、地図を片手に車窓を眺めたり、九州は3回目のM君からガイドしてもらえてあれから43年の月日が過ぎたけど記憶に残っている。

 

久留米駅を発車すると久大本線と分かれて羽犬塚駅で矢部線と分かれ、更に瀬高駅では佐賀線と分岐すると大牟田駅(10:16-17)に到着。荒尾駅を通過すると待望の有明灘の海が見えてくるが通路側なのが残念である。海が見える区間は短いので昼食の弁当は何にするか時刻表で駅弁を探すと種類は少なそうが熊本駅では5分間停車するのでゆっくり探すとしようなんて考えていたら列車は熊本駅(10:58-03)に停車した。熊本駅では「はやぶさ」の付属編成(7~13号車)を切り放して身軽になるけど我々は昼ご飯用の駅弁探しで熊本駅の中華弁当(500円)を購入。

 

列車は熊本駅を発車すると豊肥本線と分かれて左手に熊本機関区と熊本客貨車区が見えてきたが多くの旧型客車などが停まっていた。当時は鳥栖から西鹿児島まで延々と8時間半以上走る長丁場の旧客の客車列車もあって駅弁を買うと食べてしまいたくなるけどまだお昼には早いので我慢。八代駅(11:33-34)を発車して日奈久駅を通過すると進行方向右側に待望の海が見えてその先には天草の島々が見えて来たので熊本駅で買った駅弁でお昼にする。中華弁当は焼売、春巻、酢豚など中華の副菜が沢山入った豪華中華幕の内弁当といったところ。

 

駅弁も満足したが有明灘の海と天草に更に沖合いに見える島原も見えて初めての九州なのに天気に恵まれてラッキーであった。国鉄山野線と合流すると水俣駅(12:26-28)に停車して袋駅を通過するとすぐに熊本県から最後の鹿児島県に入り、出水駅(12:45-52)に到着した。出水と言えば丹頂鶴の飛来地でも有名だけど今の時期はシベリアへ帰っているため一羽も見ることができなかった。上り特急「有明(1014M)」を待っているとキノコ型クーラーばかりで先頭車と最後尾がボンネットタイプの485系がやって来た。出水駅を発車した「はやぶさ」は折口駅を通過すると海沿いに出て暫し、海を眺めていると阿久根駅(13:15)に到着。

 

阿久根駅を発車すると「はやぶさ」の次の停車駅は川内駅だが時刻表に掲載されてない薩摩高城駅に停車、実は下り「はやぶさ」が深夜の兵庫県内で上り「はやぶさ」とすれ違っているが、ここ薩摩高城駅は二度目となる上り「はやぶさ」とのすれ違い駅で運転停車である。先に下り「はやぶさ」が到着して上り「はやぶさ」の通過を待つ形ですれ違うのであるが1乗車列車中に2回も姉妹列車とすれ違うのは寝台特急では「はやぶさ」と「富士」だけである(夜行急行では「きたぐに」も同じである。6号車の窓からすれ違いを待って急いでオハネフ25の展望区画で離合した上り「はやぶさ」を見送った。

 

薩摩高城駅での運転停車を終えると海から内陸部へ列車は移動するので東シナ海とはお別れだがローカルな景色から少しずつ町らしさが広がってくると国鉄宮野城線と合流して下り「はやぶさ」最後の途中停車駅でもある川内駅(13:53-54)に到着した。泣いても笑ってもあと28分で終着駅の西鹿児島駅「現鹿児島中央駅」(14:42)なので21時間57分・走行距離1518.2kmの長旅もあと僅かである。伊集院駅の手前では鹿児島交通・枕崎線の線路が近付き、車内では車掌が乗り換えの案内放送も始まり22時間近く住んだこの列車ともお別れの時がやってきた。長い道中だったが無事西鹿児島駅に到着。

 

ホームに降りて最後尾のオハネフ25-117のテールマークを眺めながら今回の長旅を振り返りながら自分達は乗り換えのホームに消えた。今回は人生初めての長距離ブルートレインの旅という事で伝えたい事が多くて余りにも長くなり過ぎたので前編と後編の二部制に分けたので文章が読みづらくなり申し訳ありません。

 

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寝台特急 はやぶさ(前編)

移転する前のyahooブログでは簡単な感想を綴っただけの文章で詳細時刻や乗車客車番号は全く掲載しなかったお粗末なブログであったが一緒に「はやぶさ」へ乗車したM君の一周忌も過ぎているため、生前にこのブログの資料を送ってもらった弔いを兼ねて当時の資料を整理して新たに書き直したいと思う。機会を見てHatena Blogでも1977年10月に乗車した「瀬戸」や1978年8月に乗車した「富士」のフル乗車レポートを新たに書き直してみたいものである。

 

1978年7月29日(土曜日)土曜日の大学講義は午前中で終わりのため、一旦帰宅後に東京駅13番線ホームの南口階段付近でM君と待ち合わせた。僕にとっては初めての九州ブルトレ旅で気分が高揚してて約束時刻より早く着いたがM君も同じ様で顔を見合わせて笑っていたら隣の12番線ホームには1列車こと「さくら」が15:53に入線。さくら・はやぶさ・みずほ・富士・あさかぜ・出雲1・4号・瀬戸の牽引機は昨日(1978年7月28日)から東京機関区のEF65P(500番台・旅客用)から新製配置したEF65PF(7次車1096~1116)へ置き換わっており、「さくら」の牽引機はピカピカに光った新車のPFだった。

 

そして続いて13番線には我々が乗る「はやぶさ」の回送が入線する時刻(16:25)になるともしかして牽引機はEF65Pだといい記念になるのだが希望的観測の夢は儚く消えてPF1108がはやぶさのHMを付けてPF独特の甲高いホイッスルを鳴らしながら入線した。自分達は指定券に表記のある基本編成の6号車で待機していると約1年10ヶ月に投入された24系25形の新しい車両がホームに入り、6号車の扉が開くと早速オハネフ25-117に乗り込み7番下段と8番下段に分かれて二人とも窓際の席をキープする。指定券はM君が指定券発売開始の7日前朝から並んでくれて入手してもらった。

 

先頭に機回しした牽引機を見に行くが東京駅発着のブルートレインはEF65Pの方が似合うと思うが決してPFが嫌いな訳でもなく、ただ宇都宮運転所のPFはスノープロウや尾灯上にある通風孔があり、パンタも大きいので好むがPF4次車以降は好きになれない。売店で缶ビールや飲料を買ってから6号車内に戻ると乗客は殆ど増えてないのは東京駅の発車時刻が早いためで静岡駅、名古屋駅などから乗り込むのであろう。16:45、東京駅発車を祝って缶ビールで乾杯するが、2人とも20歳を迎えてるので大手を振って車内で酒を飲んだり煙草を吸う事が出来る(苦笑)。

 

24系25形に乗るのは1977年10月の「瀬戸」以来2度目になるけどやはり2段ハネの25形はベッドに座っても頭上が高いのがいい。横浜駅(17:11-11)を発車すると6号車にも数人が乗り込み、大船観音が見えてくると「はやぶさ」より7分早く東京駅を先に発車した337M静岡行きを大船駅で退避させ、相模川(馬入川)を渡って平塚駅を通過した頃に営業開始のオープニング放送が流れたのでM君と8号車の食堂車へ行くとオシ24-5だった。0系新幹線や在来線特急の食堂車は食べた事があるものの、寝台特急の食堂車は初めてである。海が見える進行方向左側のテーブルに座り、メニューを見て考える。

 

まだ夕飯には時間的に早いので瓶ビールを注文して皿うどんをツマミに飲んで〆は焼肉定食なんかを頼んでしまうところがまだガキであった。帰路の「富士」では予定どうり関門定食を食べる事が出来たからいいがまだまだ甘いようである。小田原駅を過ぎると夕方の雰囲気になるが相模湾を見ながら食堂車でお酒や食事をする事に心地よさを感じて完全に嵌り、自分の鉄道趣味から関西発着九州方面の寝台特急は眼中から消えてしまったほどですっかり東京駅発着・食堂車営業中のブルートレインに魅せられてしまったのだ。

 

当時の食堂車夕食用の主なメニューは以下のとおり・・・ちゃんぽん 400円、皿うどん 400円、焼肉定食 750円、関門定食 800円、一口カツ定食 850円、幕の内 850円、グリルチキン定食 1000円、ハンバーグ定食 1000円、うなぎご飯 1100円、ミックスフライ盛り合わせ定食 1100円、シチュー・ビーフ定食 1200円他。小田原駅を通過して左手に相模灘の海が見えて来ると根府川の白糸川橋梁を渡って最高のロケーションを食堂車の窓から見つつ、食堂車を堪能していると熱海駅を通過する頃から夕暮れが迫って丹那隧道を出た頃には少しずつ漆黒の闇が迫って来た。会計を済まして自分にとっては初のブルトレ食堂車に充分満足して6号車に戻ると列車は静岡駅(19:13-15)に停車。

 

横浜駅発車以来、2時間2分もノンストップで走っていたのだが静岡駅では8名くらい乗り込み、乗車する時間帯もいいようだ。車内販売の冷えた缶ビールを飲みながら煙草を吸ってM君と鉄分の濃い話をしながらも明日「はやぶさ」が西鹿児島(現鹿児島中央)駅へ到着した後の予定などを話し合っていると静岡駅を出て2時間20分経過した次の停車駅でもある名古屋駅(21:35-40)に到着である。そういえば汐留駅を15:42に発車した熊本行き急行荷物列車「荷35列車」を大府~名古屋間で抜き去ったようだ。宮原機関区のEF58と浜松機関区のEF58重連の姿を目に焼き付ける事ができなくて残念。

 

既に車内販売は終えてる時間だし、当時は列車内に飲料自販機などなかったので5分停車を利用してホームの自販機で好みの缶飲料を購入してから車内に戻ると我が6号車も多くの乗車があって4割強くらいの乗車率になった。少し早いけど寝台をセットして浴衣に着替えて寝転がって小声でM君と話していたら岐阜駅(22:02-03)に到着したので明日も早いので就寝する。以降は就寝中の停車駅時刻・・・京都(23:35-36)・大阪(0:08-12)・三ノ宮(0:36)・糸崎(3:35)・広島(4:41-45)・岩国(5:19-20)。朝起きたのは6時少し前でトイレに洗面とハミガキから戻ったたらM君も起きていたので事を済まして着替えた。

 

はやぶさ」の基本編成は1号車のオロネ25を除いて厚狭からヒルネ対象になるのでその前に朝食を済ませようという考えで6:15くらいに8号車の食堂車(オシ24-5)へ行くと食堂車スタッフと車掌が朝食後のお茶を飲んでいたが少し待って6:20過ぎに向かい入れてくれた。朝のメニューは和朝食と洋朝食しかないので2人で和朝食を選んで運ばれて来た時に車内放送で食堂車オープンの放送が入り、続いて車掌のおはよう放送に代わった。和朝食はお料理盛り合わせ(鮭、蒲鉾、玉子焼き、山葵漬)にご飯・味噌汁・焼き海苔・香の物で別会計のコーヒーでお腹満足。

 

いつも自宅の朝はパン派のM君も東海道ブルトレ食堂車の和朝食は美味しいとベタ褒めだけど、会計して6号車に戻ると寝具やリネン類を上段寝台(結局朝までノンゲストでした)に投げ込んでカーテンを畳み、座席にするとは小郡(現新山口)駅(6:51-52)へ滑り込んだ。小郡といえば翌年の夏から梅小路機関車館で動体保存されてる蒸気機関車を整備して山口線でSL列車が運転されるらしい。小郡駅を発車すると30分で次の停車駅でもある厚狭駅(7:22-23)に到着するが6号車にはヒルネ客が数名乗ったけど早朝から2人して煙草の煙を上げている我々のBOXには誰も来ない(苦笑)。

 

今回のブログは物凄い文字数が増えたので来週へ後編として続きます。続きは1週間後に「寝台特急はやぶさ(後編)」としてUPします。

 

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🍴夜行列車の味・東北編1🍱

2020年12月21日からスタートした新企画の🍴夜行列車の味🍱ですが2021年1月18日UPに続き、第3部として本日は東北編1として東北本線常磐線を走った夜行列車で味わった夜行列車の味覚を紹介したい。奥羽線羽越線は東北編2として3月か4月の何れかに紹介してゆきたいと思う。常磐線東北線のバイパス線として多くの夜行列車が走っていた1970年代から1980年代前半は深夜に駅弁を売る駅が多く、夜行列車だけでも数え切れないほどの本数が確保されていた。深夜に寝ている客が多い寝台特急は駅弁屋も相手にしないけど座席夜行は深夜でも起きてる乗客も多いため、固定客も少なくないようである。

 

前回は北海道だったので今回は北東北の青森駅から開始しよう。上り青函連絡船6便に接続していた青森23:59発の上り寝台特急はくつる」や青森0:03発の急行「八甲田」が発車するまで営業していたホームの稼動売店では夜遅くまで売っており、自分も残り僅かな帆立釜飯や他の駅弁を当時まだ旧型客車や12系だった急行「八甲田」の車内で頂いたのは思い出深い。更に東北線を南下すると14系になった下り急行「八甲田」が盛岡駅に到着すると朝6時前なのに3社の駅弁メーカー(村井松月堂・むつ弁・伯養軒)が駅弁山積みのワゴンで朝食を売ってお世話になった人も多いだろう。

 

さらに早朝というか、未明の4時半に一ノ関駅では下り急行「八甲田」の乗客のために暖かい駅弁を提供していた。本件は1993年11月19日に乗車した廃止が近い、下り「八甲田」の想い出乗車レポートとして2019年11月14日にブログUPして紹介しているが作りたての松茸弁当はとても美味かった。急行「八甲田」が臨時になってから多少時刻があったけどその後に松茸弁当などを売っているのかは不明である。仙台駅は下り夜行急行も上り夜行急行でも寝ている時間帯ゆえ、深夜に駅弁を売っていたのかは失念しており、詳細は不明である。

上記1993年11月19日乗車の惜別「八甲田」の記事 

https://hokutosei-95.hatenablog.com/entry/2019/11/14/042009

 

更に東北線を進み、福島駅でも1982年くらいまでは深夜帯に夜行列車の乗客向けに駅弁を提供していた駅でワゴンを押した業者が数名でホームで売っていた。福島駅は多くの夜行列車が発着(「八甲田」23:12-14・「津軽1号」23:45-53・「おが」1:35-2:01他多数)していたし、特に奥羽線へ入る急行「津軽」や「おが」は牽引機を交換するため、長く停車する列車が多いので駅弁意外にビールや飲み物補給するのには便利な駅であった。黒磯駅も夜遅くまで駅弁をホームで売っていた駅であるが駅到着するとすぐに先頭まで移動してEF58(のちのEF65PF)からED75への機関車交換があるための見物で駅弁を買う機会が無かったのである。

 

しかし上り夜行列車の黒磯駅到着は朝食時間に都合よく、「津軽4号」7:35-42、「八甲田」8:26-36と朝飯時間にピッタリなのだ。私がよく利用したのは九尾釜めし、九尾寿司、高原肉めしで駅弁の立売りとは別に味噌汁代わりのなめこ汁の立売り人が大きなヤカンを持ってホームで立売りしてたため、窓を開けて駅弁やなめこ汁を買う事が出来て本当にいい時代であり懐かしい。他にも下り急行「八甲田55号」(上野22:49⇒11:00青森)や下り夜行急行「いわて3号」(上野23:32⇒8:13盛岡)の花巻駅でとりめしを買ったり、上り臨時夜行「八甲田52号」(青森15:49⇒4:50上野)の野辺地駅で立売り販売人からとりめしを買った事も簡単に付け加えておく。

 

次は常磐線へ乗り入れてみよう。常磐線は定期列車と季節列車含めれば3往復の急行「十和田」に一往復の臨時夜行急行が駅弁屋さんのターゲットで最大7往復あった寝台特急ゆうづる」群は停車時間も短くて,一部を除いて深夜の弁当屋には相手にされてなかった。原ノ町駅では1981年か1982年くらいまで急行「十和田1号」(上野20:10⇒8:12青森)や急行「十和田3号」(上野20:50⇒9:07青森)を対象に鮭めしやかにめしを乗客に提供していた。更に平駅(現 いわき駅)では下り急行「十和田2号・後の十和田3号」の12分停車(23:52-0:04)を利用してホームでうにめしや平凡な御弁当を深夜の乗客のためにホーム立売りにて提供していた。

 

最後の常磐線茨城県の県庁所在地駅でもある水戸駅だ。水戸駅は深夜早朝の駅弁販売は行わないが下り寝台特急ゆうづる7号・後のゆうづる14号」(青森23:35⇒8:46上野)と上り急行「十和田3号・後の十和田6号」(青森21:35⇒9:54上野)の2本が対象だが幕の内弁当を発売していた。上記に上げた夜行列車のために通常営業時間外でも遅い夕飯に、更に夜食のためにホームで売ってくれて一部は列車の窓を開けて買えた駅弁もあり、旅行者にとってはありがたいサービスである。今回は駅弁中心にピックアップしたが青森駅では日付が変わる15分前まで八甲田のホームで立ち食い蕎麦「伯養軒の津軽そば」が営業して盛岡駅では14系「八甲田」のために6時前からホームのそば屋を営業してた。

 

今回登場した駅弁でまた食べれたら食べてみたいと思うくらい美味しい印象に残っているのは青森駅の帆立釜飯(大きい帆立貝が2~3個乗った駅弁でその後に発売された小さな姫帆立貝が沢山乗った帆立釜飯とは違います)、一ノ関駅のまつたけめし、平駅のうにめし等など。さて次回は4月か5月くらいに夜行列車の味・東北編2で奥羽線羽越線を紹介したいと思うが、しかし青森駅と福島駅はすでに紹介済みなのでもう少しエリアを広げたいが夜行列車が走ってた区間は他に急行「出羽」の陸羽西線と「あけぼの」の陸羽東線くらしかなくて深夜早朝に駅弁を売ってた駅はないため、ネタに苦労しそうである(苦笑)。

         ★★★★★Memories of the night train★★★★★